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クリストのどこが芸術なのか?どうして?
クリストのアンブレラ計画、どっかの橋を梱包したり、島を囲んだり、 あれのどこが、芸術なのでしょうか? 美しくも無いですし。 美しさを演出するのならば、他にもっとお金もかからずに演出する 方法が沢山あるでしょうし(例えば花火とか)。 プロセスが大事とか言われていますが、何故プロセスが大切なのでしょうか? その根拠はなんなのでしょうか? 仮にプロセスが大切だとして、それが、だから、一体なんなのでしょうか? だれが得するんですか?
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まず、「芸術」ということについて考えてみますと、 現代芸術と呼ばれるものは、ルネサンス以来、伝統的に担ってきた芸術のもつ役割を放棄してゆく過程から生れてきた、と見なすことができそうです。 より具体的に記すとそれは、 自分が見ていると信じている視覚世界、それを表現しよう、ということをやめることでしたし、 自分の内面にうずまく感情世界を視覚世界に変換して認識することもまた、しなくなることでした。 魂の表出ばかりが芸術ではないと気がついたのです。 では何をするのかというと、アートという形式について考察することをはじめたのです。 その考察の結果、というかプロセスが、個々の作品にほかなりません。 作品は考察のプロセス上に生じた道しるべのようなものにすぎなくて、 したがって個々の作品の完成度などというものも、さして重要視されることではなくなりました。 だいいち、「美しさ」とは何でしょう。 万人に認められた「美しさ」とは、それはもはや美しいというよりも「陳腐」であることの別名ではないか。 美術館にうやうやしく飾られている「名作」群は権威で塗り固められた認知された美であって、 その富をたとえ自分が自家薬籠中のものとしたとしても、真の創造性や独創性を欠いた、エピゴーネン以上のものとはならない。 こうした共通した認識を現代の美術家は抱いているのではないでしょうか。あるいはもっと過激に。 こうしたことを踏まえ、クリストとジャンヌ=クロードが行なう一連のプロジェクトを眺めてゆくと、 いくつかの特徴が浮かび上がってきます。 まず、環境や公共空間を舞台にすることによって、「美術館」の権威というものから解放されました。 また、一定期間ののちに展示が終えられることによって(つまりその後の展示は不可能であることによって)、 キリスト教的・一神教的発想であるかもしれない人類普遍の永遠の美などという価値判断基準(妄想?)から自由になります。 彼らは単純に環境ないし建物を梱包するので、マン・レイなどがしたような、ともすれば思わせぶりな隠蔽、 それはメタフォリカルとかアレゴリカルといった、悪く言えば文学的な方向に傾斜する弊を免れているように思います。 それでいて非日常性を獲得し、 おおわれたものについて、あらためて考えたり思い巡らすことのきっかけを与えます。 けれども、おおったり傘を立てたりゲートを設けたりすること、 このことのために消耗される膨大な費用や折衝や煩瑣な手続きを思うとき、 これらインスタレーションは二度できないだろうし、 その無意味さ、ムダ、徒労感が半端なものではないことにも気づきます。 しかもプロジェクトは回を重ねるごとに大規模になっている模様。 それはちょうど、ある芸術家のある芸術行為とは、ある時代のある場所とただ一点でだけクロスする歴史的事件である、一回だけ起こる、それはくりかえさない、という箴言を想起させます。 美はしばしば衝撃をもって現れます。美はたぶん、まったく新しい発見であり、衝撃なのです。 垂直な、複合されたものです。 クリストとジャンヌ=クロードの試みに美を見出した人は、そう言いたければ、その人は得をした人です。 そしてそうではない人は、得もしないかわり、べつだん損をしたわけでもありません。 しかし、今の自分の「芸術観」と相容れないという理由でもって全面否定することは、明らかな損な行為ですね。 そうしたものはふつう、いったん保留して机のひきだしにでも入れておくものなんです。 そして何年か経って、あらためて出して眺めて検討してみるものなんです。 それでもダメだったらダメでいい。そのときダメと言えばいい。 性急に結論を下さないのが大切なことだと思いますよ。 以上、私見です。ご参考まで。
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- miyu917
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>ならば、アメリカが「広島に原爆を落としたのは前衛芸術です」と主張した場合なんと返答しますか? 回答ではありませんが、この一文が気になったので‥ 自由にもひとつだけルールがあると思っています。 「己の自由によって 他人の自由を奪わない」 原爆がどれほどの人の 生きる自由を奪ったか‥。 例え話としても そんなバカげた文句を言わないで欲しいです。
現代美術はへんてこなのが多いですが、見慣れてくるとけっこう気になる存在です。 私もクリストとジャンヌ=クロードの作品を特に気に入っているわけではないんですが、さほど否定的にも感じません。 この間どこかで読んだか誰かが言っていたのは、現代美術というのは、既成概念からどれだけ自由になれるかが大事だということ。 なーるほど、そういうことか、と妙に納得してしまいました。 そういう面もあるのか、と。 既成概念を超えたり外れたりするのは難しいです。 自分も含め普通の人は、見たところで「なにそれ?」と思って終わりですし、自分で何か作ろうとすれば、既成の美やパターンを思い浮かべてしまいますから。
あなた自身がクリストは芸術ではないとこの掲示板で 表明している事自体が自由を行使しているということを分かって からかっているようですね。 あなたが最悪と思えば最悪になるし。私がすばらしいといえば すばらしくもなる。自由とはそういうものです。 自由が最悪だと思うなら、自由じゃない社会に行って 帰ってこないでください。 原爆が前衛芸術だろうがなんだろうが人が死んで苦しんでいるなら 損害賠償請求や謝罪要求はしますよ誰でも。バカじゃないんだし。 もっと勉強して立派な人になってくださいよ。学生さん。
- damdamdam
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随分攻撃的ですね。 まずは芸術、という言葉の定義にもよるとは思いますが。 一に、芸術の基準は美しさだけではありません。 人を和ませるもの、怒りを覚えさせるもの、または泣かせるもの。 それらはただ美しさだけによるものではありません。 それとスケール、というのも実は一つの基準になりうるのです。 ナスカの地上絵など、あれは芸術だと思いませんか? 二に、芸術は全て形に残るものではありません。 ゆえに過程そのものが芸術になることもあります。 例えば音楽も芸術の一分野ですが、あれは時間をかけて過程を見て楽しみ、後には何も残りませんね。 しかしその時間、空間を感じることで何がしかの感情を思い起こさせるでしょう。 三に、誰も得をしませんし、損もしません。一つの思想、理念に対し、行動する人と共鳴し、支援する人。損得では無く、互いに立場の違う自己実現です。それに対して資金面も含めて参加するしないは人それぞれです。 そうは言っても、私自身クリストをそれ程好きではありませんし、共感もしません。ただ彼のすることは、大きな自然であり、建造物を梱包することにより、または人の手により一つの物として再認識させることではないでしょうか。かつてデュシャンが便器を制作されたものとして見せたように。 それでもやっぱり金持ちの悪趣味、の感は拭えませんよね・・・
- ov_vo
- ベストアンサー率34% (74/217)
どうも、初めまして。 日本画専攻のひよっこ美大生です。 それはあなた様が「クリストは理解できない。嫌いだ」と思っていれば良いことではないでしょうか。それは全く個人の見解ですので、良いことだと思います。 万人に好まれるものは芸術ではなく良くできたディスプレイです。クリスマスのイルミネーションみたいなもんです。 また特に前衛、というか現代美術においてはただの「美しい」という感情だけでなく、こんな視点は初めてだ、と「はっとさせる」ことに重点が置かれていることが多いと思います。 一つだけ気になったのか「誰が得をするのでしょうか」という一文です。 芸術は本来得をするために行うものではないと思います。得をするためにやるのは職人です。 勿論肖像画を描いたり、依頼された風景画を描いたり、そういう純粋に収入を得るための職人的仕事をする画家でも、本来表現したいものは別口でしっかり描いているものです。 それをやらない画家はもはや芸術家ではありません。 たしかクリストはプロジェクトのエスキースを凄い値段で売り、そのお金で実現していたような。
人間の思考を表現することは限りなく自由であるということです。 人間は誰かによって考えや主義、心情などを侵害される べきではない。美しさの基準も人それぞれであって構わない。 逆のことも考えてみましょう。 A「花火?それのどこが美しいの?頭おかしいんじゃない?」 B「別に美しいと感じるのは人それぞれだろう。」 簡単にいうとこういうことです。 クリストさんはどうしても包みたかったし、傘をならべたかった。 そのことに賛同した協力者がお金を出した。 人々が注目し、メッセージをこめることで数多くの人に メッセージを送ることが出来る。ということですね。 もちろん、なにがいいんだろう?と思うことも自由です。 あなたは良い作品と思わなかった。その意見も重要だと思います。 美の基準が一つしかなかったらつまらないでしょ?
補足
自由なんてものは大抵最悪しか生み出さないと思うのですが。 あなたは「人間は自由であるべき」という主義、心情に侵害されているのではないのですか? ならば、アメリカが「広島に原爆を落としたのは前衛芸術です」と主張した場合なんと返答しますか?
- yerin
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クリストの話ならこのあたりを観てみるとか↓ http://www.cine.co.jp/works/gijido/contents/contents.html http://www.cine.co.jp/works/gijido/critic/critic.html http://www.cine.co.jp/works/gijido/interview/interview.html http://www.cine.co.jp/works/gijido/explain/explain.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88 ところでnitoro2さんはデュシャンの『泉』を見て何を思われましたか?
補足
デュシャンやダダは大好きなんですよ。 それは、第一次世界大戦などによる、人間や、信仰への不信、疑問。 そういうものから生まれた「魂」の叫びが聞こえてくるからです。 今では彼らの作品は芸術作品としてなにやらありがたく扱われていますが、私はダダの作品はありがたく扱うべきではないと思う。 ダダは芸術ではない芸術だからこそ意味があると思うのです。 クリストの芸術はどう考えたって金持ちのお遊びとしか思えない。 政治の虚飾を暴くとかなんとか、それは別にあのような形で行う必要はまったく無いのではないのでしょうか?アンブレラ計画では死傷者も出ています。 大体政治とはそもそも虚飾なのですよ。それが政治なのだと思うのですが。
補足
>万人に好まれるものは芸術ではなく良くできたディスプレイです。クリスマスのイルミネーションみたいなもんです。 それで良いではないですか。万人に認められものは芸術ではないのでしょうか?そんなバカな。 私も昔はあなたのような考えの持ち主でした。しかし、段々胡散臭く思えてくるのです。例えば、アイドルの男にしか興味の無かった女の子がテレビ、マスコミ業界の現実を知り、現実の男の良さを知る、といったところでしょうか。 「はっとさせる」ことなんて、ばか者ならばだれでも出来ると思うんです。 ましてや、クリストの芸術は「規模がでかいから目立つ」ということであって発想自体はたいしたこと無いです。金さえあれば誰でも出来ます。 クリストは「芸術とはなにか?」と世に問いかけたいようですが、その答えは、「クリストの芸術は芸術ではない」と言う事だと思うんです。