(1) テューリング関係
下でテューリング機械について述べられていますが、今回のものはテューリングテストであってテューリング機械とは関係がありません。テューリング機械は単なる論理機械です。
テューリングテストは、ある機械が意識をもつための(または、本当の意味で人工知能といえる)条件を調べるために発案された試験です。具体的には、たとえば、ある機械が人間とゲームをして、そのなかでその人間がその機械を人間か機械か区別できなければ、その機械に意識を認めるとします。一般に、ゲームにかぎらず、質問などでもOKです。テューリングの元の全文。私も何となく知っているだけで読んでいませんが。
Turing, A. M. (1950). Computing machinery and intelligence. Mind, 59, 433-460.
http://loebner.net/Prizef/TuringArticle.html
この基準に対しては、ジョン・ロジャーズ・サールが中国語の部屋という思考実験で反論をおこなっています。ある部屋に人間がいて、部屋には1冊の本があります。その本には、ある記号を別の記号に置き換えるためのリストが書かれています。まず、外から紙を渡されます。その人間は、紙に書かれた記号を、本にしたがって別の記号に置き換えていきます。終わったら、外に返します。実は、外から来た紙には中国語で「あなたの名前は何ですか」と書かれていて、外に出した紙には「私の名前はサールです」と書いていたのでした。もちろんその人間には中国語は理解できませんでしたが、外の人間は、なかに中国語を理解している人間がいると錯覚していしまいます。テューリングテストはこれと同じ錯覚を起こしているだけという批判です。これも全文を無料で読めるようですが、私は読んでいません。
Searle, J. (1980). Minds, brains and programs. Behavioral and Brain Sciences, 3, 417-457. http://www.bbsonline.org/Preprints/OldArchive/bbs.searle2.html
(2) 痛みの意義
ただ、私は質問者さんの質問の意図をテューリングテストの問題とは別と捉えました。つまり「痛みは痛み回避のため」というパラドクスではないのでしょうか。その意義が果たされたときには、もうすでに用済みだという。
おそらく、痛みは、もっと原始的な生物では、単なる外的刺激の内部処理にすぎなかったのだろうと考えられます。それがある段階(ステージ3)で感情となることで、無意識的に認知や身体、行動に影響をもたらし、逆にそこから影響を受けます。ここではまだ無意識なので、痛みは痛みとして感じられませんが、脈拍や発汗などの生理的指標は測られます。そして、次の段階(ステージ4)ではじめて、感情の覚知(emotional awareness)が生じ、痛みを痛みとして感じることができます。ここで、痛みが意識されることで、意識的により柔軟な行動をとることができるようになります。痛みが恐怖と同じ意味での感情と考えられるかは、そのあたりの専門家を待ってください。たいていの哺乳類はステージ3に、チンパンジーなどごく少数の動物がステージ4に到達していると考えられます。以上は、藤田による感情の進化モデルです(これは神経系の進化と深く関連しますが、認知モデルというのが独特です)。
藤田和生 (2007). 感情の進化. In 藤田和生 (Ed.), 感情科学 (211-234). 京都: 京都大学学術出版会.
http://www.amazon.co.jp/dp/4876987181/
これを今回の質問に当てはめていうと、次のようになるだろうと思います。痛みの原因となる何かを避けるためには、肉体的かつ認知的な進化(原始的な生物から現生のヒトへ)や発達(乳児からある程度の年齢の子どもへ)が必要だった。そのとき、たしかに意識が感情を監視すればよかった。意識が感情を監視していることが、感情という事態にほかならないのでしょう。
質問者さんは、感情から認知活動一般に拡張なさっていますが、上の藤田(2007)でも同じように問題を一般化することで整理しています。つまり、内的表象による別の内的表象へのアクセス(メタ表象)です。一般化しても、結論は同じです。メタ表象は、自分がもっている表象(感情や知覚、信念)などについての表象ですが、それを手に入れることにより、より柔軟かつ複雑で、迅速な対応がとれると考えられています。言い換えると、それを失うと、もっていたときよりは反応が相対的に遅れるだろうと考えられます。
ただし、「何の影響もないのではないか」というのも、ある意味そのとおりかもしれません。もしいきなりヒトがじゅうぶんに神経系を退化させ、痛みを感じなくなったとしても、それなりに生きていけるでしょう。痛いはずの目に遭遇しても、痛くないのだから問題ありません。しかし、痛みを感じられない分は、確実に回避が遅れます。その分、子孫をより多く残すなどの戦略を迫られます。それは、別の適応の仕方を手に入れたということです。痛みを失っても生きていけるという意味では「何の影響もな」かったのですが、別の生き方をせざるをえなかったという意味では、影響はあるはずです。ただ、痛みを感じられないからといって確実に回避が遅れるとはいえないと思われるかもしれません。しかし、上でいったとおり、痛みの意識がメタ認知である以上、それを失えれば確実に遅れるだろうと予想されます。
(3) ロボット人間の社会
これは明らかにテューリングテストの話です。(2) にしたがっていえば、意識の実在ではなく、表象(心的表象)の実在といったほうが正確かもしれません(意識はメタ表象なので、心的表象の一部になります)。これについては、確かめようがないというのが正確な解答ではないでしょうか。上でいったように、意識やメタ表象の機能は自身の表象に対する表象というところにあるようです。同じヒトどうしなら、社会によって、または生物学的な酷似によって、おたがいに意識があることが保証されます。しかし、ロボットについては、その保証はありません。また、ロボットが表象をもっていたとしても、それに特権的にアクセスできるのはそのロボットのメタ表象だけなので、われわれに対しては保証されません。逆にいえば、われわれの思考回路に準ずるものをもっているロボットどうしなら、われわれと同じように社会が成立するだろうと思います。そのとき、ロボットに対してわれわれが意識をもっていることを証明することはできません。ロボットは、人間は意識するロボットをつくったのだから意識があるにちがいないと推論することはできますが、それ以上ではないでしょう。
全体をとおしてですが、テューリングテストの問題(心的表象の実在)と、メタ表象の問題(意識の意義)とを分離しつつ整理すると、もっと議論の見通しがよくなるだろうと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね、「意義」という言葉がかなり怪しいですね。 それでも今回の一連のご説明、だいたい理解したと思います。 棚上げの部分、回答者さん言うところの「表象の実在にかんする論理的な問題」も、認知科学の趣旨からすれば大きな問題ではなく、研究の障害にはならないことも理解できます。 ただ、実在にかんして論理的な問題をもつ表象が、それでも自然科学に受け入れられる背景には、表象が物理的変化との関係性において、強固な経験的裏づけを持つ、ということがあるのは事実だと思います。 逆に言えば、この関係性について、一切ほころびが無いことが認知科学成立の前提ですよね。 >表象は物理法則から外れたものと考えているわけではない >物理法則を裏切るような表象についての理論は、基本的に支持されません。 つまり、認知科学において、物理法則は表象に対して全責任を持つ(表現はむちゃくちゃですが)ということですよね? そうであれば、理論的には、すべての表象は物理的作用に還元して分析できるということになりますよね。 その関係性が、生物の物理的作用側として細胞単位までなのか、分子、原子まで及ぶのか分かりませんが、いずれにしてもそれは心をシステムとして捉えることができるということですよね?(勿論、理論的には、ですが) そうなれば、本当に心も自然科学の対象になりますね。 物理法則にしたって、突き詰めれば最後の部分は棚上げなんでしょうから。