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「九州」という呼び名はいつだれが始めたのか
[「九州」という呼び名はいつ誰が始めたのでしょうか。中国的には「九」が全世界を表す、というような感覚があった時代でしょうか。その北の海を「玄海」と呼ぶことと関係があるでしょうか。「州」という行政区画の中国での最初は隋王朝とされると思いますがそれとも関係があるのでしょうか。]
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http://kyuusyu.moonblend.com/ (⇒9/13の項) 「誰によって?」に関しては具体的に例えば後平成(仮名)天皇の指示でと言う事ではなく、何時については上掲URLでの五畿七道(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%95%BF%E4%B8%83%E9%81%93 )の1つの西海道に属する筑前,筑後,肥前、肥後,豊前、豊後、日向、大隈、薩摩の、計9国の総称で、律令制度下の名称の名残と言った感じでしょうか? 尚、http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/cult/cultc6.htmでは大和朝廷の九州王朝が(当時の)シナに倣って呼んだ旨の古田(武彦)学説に触れてはいます。
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#5様の通りだと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E8%A5%BF%E6%8E%A2%E9%A1%8C 結局、鎮西探題の執筆者か、九州探題の執筆者のどちらかが間違った解釈をしているので「分からないのです。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%8E%A2%E9%A1%8C 9国になったのは824年です。 私も、大宰府関係から九州の言葉が出るのを期待します。
お礼
「9国になったのは824年です。」 ありがとうございます。こうした具体的な確認は重要なことです。 それで、気になることが一つあります。 「大宰府」とお書きですが、「太宰府」と、現地では書き続けていると思います。 この表記については、どのような状況があるのでしょうか。
- goo-par1732
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以前「西海道」についての質問があり、「九州」という呼び名についてちょっと文献を調べたことがありますが、結局分かりませんでした。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3491448.html 国語辞典で「九州」を引くと、「古くは日本全土のことを指す」とあり、『凌雲集』や『経国集』の例を挙げて比較的詳しく解説されていますが、九州地方を「九州」と呼ぶのは「九ヵ国」であったから、と説明されているだけです。 「九州」の初出がいつなのか、再度、『記紀』『続日本紀』『日本後記』を調べてみましたが「九州」の名を見つけることはできませんでした。多分、ないと思います。 今の九州は、正式名称の「西海道」と書いてあります。 それどころか「国」を「州」と呼ぶ例もこれらの書物には、私がざっと目を通したところではありませんでした。 日本は、隋唐に倣って「道州制」を敷きましたが、「州」には馴染めず、卑弥呼の時代から慣れ親しんでいる「くに」と呼び、「国」と書きたかったと想像しています。 しかし、会話では「九国」(クコク、キュウコク)は話しにくいですから、きっと「キュウシュウ」と言ったと思います。 最近は、何万、何十万という木簡が、各地で出土しています。 「九州」と書かれた奈良・平安時代のものが出土することを期待しています。 「玄海」は、創拓社『日本地名ルーツ辞典』によれば、諸説あるが、生死の分かれ目となるような危険な場所・立場を意味する「玄クロの海」だろうと推定されています。 古代中国の宇宙感の色から「北は黒」、あるいは「玄亀」から「玄海」という説ではなさそうです。
お礼
「再度、『記紀』『続日本紀』『日本後記』を調べてみましたが「九州」の名を見つけることはできませんでした。多分、ないと思います。 」 お手を煩わせてすみません。でも本当にご確認ありがとうございます。 私は、中国側から何か記事がないか調べています。 魏志倭人伝では「国」が出てきますが、みな、「統治権外」の地域にある政治権力(そう位置づけられるとすればですが)を指していると読めます。南朝劉宋の『宋書』でも、「東は毛人を征すること五十五国…」です。 王安石の『宋史』にいたって、「畿内には山城…すべて五州があり、」として西海道「九州」という言葉を使っています。しかしこれらはすべて中国側からそう呼んだものと解すべきだと思います。 最後の論点「玄海」についての「生死の分かれ目…」説は、魏志倭人伝などの記事にある漁業を得意とする点から、海への懼れは感じますが、特にこの海についてなぜ「生死の分かれ目…」という認識になるのか、今一つうなずけないものを感じます。すみません。
- buchi-dog
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「『州』という行政区画の中国での最初は隋王朝とされると思いますが」 漢和字典を見ると、小さな行政区画としてはシナ文明の始まりとも言える周の制度にあり、漢の時代には「郡」や「国」(いずれも日本人の感覚からは違和感があります)を束ねる13の「州」が全国に置かれました。その制度が魏・呉・蜀の3国に引き継がれました。三国志の劉備が益州を制して「蜀漢皇帝(前主)」に即位したのはご存じかと思います。その後長い年月と南北朝の分裂・戦乱を経て、隋や唐の「州」は漢や三国の「州」とは別の概念になったようです。 日本でいつ「九州」と呼ぶようになったのか良く分かりませんが、今で言う九州が「九州」になったのは律令制度下には違いありません。それがいつかというと、良く分かりません。 「尚、http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/cult/cultc6.htmでは大和朝廷の九州王朝が(当時の)シナに倣って呼んだ旨の古田(武彦)学説に触れてはいます。」 というご指摘は興味深いですね。
お礼
すみません。質問の意図は、「今で言う九州が「九州」になったのは律令制度下には違いありません」が、 それはともかく「日本でいつ「九州」と呼ぶようになったのか」知りたい、というものでした。 700年以前について、明晰な説明をしているのは「古田学説」ということでしょうか。
- go_go_v7
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「州」は、「国名」の別称だと思いますよ。 「信濃」→「信州」 「遠江」→「遠州」 「甲斐」→「甲州」
お礼
ビックリしました。回答が速いんですもの。 初めて質問したので、そのすばやさにまずお礼を言います。ありがとうございました。 内容についてです。これは私の質問の仕方が悪かったと反省しているのですが、「回答1」と合わせて、一応、九つの「国」がある状況は踏まえたつもりなのです。すみません。
- go_go_v7
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筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国 ・大隅国・薩摩国の9国の総称です。 現在は、七県です。 ちなみに、「四国」は、旧国も県の数も「4」です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 後段の、元信州大学の理系の中野先生のHPがとても面白いものだと思いました。私も「信濃」に住んでいますので、何か奇遇を感じます。今は古代学にのめりこんでいらっしゃるようにも読めました。 大宝律令以前が「評」という行政区画であり、その設置主体があいまいでもあることと、「九州」という呼び名の起源のあいまいであることが、どこかで関連しているように思うのです。