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教義内では共存的な世界観の多神教が、対外的には排他的になるのはなぜですか。
教義内では共存的な世界観を思わせる多神教(たとえば神道)が、対外的(他の宗教など)には排他的になるのはなぜですか。そもそも、教義内でも共存的な世界観などないのでしょうか。 多神教がもつ包容力は、対外的にも寛容な、排他的ではない態度に通じると思いたいのですが、幻想でしょうか。
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共存共栄を謳いながら、排他的になるのは多神教・一神教を問わずあることではないでしょうか? 例えば、「愛の宗教」などと呼称される「キリスト教」です。 新約聖書の中のイエス・キリストの言葉には「共存共栄」を説くモノが沢山あります。 例えば、 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」マタイ5:44 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」ルカ20:25 「(ペトロが兄弟が犯した罪を何回まで許すかを聞いて、、、)「あなたに言っておく。七回どころか七の七〇倍までも赦しなさい」マタイ18:22 「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」ヨハネ15:12 などなど、、、。 一神教も十分に寛容でなければならないはずなのに、(政治的には)なかなか実践されてない気がしますね。 政治では都合の良い教えだけを利用するってのが、正しい(?)宗教利用なんですかね? まぁ、「一神教=不寛容」「多神教=寛容」というイメージは、タダのレッテル貼りでしかありませんね。 日本人の無宗教性こそが本当の「(宗教的)寛容」なのかもと思うときもしばしば。まぁ、これも短絡的なイメージですけどね。
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- zenzen_w
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木に実った果実を 食べるがままにするように
- zenzen_w
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大地に根を下ろした 何者にも頼ることのない 自立した愛に
- zenzen_w
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ユダヤ教を根に持つ 子供の愛 慈悲によって 真実の愛に目覚めよ
- zenzen_w
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ブログにあった絵の趣味 全体を見れば何者かがよく解る。 知識は詰め込めても偽者 生命の木としての根は腐っている。
勝手ながら 概念の整理をさせていただきます。 ・崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトと市民オホタタネコらがかたちづくった《歴史知性たちの社会》。 ・オホタタネコ:意富多多泥古(古事記の漢字記述) 大田田根子(日本書紀の記述) ・意富多多泥古:相対性の世界にあって有限だが光にも譬えられる 精神とその意志(《意》)の豊かさ(《富》)のもとに しかも 個人がそれぞれ多様性(《多多》)を発揮して生きる。ただし この意志の有限性にも注意が肝心。あくまで神である生命の木 (オホモノヌシ)のもとに生きる単なる知恵の木であるに過ぎな い。ややもすると意志や考えが固定してしまい古くなって (《古》) 悪くすると泥(《泥》)の中に陥ってしまう。 ・大田田根子:たしかに 大地の子(《根子》)である。しかも 野生の稲をではなく これを栽培する知恵を開いた。種を植える ことから始め 苗を育て やがて成るその実を収穫する(《田 田》)。これら一連の時間過程が 自分たちの時間的な存在であ ることを分からせてくれた。われらは かなしいかな 可死的な 存在である。この自覚が われらを強くした(《大》)。―― 《たた》は 《たたら(鞴)》のことかも知れない。鉄づくりであ る。 ・崇神ミマキイリヒコも むろん このネコ市民から出たのである。人間は 《ネコ‐ヒコ》連関なる存在である。《身体‐精神》あるいは 《わたくし‐おほやけ》・《市民‐公民》の連関である。 ・《ネコ‐ヒコ》連関なる存在の位置するところ 事実(歴史)――真実(人間)――真理(神) ↓ ↓ ↓ モノ・・・・・・・・・者・・・・・・・・・・・・・オホモノヌシ (木・・・・・・・・・知恵の木・・・・・・・・生命の木) コト・・・・・・・・・ミコト・・・・・・・・・・・ヒトコトヌシ ・・《ミマキ(御真木) / イリヒコ》と呼びうる《ネコ‐ヒコ》連関・・・・・・・・ ・ヒトコトヌシ(一言主)のかみ:雄略ワカタケが葛城山で出会ったという。かれに対して 一言主の神は こう名乗ったとある。 《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言離 (ことさか)の神 葛城の一言主の大神ぞ》 《言離(ことさか)》は 言い放つの意という。《とおざかる(遠・離る)》の《さく(離く)》(他動詞形)だそうです。 ありがとうございました。
補足
「共存」と「排他」についての質問から、反れて来ているのですが。
- amaguaeru
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100%神道の徒 確かにそう言えるかも知れない。 自然に背くユダヤ神道の徒 自然に根を下ろし自然と共に生きることから乖離した そういうことさえ分からなくなって来てしまっている 今の日本は旧約聖書に出てくるソドムとゴモラ 日本神道は農の神 象牙の箸を持つことを求ず 生命の木 知恵の木の 調和を知る天子の系統 和の起源 田んぼに戻れ
No.12です。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ヨリ(原始心性)、イリ(歴史知性)、ヨセル(超歴史知性)・・・その用語が意味する幅とか厚みとか奥行きとか隣接する領域との区別のようなものがよく分かりません。 ・・・ >寛容は はっきり言えば 奴隷の自由です。奴隷の思想のもとに 人びとは 昔から かなり勤勉なのです。 ここのニュアンスも分かりません。ニーチェに登場する「奴隷」でしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《よく分からないところ / 奴隷の自由》は ANo.9へのお礼欄での 次のご感想とほぼ同じものです。つまり ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神話の中では、段々と政治的で排他的な面が強調されてしまいます。・・・やはり、対外的な寛容は、幻想のようです。読んでいて、そう思いました ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ という受け取りの内容と対応します。 ★ 無関心層に対する接し方としては、共存でしょうか。 ☆ それとも どう接して欲しいのでしょうか。
補足
分かりません。
No.11です。 こんどは あなたが へそを曲げましたね。 ★ ある意味、この国では実現できているように思いました。 ☆ 人びとの魂を腑抜けにするほど 人びとを《ヨセル》超歴史知性が そのままなのですから それは ありません。 ★ 少し皮肉的な言い方をすると、 / 無宗教の蔓延した日本の状況は、理想的な寛容性社会の証拠のようにも思えます。 ☆ どちらなのですか。皮肉ったほうが ほんとうですか。逆ですか。 寛容は はっきり言えば 奴隷の自由です。奴隷の思想のもとに 人びとは 昔から かなり勤勉なのです。 わたしたちが スーパーアマテラスたちに好きなようにさせたのが いけなかったのですが もうまやかしよ さようならと行きましょう。
補足
ヨリ(原始心性)、イリ(歴史知性)、ヨセル(超歴史知性)という神話解説をいただきましたが、正直言いまして、私にはその用語が意味する幅とか厚みとか奥行きとか隣接する領域との区別のようなものがよく分かりません。 旧約聖書でバベルの塔完成後に神の逆鱗に触れて、言語が通じなくなった話を思い出しました。 無関心層に対する接し方としては、共存でしょうか。 >寛容は はっきり言えば 奴隷の自由です。奴隷の思想のもとに 人びとは 昔から かなり勤勉なのです。 ここのニュアンスも分かりません。ニーチェに登場する「奴隷」でしょうか。
No.10です。 ★ 村単位の全体主義のように、思えますが。 信仰を持たない自由がないようにも、思います。 ☆ 現段階での信教・良心の自由 表現の自由は いまでは 大前提です。 《教義内では共存的な世界観の多神教》を 主役にして述べてきたので その結果 これが ムラ全体に満遍なく行きわたっているというふうに受け取れたのだと思います。 《イリ歴史知性》は 自然本性として どの信仰にとっても 普遍的な人間存在の前提です。わづかに 《イリ》という表現が シントウのものです。 市民一般と市長とが 個人にとっての信仰の自由のもとに そして互いにその信仰の差異を認め合って 人を《ヨセル》というスーパー歴史知性のあり方を克服しつつ 〔かつ 《ヨリ》知性の目覚めを望みつつ〕 民主的に自由に 話し合いをつうじて 社会をいとなんでゆく。こういう考え方です。 国家からの牽制をまぬかれるために 国際的にムラどうしが 協力しあうという寸法です。
お礼
少し皮肉的な言い方をすると、 無宗教の蔓延した日本の状況は、理想的な寛容性社会の証拠のようにも思えます。 ある意味、この国では実現できているように思いました。 ありがとうございました。
No.9です。 ★ 「原形かつ第一次形態」への復帰と言っても、復帰してから出直してくださいという感じで、一歩も二歩も遅れてしまいます。やはり、対外的な寛容は、幻想のようです。読んでいて、そう思いました。 ☆ いえいえ そんなことはありませんよ。 現段階で 世界中のムラというムラ(市町村)が 互いに連絡しあい 連携して インタナシオナルなインタムライスムを築けばいいのです。 国家は 放っておいて ムラ( mura )どうしで たとえば議会の交流 互いの議員の相互選挙 人びと・ものその他その他文化・経済的な交流を 縦横無尽に広げてゆく。そういう方向が考えられますよ。
補足
村単位の全体主義のように、思えますが。 信仰を持たない自由がないようにも、思います。
お礼
全く、そのとおりだと思いました。 個人でも、宗教組織でも、政治活動に利用される「弱さ」があると思いますし、政治を利用する「強さ」もあり、どちらに傾くかは、その時々の状況次第なのでしょうから、どちらもありだと思いました。 永世中立的な幻想としては、開放的で、対話的な姿勢かなと思います。 いろいろと参考になりました。ありがとうございました。