楠木正成は忠臣だったのか。
楠木正成は忠臣とされています。負けると分かっていて、南朝のために湊川の合戦に向かうなど、行動だけ見ると忠臣としか思えないでしょう。水戸黄門も「嗚呼、忠臣楠子の墓」と湊川神社にある墓に刻んだほどですから。井沢元彦も「誠の忠臣」としています。しかし、私には信じられません。どの侍も家名を守ることが第一で、主君のことは二の次のはずです。何か、打算があって、結果的に湊川の合戦で討ち死にしたのではないでしょうか。新田義貞にしても足利尊氏との対抗のために南朝に従ったのであって、忠誠心からではないと思います。楠木正成は後醍醐天皇に「足利尊氏と和睦すること」を進言したとも言われますが、その進言を拒否されても南朝に従わなければならない理由があったのではないでしょうか。楠木正成にどのような打算があったか、知っている方がいらっしゃればお教えください。よろしくお願いします。
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