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大乗非仏説の立場から見た「諸行無常」
「諸行無常」とは、無智の私が俗な言い方をすれば「すべてのものは流動的なものであって、変化し続ける」というようなことだと理解しています。この諸行無常ということについての質問です。 (1)大乗非仏説という立場から見たとき「諸行無常」という教えは、お釈迦様の教えであるといえますか??経典的論拠も示していただけると助かります。 (2)もし、お釈迦様の教えであるというのであれば、諸行無常は仏教に関しては例外ですか??それとも、仏教も諸行無常なのでしょうか??こちらも、教典的な論拠を示していただけると助かります。 わかりにくい文章とは思いますが、どうぞ文意を読み取っていただきたく存じます。回答よろしくお願いします。
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<<「変化する」というのは、あくまで意図的に「変化させる」のではなく、なんとなく「変化しちゃう」という意味です。>> <<「出来る限り変えないようにしようと言う努力を積み重ねている、テーラワーダの考え方に賛同しています。」大乗とて同じ立場です。>> それは知りませんでしたw …分裂直後のお坊様方の戒律や瞑想などの実践と今の(多くの)大乗の方々との実践はどのぐらい変化しているのでしょう。私には知る機会がないですが…。 「大乗とて同じ立場」と言うことは、大乗にも分裂後に、「ここまではこのようなものをこのように変化させたがこの先はこのような方法を持って変化させないようにする」と言うような事を具体的に提唱し、その努力が垣間見れるものが数多く残っているのでしょうね。 大乗に関してはひどく無知なのでそのようなものに出会っていませんでした。 <<私もそう思います。教科書と評されるだけあって、典拠主義にもとづいた名著です。>> ですよね。このあくまで理性的な態度には読むたびに感動させられます。経典自体も多いし、言葉の意味も結構狭くなっているので解釈の幅が狭く、伝わりやすいのがパーリ語の三蔵の優れた点の一つだと感じています。 <<これについては、保守派の上座部と進歩的な大衆部の「根本分裂」を彷彿とさせます。前者がテーラワーダ仏教、後者が大乗仏教へとなって行きます。このときの根本分裂も、それくらいの差異から始まったと考えられます。>> 私も最初はわずかな差異だったと憶測しています。しかしどこかで変化の許容の歯止めをかけなければ、際限がないんですよね。始めに禁止していたものさえ入り込んでしまい、マ逆のものになる可能性も出てくる。 初期の大乗の方々も個人的には賞賛に値する実践をしていたのではないかと憶測しています。今も賞賛に当たる方々は多々いらっしゃるでしょうが、実践を伴わず、説かず、自分の寺の教えすら守らぬ…在家にすらあたらない生臭坊主が私の目にするところに多く存し、本当に残念で仕方ありません。 一応兄弟のようなものですから心配はしているのですが… <<それが、大乗の始まりであると思います。>> そうなんでしょうか。以前の教えを否定するものすらあるきがします。 <<「何かを「仏法」とするなら仏陀が語られたものと参照し、論理的理性的道徳的に矛盾がない、ことが条件にあった気がします。」もちろんその通りですね。>> 本当に大事なことですよね。 道徳的論理的理性的現実的実践的で矛盾がないことが仏法の核だと感じています。 <<これについても、仏教の歴史から言えば最晩年に成立を見た「密教」でさえ、お釈迦様在世の時からパリッタ(防護呪)が認められていたことからも、当時からその芽生えがあったものと考えられます。>> 「道徳的・論理的・理性的・現実的・実践的・矛盾がない」この範囲を越えなければ問題のないもでしょうね。越えなければ。 <<そういった意味では、誰かが意図的に変えたわけじゃなくて変化しちゃうものなんじゃないかと思うんですよね。>> パーリ語の経典も変わらぬように努力しているが大きな歴史の波によって経典事態が全てなくなったり(可能性は低いですが)、具体的な実践方法を伝えてきた方々がいちど全て途絶えてしまったり(比丘尼も独特な伝承などがあったかもしれませんね)、言葉の問題で(パーリ語自体は単語の意味が狭く、同じ事を幾多の言葉を使って喩えたりしていますのでわずかなものだと憶測しますが)解釈が変わったり。パーリ語自体読める人間がいなくなったり。文化が古代と大きく変容し、喩えなどの解釈が困難になったり…そのようなこともあるでしょうね。 なんにせよ自分の可能な限りの理性を持って数多ある教えから、納得がいくものを探して、噛み砕いて、実践して確かめていき、それを真理と結びつけず、「この範囲でこうだったからこう思う」と真理の護持の態度で「他は全て間違いだ」と言う態度はつつしみ、挑む。それがパーリ語仏典の示すところの「信」の持ち方だとおもいます。 いろいろな信があるとは思いますが、共に精進いたしましょう。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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- neil_2112
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現在の文献学的な仏教学の立場では、いかに古いものでも金口の直説たる経典は存在しない、ということになっています。ですから、大乗非仏説という立場自体に疑問符がつきますし、そもそもそこに経典の論拠なるものが求められるはずもありません。ご質問の背景がよくわかりませんが、まあその点は措いて、以下はいわゆる原始経典に論拠をとって回答します。 (1)お釈迦さまの教えである、と言えます。 諸行無常という言葉自体は比較的後のものですが、「無常」という言葉やその類なら非常に早くから出てきます。スッタ・ニパータやテーラガーターには脆くはかない身体を慨嘆する直截な言葉が数多くみえますし、もう少し整った形なら、サンユッタ・ニカーヤ(漢訳の雑阿含経)などでも非常に沢山説かれています。 例えば雑阿含経1-1「無常経」(抄訳)。 「お釈迦さまは弟子達にこのようにおっしゃった。色を無常と観じよ。このように観ることを正観といい、正観するものには厭離が生まれる。 厭離が生まれて執着を離れたものを解脱したものという。同じように、受・想・行・識も無常と観じよ・・・」 同じく1-11「過去無常経」には、「過去・未来の色は無常である。ましてや現在の色が無常でないわけはない。我が弟子達は、過去の色を顧みず、未来の色を願わず、現在の色を厭離して正しく滅盡に向かえ・・・」とあります。 また同じく1-16「解脱経」には、「色は無常なり、無常とは苦なり・・・。同じく、受・想・行・識もまた無常なり、無常とは苦なり・・・」。有名な長老ヴァッカリとの対話を含め、同様の内容が雑阿含経の中には頻出します。少し大げさに言えば、ページを開けばどこにでもこのようなことが書かれているのです。 もちろん、よく誤解されるように無常そのものがダルマであるわけではなくて、無常は事実つまりダルマの表れたる現象として説かれたわけですが、無常がお釈迦さまの口から実際に出た言葉であることはまず疑いのないところでしょう。 (2)原始仏教の無常の説き方は、そもそも非常に限定的なものです。人間の具体的な生き方に即してのみ説かれたのですから、教えの内容それ自体も無常かどうか、という質問そのものがナンセンスと言えるでしょう。 論拠というのなら、先に挙げた例を読んでみればわかります。古い経典に繰り返し無常だと説かれていますが、それは何についてかといえば、まずは五蘊つまり色・受・想・行・識のことに他なりません。大事な点ですが、原始仏教は生身の人間の主体的な世界における苦しみを解決すべく説かれたのであって、そこでいう「一切」とはせいぜい十二処・十八界のことなのです。 つまり、「一切は無常である」という言葉の本来の意味は、「私が、死の危機に常に襲われている脆いこの体でもって知覚し生きているところのこの世界ははかないものである」という、極めて限定的な意味だったのです。そのような主体的な問題として説かれた「無常」を、勝手に命題レベルにまで拡大してその教え自体の当否を問うというのは、たとえて言えばちょうど、生き物を念頭において「全てのものは死に向かう」とする命題そのものもまた死ぬのか、と尋ねるようなもので、まったく意味のないことです。 (敢えて付言すれば、後のアビダルマ仏教はそれまでの身の回りの主体的な世界観を、命題や論理を含めた客観的な体系にまで拡大しようとしたわけで、そのひとつの結果がアビダルマの五位七十五法です。周知のとおり、ここでは解脱は無為法として縁起の外に置かれたわけです) もう少し言えば、無常というものを単に「流動的なものであって、変化し続ける」と理解していると、このような錯誤に陥りやすいのであって、無常はやはり、常に縁起と合わせて、というか縁起を根本において理解しないといけません。経典が「生ずるものが滅する」というのは、別に客観的で科学的な真理のはなしではなくて、私たちの苦しみは無明があれば生まれるし、無明がなければ無くなる、ということを言いたいわけで、つまり人間という存在の宗教的な問題を扱っているわけなのです。 以上のようなことは、失礼ながら仏教学の基礎といっていいようなことで、実際に原始経典を少しでも読めば、専門であろうとなかろうと、誰にでも感じられることではないかと思います。どのような立場の人にも言えることでしょうが、そうした原典を読むことなしに我流の解釈を重ねてわかった気になるのは大変危険なことではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。まさに模範解答。すばらしいですねぇ。 >>以下はいわゆる原始経典に論拠をとって回答します。 つたない文章から、文意を読み取っていただき感謝します。 >>(1)お釈迦さまの教えである、と言えます。 やはりそうですよね。わたしも『スッタニパータ』『ダンマパタ』『雑阿含経』は読ませていただきました。「諸行無常」という言葉自体はありませんでしたが、無常という言葉は数多く読み取れました。 >>無常そのものがダルマであるわけではなくて、無常は事実つまりダルマの表れたる現象として説かれたわけです 非常に端的でわかりやすい説明痛み入ります。 >>原始仏教の無常の説き方は、そもそも非常に限定的なものです。人間の具体的な生き方に即してのみ説かれたのですから、教えの内容それ自体も無常かどうか、という質問そのものがナンセンスと言えるでしょう。 なるほど確かにそうですね。 >>無常はやはり、常に縁起と合わせて、というか縁起を根本において理解しないといけません。 >>私たちの苦しみは無明があれば生まれるし、無明がなければ無くなる、ということを言いたいわけで(中略) 私もそのように思っています。 ただ、原始仏教経典といわれる『雑阿含経』第二十二の中に気になる文言があります。 「如来の正法の滅せんと欲すとき、相似の像法が世間にでおわりて、正法すなわち滅す」 とあります。仏教はかなり初期の段階で「法滅思想」を内在していたように思います。さて、この文言は「諸行無常」のうちにははいらないのでしょうか?? >>どのような立場の人にも言えることでしょうが、そうした原典を読むことなしに我流の解釈を重ねてわかった気になるのは大変危険なことではないかと思います。 と叱られたばかりですが、先の解釈どうぞお許しください。この問題に関しては経典類を読み直して考えなくてはいけないようです。たわごとにお付き合いいただきありがとうございました。
baka-hageさん こんにちは。brageloneです。 この間 わたしの設問にお目がとまったなら さぞや苦い感じを覚えていらっしゃったかと存じます。お互い それでもさらに真理を探究してまいりたいと存じます。 さて このご質問 どうお応えしてよいやら 考えあぐねていましたが――というよりも 出典として引く経典のことについては ほとんど無知ですので 手も足も出なかったのですが―― 少し考えが浮かんでまいりました。と言っても きちんとお答えするまでには 残念ながら 至りません。 けっきょく baka-hageさんがご自身で 探究していかれるであろうと思ったのが ひとつ。もう一つは この問題は 三身常住という主題にかかわっているのではないかと思ったことです。 端的には 《法身》 これは 《絶対》であるのか。そう想定されているのか。ここに収斂していくように思います。おまけとしてなら 《応身》としてのゴータマ・ブッダは 神(=法身)の受肉であるのか。 このgooでもわたしは問いましたし その昔 途中まででしたが この主題で 難渋していたのでした。 〔《Q:三身常住とは何か。= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3130694.html 》(ただし この質疑応答では あっちこっち焦点が飛んでいます)〕。 《諸行無常》もしくは そのように空観する法身は もう《無常》ではないのか。無常でないだけではなく 絶対として想定されているのか。 繰り返しになりますが 応身仏は 人(ゴータマ)であり 絶対者(法身)であると言っていいのか。 わたしは 残念ながら 原典のこともわかりませんし その判断についても 決めかねつづけています。(暫定的には もう ブッディスムは経験思想であると規定しています。ゴータマは 人でしかないという捉え方です)。 こんな投稿ですが 何かのきっかけにでもなりましたら幸いです。
お礼
どうもどうも。お世話になります。毎回目ざとく見つけていただき、感謝いたします。 >>三身常住という主題にかかわっているのではないかと思ったことです。 また、話を難しくしますねぇ!笑 >>端的には 《法身》 これは 《絶対》であるのか。そう想定されているのか。ここに収斂していくように思います。 確かにそういわれればそんな気もしてきますねぇ。 ちょっと話は脱線しますが、僕の考える「三身常住」です。個人的には「法身」自体は、無常ということも包括した法則そのものと捕らえます。「報身」は菩薩がすべてのものを救わんと誓いを立て、その誓いを果たすべく修行を積んでその報いとして完成された仏様。「応身」はお釈迦様。この「三身常住」というのは、仏様の中にはこの三つがすべて備わっているということになると思います。善導大師は『往生礼讃』のなかに、 「諸仏の三身は同証にして、智慧円に無二なるべし」 と説かれています。つまり、すべての仏様は共通の悟り(証)をもっていて、その悟りの智慧は円満で悟りは二つとあるものではない。ということであると思います。 そして、法然上人は『逆修説法』の中で、 「一切の諸仏内証等しく具して異なることなき故に、諸経の中に仏の功徳ををば説かず。ただ別して外用の功徳を説くなり。」 と説いて、三身は共に同じ悟りを持っている。だからこそ、同じである内面敵に働く悟りをお経では仏さまごとに説明ぜずに、外への教化としての悟りの働きという悟りへの導き方の違いを説くとしています。 つまり、「三身常住」であるけれども、その導き方には「三身」というキャラクターの違いがあるってことだと思います。 >>こんな投稿ですが 何かのきっかけにでもなりましたら幸いです。 うーん。なんかきっかけになったような気がする。ありがとうございました。
「色即是空」と言う言葉はご存知ですよね。 「諸行」とはこの「色」の事をいい「諸法」も同じ意味です。 「般若心経」と言う削りに削って書かれたはずの短いお経の中に、「色即是空、空即是色、色不異空、空不異色」と同じ意味の語句が四度もくどいように出てくるのは何故でしょう。 それはこの「色即是空」がすべてだからです。 それ以外はすべて「色即是空」の説明だけなのです。 1)は教えというより、人も世界も宇宙ですらも、一定ではありえないと言う様相を説明したものです。 「完全とか永遠などと言うものはありませんよ」と言うことです。 2)の質問はあなたの認識に大きな誤りがある事を示しています。 今ある仏教は仏教ではありません。 これがいい過ぎなら、少なくとも「釈迦教」ではありません。 大乗非仏説もその他の教義(お経)も、後の人々が考えた(解釈した)もので、そこにはその人の考え、願いが、いやおう無く反映してしまうからです。 その意味では、あなたの言われた通り「仏教も諸行無常」なのかも知れませんね。(笑) 「野球の本を読み漁っても、野球がうまくなる事はありません」 野球をやり、野球と格闘してはじめて、野球がうまくなり、野球がわかってくるのだと、私は思っています。 回答にはなっていませんが、参考にしていただければ幸いです。
お礼
回答ありがとうございます。簡潔で難しい言葉をできるだけ使わないようにしていただいていることが伝わって参ります。 >>それはこの「色即是空」がすべてだからです。それ以外はすべて「色即是空」の説明だけなのです。 「般若経典」を中心に説かれている空思想は、いかなるものも、他のものに直接ないしは間接に依存して生起しているしていると見て、互いに依存している存在であるから絶対的に固定のものではなく、それを「空」と結論付けるわけですね。確かにおっしゃるように、この空思想はお釈迦様が菩提樹の下で悟られたといわれる悟りの根幹である「縁起」の思想を基にしています。 >>「完全とか永遠などと言うものはありませんよ」と言うことです。 そのとおりだと思います。 >>今ある仏教は仏教ではありません。これがいい過ぎなら、少なくとも「釈迦教」ではありません。 こういうお答えの方を待っていました。これはなぜそのようなことが言えるのでしょうか??お釈迦様が「諸行無常」を観じていたならば、変化することは見越していたように思います。それとも、自分が亡き後も「自分の教え」だけは変化しないと考えていたのでしょうか?? もし変化することを見越していたならば、変化を見越して教えを説いていたはずと考えるのが自然です。「釈迦教ではない」というのは確かに上座部仏教にしろ大乗仏教、大乗非仏説にしろお釈迦様自身の著作は残っていません。変化することの無い釈迦教を仏教と呼ぶか??釈迦教を基礎に変化し続けるものを仏教と呼ぶか??どっちなんでしょうね。 まぁ、そんなたわごとをふと思っての質問でした。 >>「野球の本を読み漁っても、野球がうまくなる事はありません」 >>野球をやり、野球と格闘してはじめて、野球がうまくなり、野球がわかってくるのだと、私は思っています。 まったくです。たわけた質問にお付き合いいただきありがとうございました。
- Samantabha
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経典の根拠については私も示せないのですが、先の回答にもあるとおり、諸行無常から脱することが仏教の目的だと思います。 この「諸行無常」という言葉ですが、典拠は『涅槃経』です。「諸行無常、是生滅法。生滅滅已、寂滅為楽」という「雪山偈」の一部です。これはお釈迦さまの前世の姿である雪山童子が羅刹に聞いた偈ということになっています。 これを訓読すると、「諸行は無常なり、是れは生滅の法なり。生滅滅し已わって(おわって)、寂滅を楽と為す」となります。 つまり、「我々の世界は無常である、そしてそれは苦である、だからその苦を脱して、永遠の楽である涅槃の地を求めるのだ」ということになります。 「諸行無常」というのは「この世界は無常で苦である」→「だからこの苦から脱するのだ」という仏の教えを説く時の“前提”であって、「仏の教えや悟りの世界も無常なもの」と言っているわけではないと思います。 ということで、 (1)お釈迦さまの教えといえばお釈迦さまの教えといえますが、「この世の中は無常である」と、お釈迦さまが見て取った、ということだと思います。 (2)お釈迦さまの教えも、ある意味、流動的です。それは対機説法であって、個人個人の資質に合わせて法を説き、八万四千の法門があるといわれることからも「常」ではないと言えると思います。 けれども、仏教の最終目的は、「諸行無常」の世界から脱して「常楽我浄」の涅槃に入ることです。涅槃の世界は「常」であると積極的に説くのが大乗仏教です。上座部仏教で涅槃を「常」と説くかどうかについては私は不案内ですので分かりませんが、少なくとも、上座部でもこの世の中を「諸行無常」と見ていたことはほぼ間違いないと思います。 なんだか、あまりきちんした回答にならなかったかもしれませんが、意をお酌み取りいただければと思います。
お礼
回答ありがとうございます。非常にやさしい言葉で記していただいて、わかりやすく読ませてただきました。 >>この「諸行無常」という言葉ですが、典拠は『涅槃経』です。 >>これはお釈迦さまの前世の姿である雪山童子が羅刹に聞いた偈ということになっています。 「玉虫厨子」に描かれたものですね。確かあれは聖徳太子の前世譚になっていましたけど、間違いなく『涅槃経』の物語ですね。 >>「諸行無常」というのは「この世界は無常で苦である」→「だからこの苦から脱するのだ」という仏の教えを説く時の“前提”であって、「仏の教えや悟りの世界も無常なもの」と言っているわけではないと思います。 確かに「悟りの世界(以下、出世間と呼びます)」は諸行無常ではないと思います。しかし、出世間の教えを「娑婆世界(世間)」に説くわけですから、出世間を今一度脱して世間に戻す作業、つまり「出出世間」が必要になると思うのです。 だからこそ、お釈迦様の伝記を見れば菩提樹の下で悟られて後、お釈迦様はご自身の教えを娑婆世界に広げるかどうかを悩まれたのではないかと思うのです。 >>「この世の中は無常である」と、お釈迦さまが見て取った、ということだと思います。 私もそのように思います。 >>個人個人の資質に合わせて法を説き、八万四千の法門があるといわれることからも「常」ではないと言えると思います。けれども、仏教の最終目的は、「諸行無常」の世界から脱して「常楽我浄」の涅槃に入ることです。 ここです。ここが「出出世間」なのではないか。このときに数多く方法をもって「常楽」へと導く「出出世間」であっても、「世間」に存在している以上「常」であることはないのではないか?? と思ったわけです。まぁ、私のたわごとですね。気になると聞きたくなっちゃうんですよ。私の悪い癖ですね。お付き合いいただきまして、まことのありがとうございました。
もっとよりよい回答がつくと思いつつ、仏教嫌いが回答してみます。 (1)違います。 (2)違うから、別に変化しても構わない。 要は、「諸行無常」がお釈迦さんの目指した真理なのか?って ことだと思います。 よく考えてみてください。「変化することが繰り返される」というのは まぎれもなく「輪廻」ですよ。 四門出遊のエピソードによると病人と老人と死人をみて最後に 出家者を見て出家していますよね。 で、諸行無常というのはどちらかというと、 お釈迦さんが嫌がったほうに、属しますよね。 その一方、涅槃の境地は不変ですよね。 つまり、諸行無常の世界から不変の涅槃の境地に到達することが 目的だったのであって、いわゆる、インド的思想に どっぷり浸かってると思います。つまり、諸行無常は インド的な一般常識で(輪廻転生)、それが嫌で、バラモンでなくても そこから解脱するために出家者がいたのでしょうから。 それに解脱知見は不変だと思います。 つまり、一度、解脱した人間はまた前の状態に戻るのか? というと、違うと思います。これは諸行無常に反しますよね。 諸行無常=縁起=空=悟り=苦しみを無くす=真理って ふつーは言われてると思うんですけど 解脱的には、永遠に解脱できるか 否かってところがポイントなので 仏教も解脱を目指す宗教だと言うのであれば、 諸行無常よりも(だって、せっかく解脱したのにまた生まれてきたら 意味がない) 永遠の不変を(永遠に生老病死を繰り返さない為には)求めるでしょう。 仏典による根拠はないし、文章は論理的ではないですが。 (これはいつものことですけど。)参考になれば幸いです
お礼
回答ありがとうございます。とても読みやすい回答で助かりました。 私自身も仏教は「諸行無常」になるための教えではないことは重々承知しています。 >>つまり、諸行無常はインド的な一般常識で(輪廻転生)、それが嫌で、バラモンでなくてもそこから解脱するために出家者がいたのでしょうから。 ヴェーダ時代後期のウパニシャッド思想を基にした自由思想家と呼ばれる人たちのことですね。 >>それに解脱知見は不変だと思います。つまり、一度、解脱した人間はまた前の状態に戻るのか? 確かにウパニシャッドの時代に説かれていた「五火・二道説」を見ても、祖道と神道(天道)の二道が説かれ、生前の苦行ももって神道を歩むものは「梵我一如」となって現世に生まれ変わることはないとされていますね。お釈迦様は「梵我一如」という解脱には否定的だったようですが、システムとしては「原始仏教」に多大な影響を与えていますね。 >>大乗非仏説という立場から見たとき「諸行無常」という教えは、お釈迦様の教えであるといえますか?? という質問の意図としては、「原始経典」なかに「諸行無常」と同様の意味の言葉が存在しているか??そして、この問1の回答を基本に「仏教」というもの自体が変化し続けるものなのか??というような意図の質問でした。 まぁ、あくまで机の上レベルでの素朴な疑問だったわけです。お付き合いいただき、感謝いたします。ありがとうございました。
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お礼
何度も、心からの回答ありがとうございます。 >>実践はどのぐらい変化しているのでしょう。私には知る機会がないですが 私はテーラワーダ仏教の方と交流がありますが、大乗仏教に関しても非常に理解のある方が多いですね。瞑想法の具体的な差は私も勉強不足ありますが、大乗仏教でいう『七佛通戒偈』は『ダンマパタ』「すべての悪しきことをなさず、善い事を行い、自己の心を清めること、これが諸仏の教えである」の一句ですが、大乗ひいては日本の仏教にまで大きな影響を与えています。一休さんの書もありますよ。 >>具体的に提唱し、その努力が垣間見れるものが数多く残っているのでしょうね。 はい。存在します。テーラワーダ仏教の方からは、遅い!といわれるかもしれませんが、中国においてはお経を釈尊の言葉に近い読み方にしようという努力がなされていました。ただ、中国語訳大乗経典というものは成立した後ですが、当時の方々の「お釈迦様の教えを変えたくない」という思いは垣間見ることができます。また、お釈迦様がのお説教には節がついていたそうです。「ガータ」伽陀と音写されますが、その流れは日本にも伝わり、浄土真宗には節段という形で残っています。 どの宗派でもお釈迦様の言葉を変えずに伝えたいという思いはもっているはずです。それがなければ、仏教じゃないといえるかもしれません。 >>伝わりやすいのがパーリ語の三蔵の優れた点の一つだと感じています。 私もそういった魅力は感じていますし、勉強させていただいています。 >>在家にすらあたらない生臭坊主が私の目にするところに多く存し、本当に残念で仕方ありません。 耳の痛い話です。私自身がそのような一人かと思います。 >>「道徳的・論理的・理性的・現実的・実践的・矛盾がない」この範囲を越えなければ問題のないもでしょうね。越えなければ。 含みがありますね。確かに、大乗仏教はそういわざる終えないところも多々あります。その辺はどうぞご容赦ください。 >>「他は全て間違いだ」と言う態度はつつしみ、挑む。 仏教者として見習うべき態度であると思います。その度量の大きさが、仏教の大きな魅力だと思いますよ。 >>いろいろな信があるとは思いますが、共に精進いたしましょう。 >>~生きとし生けるものが幸せでありますように~ ありがとうございました。 合掌 南無阿弥陀佛