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思考や判断について

例えば誰かが殴りかかってきたら、人は意識的にせよ、反射的にせよ、回避行動を取ると思います。 その一連の回避行動は、思考や判断も含めて、物質としての人間に起こった物理的、化学的法則に従った反応のみによって為されるのでしょうか? そうだとすれば、脳内や体内の物理、化学反応と、人間の感情や行動は同時発生的というか、同一のものだと思います。 それなら、よく聞く「人間の痛みや苦痛は、それによって身体の危険を認識して回避するためにある」という話は誤りであるように思うのですが、いかがでしょうか? 極端な話、仮に人間に感情や思考がなくても、ロボット人間によって人間社会は成立するのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.19

ANo.6, 9, 11, 14,17です。 こちらこそ何度もすみません。 > しかし自然科学の立場に立てば、「物理法則のみをメカニズムの原理として認める」ということと「物理的に存在しないに等しい表象に意義を認める」ということは、明確にダブルスタンダードだと思います。 「すぎない」とか「……ないに等しい」のような修辞表現は、混乱を招くだけなので、あまり使用してほしくはないのですが……。表象は物理法則から外れたものと考えているわけではないので、いかなる意味でもダブルスタンダードではありません。心理学でいう生物学的制約です。物理法則を裏切るような表象についての理論は、基本的に支持されません。 > 認知科学っていうのは、自然科学と人文科学の融合ですよね。 そうともいえますが、質問者さんのイメージでいえば、完全に自然科学です。意識や表象といったものが自然科学として扱えるという点が大事なところだと思います(後述)。 > つまり認知科学は、表象と物理的変化を等値概念として包括することで、両者の関係性への考察をひとまず棚上げすることで成り立っているのではないでしょうか? どこかで棚上げしているのは確かでしょうね。 > それゆえ、認知科学において表象と物理的変化は同義(一体)であり、「表象に意義がある」ということが命題化しているのではないでしょうか? 命題化とはどのような意味でしょう。大前提という意味なら、これは論理の飛躍です。どこかで棚上げが起きているからといって、表象に意義があるということをあらかじめ前提しているわけではありません。そこで棚上げが起こっているわけではありません。表象にどのような意義があるのかを経験的な問いとして、研究対象にすることができます。 > また表象に対して「意義がない」とか「付随的」というのはあくまで自然科学の立場を尊重するなら、ということです。 これは、何十年か前の自然科学なら正しかったと思いますが、そこまで強固な物理主義ないし(心理学なら)行動主義は、自然科学しても現在では受けいれられません。というより、そのような考え方の変化が認知科学の発展と関係があるのでしょう。表象を自然科学として扱うための考え方や、厳密な行動の実験統制、認知や脳を経験的に調べる方法が発達してきたということです。 しかし、質問者さんと私の立場は、実際のところ、対立してはいないだろうと思います。ポイントは、次の点。 「表象の意義」という言葉が非常に怪しいのだと思います。これは、表象の実在にかんする論理的な問題と、表象の意義の経験的な問題(実際のところ、どのような意義があって表象というものは進化なり発達なりしているのか)とに、さしあたり分かれるのだろうと思います(私の最初の回答ANo.6の最後で指摘したことです)。 後者は、自然科学的に(この場合は認知科学的と言い換えてもOK)意義を探っていくことのできる問題です。他方、前者は簡単に解決できるものではなく(テューリングテストなどに感じる違和感を考えてみてください)、後者のなかで棚上げされているところで、哲学の研究対象でしょう。 質問者さんの主張するように、表象に「意義がない」といえるのは、前者の問題を考えているときだろうと思います。反対に、自然科学では、私たちが実際に表象をもっている以上、その哲学的な難点はとりあえず棚上げしつつ、その意義を探っていけます(そして、現在はその準備がわりと整っています)。これは前提することとは異なります。どのような意義があるのか、または意義はないのかということを仮説にするということであり、前提とするわけではありません。 「また表象に対して「意義がない」とか「付随的」というのはあくまで自然科学の立場を尊重するなら、ということです」を言い換えるなら、「自然科学が規範とする物理主義をつきつめると、心の哲学的には「表象」という捉え方そのものが意味をなさなくなってくる」とはいえるかもしれません(ただ、こういえるかもしれないということであって、私はここでこれにたいして何の論理的な裏づけもしていません)。しかし、まさしく現在の自然科学の営みのなかで、自然科学の立場において表象に意味がないということであれば、それは現実の自然科学にそぐわないことです。

rokujuuban
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね、「意義」という言葉がかなり怪しいですね。 それでも今回の一連のご説明、だいたい理解したと思います。 棚上げの部分、回答者さん言うところの「表象の実在にかんする論理的な問題」も、認知科学の趣旨からすれば大きな問題ではなく、研究の障害にはならないことも理解できます。 ただ、実在にかんして論理的な問題をもつ表象が、それでも自然科学に受け入れられる背景には、表象が物理的変化との関係性において、強固な経験的裏づけを持つ、ということがあるのは事実だと思います。 逆に言えば、この関係性について、一切ほころびが無いことが認知科学成立の前提ですよね。 >表象は物理法則から外れたものと考えているわけではない >物理法則を裏切るような表象についての理論は、基本的に支持されません。 つまり、認知科学において、物理法則は表象に対して全責任を持つ(表現はむちゃくちゃですが)ということですよね? そうであれば、理論的には、すべての表象は物理的作用に還元して分析できるということになりますよね。 その関係性が、生物の物理的作用側として細胞単位までなのか、分子、原子まで及ぶのか分かりませんが、いずれにしてもそれは心をシステムとして捉えることができるということですよね?(勿論、理論的には、ですが) そうなれば、本当に心も自然科学の対象になりますね。 物理法則にしたって、突き詰めれば最後の部分は棚上げなんでしょうから。

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その他の回答 (19)

回答No.9

> しかし、チューリングテストの問題の答えが、「表象の実在の有無を明確に確かめることができない」というものであるなら、「意識の意義」というものも否定されてしまうんではないでしょうか? テューリングテストは、(人工知能を意識のある機械と呼ぶなら)積極的に意識の実在の基準を呈示しようとしているので、「表象の実在の有無を明確に確かめることができない」とは逆の前提「(表象どころか)意識の実在の有無はこの基準で明確に確かめられる」をもっています。 > ということですが、これは本人が「意識的に柔軟な行動をとっている」と思っているだけで、実際は脳内の複雑な神経回路の情報処理に伴ってそういう表彰が発現しているだけ、という可能性もあるのではないでしょうか? これは誤解です。誤解ですが、よい突っ込みポイントだと思います。 問題は、誰が「柔軟」だと判断しているかということです。本人は判断していません(身体の自由自在感を意味しないということです)。この場合「柔軟」というのは、(以降、ある程度思考実験です)研究者が痛みのメカニズムをもつ動物と痛みのメカニズムをもたない動物とを比較し、「痛みのメカニズムをもつ動物は、痛みのメカニズムのおかげで痛みのメカニズムをもたない動物よりも相対的に柔軟に行動している」と判断できます。 ここでは、次の2点が大事なのだと思います。 1) 「痛みのメカニズムをもつ動物」ということで、藤田のいうステージ4の動物を指している。つまり、感情の覚知がある(なにぶん思考実験なので何ともいいようがあるのだと思いますが)。 2) 脳内の神経回路の情報処理の複雑化が、「痛みを感じること」に対応している。 もちろん、上で保障されたのは、痛みや意識の意義であって、その有無にまでつっこまれると放棄されたままです(あるレベルまではOKだが、それ以上背景につっこまれると回答能力がない、という感じです)。 まとめると、次のようになります。痛みの感じは、脳内での内部処理の結果でしかない。それでじゅうぶんである。というのも、痛みが、神経回路の複雑化の、まさにその結果であることは別に担保されているからだ。 > 脳科学の本なんか読んでると、そういうふうに主張しているように思えてしまうのですが…。 参考までに誰の書いた(編集した)何という本ですか。何冊かあればいくつか教えてほしいです。

rokujuuban
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 つまり、こういうことでしょうか。 痛覚を刺激すると痛みを感じますよね。 同様に、複雑な神経回路が様々に働くと、様々な感情が発現しますよね。 逆にいえば、感情や痛みを研究すれば神経回路や情報処理のしくみを解明できる、あるいは感情や痛みの研究と神経回路の研究が結果として同様の成果を納めうる。 乱暴な書き方で申し訳ないですが、藤田さんの研究とはそういうことだと理解しました。(勿論それがすべてではないと思いますが) そうなら、研究対象は「痛みのメカニズム」であり、「痛みの意義」とはイコール「痛みのメカニズムの意義」であると思います。 そして、「痛み」と「メカニズム」は密接にリンクしていることが研究上は望ましいのかと思います。 ただ、私の疑問は「痛みのメカニズム」において、メカニズムに痛みが付随する必要があるのかどうかなのです。 すべてが神経回路の情報処理、つまりメカニズムで完結するのであれば、痛みは不要だと思うのです。 痛覚への刺激は、信号としてだけ受け入れればメカニズムは働くわけですから、痛みとして表象する意義が分からないんです。 そしてそのことを敷衍すれば、感情も心も不要、人間は心のないロボットであっても、メカニズムとして活動を続けると思えるんです。 私が脳科学の本に違和感を感じるのは、心とメカニズムを包括して捉えられないからかもしれません。 といっても専門書は読んだことありません。 今思い出せるのは、養老猛さんの「唯脳論」とか、多田富雄さんの「生命の意味論」(脳科学ではないですが)とかです。 「唯脳論」で、「心は脳の機能である」というようなことが書いてあったのが印象に残っています。消化はできていませんが…。

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  • globwisd
  • ベストアンサー率43% (7/16)
回答No.8

>人間同士でも他人が心を持つかどうかは本当には分かりませんもんね。  そんな事はないですよね。例え他人であっても,その人が作った作品を見て作者の心を汲み取れる場合はいくらでもありますよね。例えば,コーヒーカップの柄が丁度いい場所に付いている事で,使用者に使い易い様に工夫しているのだなとか。パソコンのキーボードが工夫を施されて作られているのだなとかですね。  物を通じててでも,他人の心は伝わりますよね。「情けは人の為ならず」と言う先人の智慧を,確り受け継ぎたいものですよね。

rokujuuban
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね、先人の智慧には私も敬意をはらいたいと思います。

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  • taronbe
  • ベストアンサー率39% (27/69)
回答No.7

なんとなく言いたい事がわかってきたような気がするのでちょっとアプローチを変えてみます。 >人間には現に心という非科学的な属性が引っ付いています。 心が非科学的な属性である理由は何だと思いますか?答えは単純、観察者の恣意が必要だからです。恣意が入るから、ではなく恣意が必ず必要なのです。 例えば今貴方が見ているのは人間ではありません。ディスプレイ上に並ぶ文字だけです。それを一応相手を心のある人間として考えるわけですが、しかしディスプレイや文字に心はありません。そりゃもう確実に。心があるように感じるのは貴方がそう思っているからという理由しかないのです。 例えばたまごっち。あれも心はありません、そりゃもう間違いなく。しかし見る人が心の存在を感じ取ったからこそあれだけ大流行したわけです。小説の登場人物でもぬいぐるみでも、それに心があると感じ取る事はできます。相手が人間である必要は全くありません。見ている側の都合で決まるからです。見ている側の都合が必要なのです。 従いまして「痛みを避ける人間」に心がある事を証明する事は科学的には不可能です。「『痛みを避ける人間』を見ている人間がこの人に対して心を感じ取るメカニズム」なら科学的に解明可能です。それは「人間がペットやたまごっちに対して心を感じるメカニズム」とそう大差ないでしょう。 まあたまごっちによっては人間社会は成立しませんが、それは心とは全然関係なく、単に生産活動を行わないからですね。

rokujuuban
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 仰っていることは分かりますが、イマジネーションの対象ということであれば、心に限らず、森羅万象すべてがイマジネーションの対象だと思います。 たまごっちも、人はそこに心だけでなく、姿かたちや質感も含めた、架空の動物全体を想起していると思います。 また、ご自身で書かれているように、人は心のあるものにも、ないものにも、心をイメージすることがあります。 そういう意味で、他者のイマジネーションの対象であることを心の特質であると考えるのは腑に落ちないのですが…

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回答No.6

(1) テューリング関係 下でテューリング機械について述べられていますが、今回のものはテューリングテストであってテューリング機械とは関係がありません。テューリング機械は単なる論理機械です。 テューリングテストは、ある機械が意識をもつための(または、本当の意味で人工知能といえる)条件を調べるために発案された試験です。具体的には、たとえば、ある機械が人間とゲームをして、そのなかでその人間がその機械を人間か機械か区別できなければ、その機械に意識を認めるとします。一般に、ゲームにかぎらず、質問などでもOKです。テューリングの元の全文。私も何となく知っているだけで読んでいませんが。 Turing, A. M. (1950). Computing machinery and intelligence. Mind, 59, 433-460. http://loebner.net/Prizef/TuringArticle.html この基準に対しては、ジョン・ロジャーズ・サールが中国語の部屋という思考実験で反論をおこなっています。ある部屋に人間がいて、部屋には1冊の本があります。その本には、ある記号を別の記号に置き換えるためのリストが書かれています。まず、外から紙を渡されます。その人間は、紙に書かれた記号を、本にしたがって別の記号に置き換えていきます。終わったら、外に返します。実は、外から来た紙には中国語で「あなたの名前は何ですか」と書かれていて、外に出した紙には「私の名前はサールです」と書いていたのでした。もちろんその人間には中国語は理解できませんでしたが、外の人間は、なかに中国語を理解している人間がいると錯覚していしまいます。テューリングテストはこれと同じ錯覚を起こしているだけという批判です。これも全文を無料で読めるようですが、私は読んでいません。 Searle, J. (1980). Minds, brains and programs. Behavioral and Brain Sciences, 3, 417-457. http://www.bbsonline.org/Preprints/OldArchive/bbs.searle2.html (2) 痛みの意義 ただ、私は質問者さんの質問の意図をテューリングテストの問題とは別と捉えました。つまり「痛みは痛み回避のため」というパラドクスではないのでしょうか。その意義が果たされたときには、もうすでに用済みだという。 おそらく、痛みは、もっと原始的な生物では、単なる外的刺激の内部処理にすぎなかったのだろうと考えられます。それがある段階(ステージ3)で感情となることで、無意識的に認知や身体、行動に影響をもたらし、逆にそこから影響を受けます。ここではまだ無意識なので、痛みは痛みとして感じられませんが、脈拍や発汗などの生理的指標は測られます。そして、次の段階(ステージ4)ではじめて、感情の覚知(emotional awareness)が生じ、痛みを痛みとして感じることができます。ここで、痛みが意識されることで、意識的により柔軟な行動をとることができるようになります。痛みが恐怖と同じ意味での感情と考えられるかは、そのあたりの専門家を待ってください。たいていの哺乳類はステージ3に、チンパンジーなどごく少数の動物がステージ4に到達していると考えられます。以上は、藤田による感情の進化モデルです(これは神経系の進化と深く関連しますが、認知モデルというのが独特です)。 藤田和生 (2007). 感情の進化. In 藤田和生 (Ed.), 感情科学 (211-234). 京都: 京都大学学術出版会. http://www.amazon.co.jp/dp/4876987181/ これを今回の質問に当てはめていうと、次のようになるだろうと思います。痛みの原因となる何かを避けるためには、肉体的かつ認知的な進化(原始的な生物から現生のヒトへ)や発達(乳児からある程度の年齢の子どもへ)が必要だった。そのとき、たしかに意識が感情を監視すればよかった。意識が感情を監視していることが、感情という事態にほかならないのでしょう。 質問者さんは、感情から認知活動一般に拡張なさっていますが、上の藤田(2007)でも同じように問題を一般化することで整理しています。つまり、内的表象による別の内的表象へのアクセス(メタ表象)です。一般化しても、結論は同じです。メタ表象は、自分がもっている表象(感情や知覚、信念)などについての表象ですが、それを手に入れることにより、より柔軟かつ複雑で、迅速な対応がとれると考えられています。言い換えると、それを失うと、もっていたときよりは反応が相対的に遅れるだろうと考えられます。 ただし、「何の影響もないのではないか」というのも、ある意味そのとおりかもしれません。もしいきなりヒトがじゅうぶんに神経系を退化させ、痛みを感じなくなったとしても、それなりに生きていけるでしょう。痛いはずの目に遭遇しても、痛くないのだから問題ありません。しかし、痛みを感じられない分は、確実に回避が遅れます。その分、子孫をより多く残すなどの戦略を迫られます。それは、別の適応の仕方を手に入れたということです。痛みを失っても生きていけるという意味では「何の影響もな」かったのですが、別の生き方をせざるをえなかったという意味では、影響はあるはずです。ただ、痛みを感じられないからといって確実に回避が遅れるとはいえないと思われるかもしれません。しかし、上でいったとおり、痛みの意識がメタ認知である以上、それを失えれば確実に遅れるだろうと予想されます。 (3) ロボット人間の社会 これは明らかにテューリングテストの話です。(2) にしたがっていえば、意識の実在ではなく、表象(心的表象)の実在といったほうが正確かもしれません(意識はメタ表象なので、心的表象の一部になります)。これについては、確かめようがないというのが正確な解答ではないでしょうか。上でいったように、意識やメタ表象の機能は自身の表象に対する表象というところにあるようです。同じヒトどうしなら、社会によって、または生物学的な酷似によって、おたがいに意識があることが保証されます。しかし、ロボットについては、その保証はありません。また、ロボットが表象をもっていたとしても、それに特権的にアクセスできるのはそのロボットのメタ表象だけなので、われわれに対しては保証されません。逆にいえば、われわれの思考回路に準ずるものをもっているロボットどうしなら、われわれと同じように社会が成立するだろうと思います。そのとき、ロボットに対してわれわれが意識をもっていることを証明することはできません。ロボットは、人間は意識するロボットをつくったのだから意識があるにちがいないと推論することはできますが、それ以上ではないでしょう。 全体をとおしてですが、テューリングテストの問題(心的表象の実在)と、メタ表象の問題(意識の意義)とを分離しつつ整理すると、もっと議論の見通しがよくなるだろうと思います。

rokujuuban
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 大変参考になります。 しかし、チューリングテストの問題の答えが、「表象の実在の有無を明確に確かめることができない」というものであるなら、「意識の意義」というものも否定されてしまうんではないでしょうか? >痛みが意識されることで、意識的により柔軟な行動をとることができるようになります ということですが、これは本人が「意識的に柔軟な行動をとっている」と思っているだけで、実際は脳内の複雑な神経回路の情報処理に伴ってそういう表彰が発現しているだけ、という可能性もあるのではないでしょうか? 脳科学の本なんか読んでると、そういうふうに主張しているように思えてしまうのですが…。

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  • globwisd
  • ベストアンサー率43% (7/16)
回答No.5

>極端な話、仮に人間に感情や思考がなくても、ロボット人間によって人間社会は成立するのでしょうか?  感情や思考を持たないのが人間だとすれば,ロボットと同じですからロボットが作る社会も人間が作る社会も同じようなものでしょうね。しかし実際はそうではないと言いたいのだと思いますが,その点では当然私も同じです。  ただ,痛みにしても,痛覚は神経上を物質のイオン反応を介して伝えられているのだし,何故生命現象に化学反応が介在する事に偏った否定的なと思える表現を取られるのか,理解に苦しみます。 >「人間の痛みや苦痛は、それによって身体の危険を認識して回避するためにある」 痛みが病気の情報で有ると捉えてそれに対策を講ずる事は,あなたの言う「危険からの回避」ですよね。人間ならでは知性に満ちて,大いなる智慧として受け継ぎたいものですよね。それが何故生命現象に化学反応が介在する事がいけないのですか?

rokujuuban
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >何故生命現象に化学反応が介在する事がいけないのですか? いけないとは思っていません。 主張したいと思う自説も特にありません。 医学の進歩は私も望んでいます。

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  • taronbe
  • ベストアンサー率39% (27/69)
回答No.4

>人間を模倣したロボットが人間と区別が付かないであろうことは想像できますが、それ以前に、完全に物質的に人間を模倣すれば、それが人間として機能するのかどうかが疑問です。 現実に人間を模倣したものを作ればまさしくその通り、なのですが、理論だけ、机の上、アタマの中で話をする場合事情は違ってきます。人間として機能しなければそれは人間の模倣ではありません。人間の模倣である以上人間として機能しなければならないのです。 従って、最初の疑問 >極端な話、仮に人間に感情や思考がなくても、ロボット人間によって人間社会は成立するのでしょうか? これに対する答えは「成立する。そのロボット人間が充分に人間を模倣できれば」 現実に作るのが不可能だとしても、作れるんだって仮定してしまえばそれはもうなんとでもなります。というわけでこれは空想SFだとわりと普遍的なテーマです。それこそアシモフの「我はロボット」あたりから鉄腕アトムとかブレードランナーまで。 問題はそんなロボット人間が現実的に作れないということにあるわけです。

rokujuuban
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 (完全に物質的に人間を模倣すれば、それが人間として機能するのかどうかが疑問です。) というのは、すこし思いがあって「物質的に」と書きました。 現状の科学の延長線上で人間を模倣するとすれば、それはやはり「物質的に」模倣することになると思います。人体の構成物の中に未知の物質は含まれていないでしょうから、それは理論的には不可能ではないのだと思います。 そこに魂とか霊魂というよなものを持ち出すのは非科学的であることは分かっていますが、人間には現に心という非科学的な属性が引っ付いています。 この心の正体を考えると、現状では思考遊戯に過ぎないのでしょうが、「物質的に」完璧な人間の模倣品というものは大変興味深いです。 その模倣品が完全に人間として機能したとして、それが心を持つかどうか判断するのは困難だと思います。人間同士でも他人が心を持つかどうかは本当には分かりませんもんね。 チューリング機械論の未解決点というのはそういうことかと思ったんですが…。 それと、「物質的に」完璧な人間の模倣品が、人間として機能しない可能性もあるかと思ったんです。 >人間として機能しなければそれは人間の模倣ではありません。 ということですよね。 「物質として」は完璧な人間の模倣品が人間として機能しないとすれば、人間(というか生物)を成立させる要素として、現状の物理、化学法則やその延長線上の理論以外の「何か」が必要であることが推測できると思ったんです。 そういう趣旨の質問でありました。

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  • taronbe
  • ベストアンサー率39% (27/69)
回答No.3

そうするとチューリング機械論になるのかな?また違うかもしれませんが。 乱暴な言い方をするとチューリング機械という人間を模倣する機械があったとして、これを人間と区別するにはどうすればよいか?という議論です。 結論から先に言うと解決はしていません。もちろん実際にそういう機械があれば見破る方法はありますが(映画「ブレードランナー」におけるフォークト・カンプフ・テストのように)、今の場合のように実際にモノがないのに「もしそういう機械があったら」という仮定だけで話をする場合、機械によって人間を完全に模倣したときにそれが模倣である事を見破る論理的な方法は見つかっていません。 しまいには「区別つかなけりゃ人間とみなしていいじゃないか」とか言い出す人もいます。それも一理ありますね。 というわけで考えても結論は出ませんので、チューリングとかその辺の文献を読んでゆっくり自分で考えてみるとよろしいかと思います。

rokujuuban
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうです、そうです。 そういう疑問です。 そうですか、チューリングというんですか。 調べてみます。 人間を模倣したロボットが人間と区別が付かないであろうことは想像できますが、それ以前に、完全に物質的に人間を模倣すれば、それが人間として機能するのかどうかが疑問です。

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  • globwisd
  • ベストアンサー率43% (7/16)
回答No.2

>(1)脳内や体内の物理、化学反応と、人間の感情や行動は同時発生的というか、同一のものだ >(2)それなら、よく聞く「人間の痛みや苦痛は、それによって身体の危険を認識して回避するためにある」 >という話は誤りであるように思う (1)であればなぜ(2)であると思うのかの説明がなせれていません。論理の飛躍ですね。 あなたの設問の立て方自体が誤りですよね。  あなたの場合は,もしかすると五感の意義からして把握できていないのではないでしょうか。生命現象が物質の電磁作用で起こっている事を考える前に,心理学や哲学的な思考が必要に思われます。ま般若心経の理解は遥かに難しいと思うしね。

rokujuuban
質問者

補足

(1)、(2)の前に前提をあげています。 一連の回避行動は、思考や判断も含めて、物質としての人間に起こった物理的、化学的法則に従った反応のみによって為されるのでしょうか? あくまでこの前提が「そうであれば」、ということです。 そうであれば、やはり(1)心の動きと物理、化学反応は同一であると思います。 仮に同一でないとしても、前提の通りであるならば、心の動きである「痛み」が、物理、化学反応である人間の危険回避に影響を与えることはない、つまり(2)のように思います。

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  • taronbe
  • ベストアンサー率39% (27/69)
回答No.1

要するに「痛いから避けるのであれば、殴られる前は痛くないのに避けるのはおかしい」と主張したいわけですか? それだと思考とか物質とか判断とか余計な事考えてもわけわからなくなります。他人事のように考えずに、自分がもし殴られそうになったらどのように考えてどのように動くか、というように自分自身をものさしにして考えてみてください。

rokujuuban
質問者

補足

>要するに「痛いから避けるのであれば、殴られる前は痛くないのに避けるのはおかしい」と主張したいわけですか? いえ、違います。 殴られれば痛いことは事前に経験上、知っていると思います。 自分を殴りに来る人を感知して避けることは、物理的、化学的法則に則ってのみ動くロボットであっても可能だと思います。 人間の行動もその延長線上にあるのであれば、人間が痛覚を刺激されることで、体内で様々な物理的反応が起こることは意味があっても、それに伴って実際に痛みを感じることは危険回避には意味がない、ひいては人間の思考や感情そのものも人間の実際の営みには何の影響もないのではないかと思ったのです。

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