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楠木正成の出自について

楠木正成の出自や前半生は不明で彗星の如く現れたなどとよく資料で見かけますが、楠木正成は一武将です、戦時に兵隊を確保できる武将であるという事はある程度の地位に居たか所領を持っていたはずです。そうするとそういった事が書かれた資料が無いというのは不自然ではないでしょうか? 朝敵となった事で資料が抹消されてしまったのでしょうか?それとも当時はまだ土地の所有した記録や台帳のようなシステムがなかったのでしょうか? よろしくお願いします。

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

鎌倉時代では、ある時期の ある国の守護が誰だったか? というのも分からないところがあります。その程度です。 朝廷は基本的に「文章主義」でしたので、だれをどこの国史に任命したというのが残っていることになっています。(紛失している部分もありますが) 幕府の正規の役職でもこの程度なので、幕府にも朝廷にも属していない「悪党」である楠木正成の前半生が分からないのは当たり前です。 楠木正成の初見は「河内に楠木云々の悪党がいて」というのだと記憶しております。

noname#58114
質問者

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回答ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • Pinhole-09
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回答No.3

先賢のNo.1,2の答えの通りです。 当時のものは相当な有名人でも、資料が残っていないのは当たり前です。 正成のものは「正慶元年頃、臨川寺領和泉国若松庄に悪党楠木兵衛尉なるものが押し入って乱暴をした。」との資料が最初のものです。   「ひょうえのじょう」の官位を持っており、時期から見ても後醍醐天皇に招かれ倒幕に立ち上がった後で、兵糧の調達をしたものでしょう。 このように寺領や荘園の年貢米を横取りしたものを、当時は悪党と呼んだので後世の山賊のような悪党とは違うようです。 楠木氏は河内の赤坂辺の土豪で、散所の民を束ねていたいたと推定されています。   散所とは領主の下で運送、労務などの雑役に従事する流民で、これらを束ねる者は運送などの際に必要な武装をしていました。 楠木氏の赤坂は名の通り朱の原料になる、貴重な辰砂(しんしゃ)の産地で産を成し財力があったと考える学者もいます。

noname#58114
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

  • sudacyu
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回答No.2

 楠正成は「悪党」出身で、その有力リーダーではないかと言われています。  この「悪党」と呼ばれる集団は、主に流通業を生業として商業的利益を経済基盤としていました。  日本の各地域の経済力が増し、農業を基本とした自給自足経済から、商業的流通が日常的・組織的に各地域間で成立するようになって、力を付けてきた人々です。  流通をになう人々ですので、荷物を守る必要から、日常的に武装しており、馬などの家畜の扱いのプロですし、かなり広い地域の交通・地形を熟知していました。  ですから、土地に土着した人々ではなく、他人に管理されることのない特殊技能集団だったので、有事に結束して動いた時、突如として有力武装集団が現れた形になったと見られています。  尚、武家社会が成立し農民が完全に武家によって統制された時代になっても、古くからの狩猟民・流通民・河原者(主に芸能者)など農地を生活基盤としない人々は、天皇家を自分達の宗家と考える意識を持ち続けました。  室町時代終わりごろ、皇族・摂関家出身者がトップとなっていた有力寺社には、商業者の座の本部がおかれることが多く、天皇家の菩提寺であった泉湧寺は、飢饉の時は河原者などに炊き出しをするなどして、彼らを保護しました。

noname#58114
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

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