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今生きる社会のひな型が無い気がします
親になって感じたことなのですが、 自分が子育をする、あるいは社会生活をするにあたり、 親はこうしていたなと思い出し手本にしたり、 または、意識せずとも自然に同じ事を繰り返していたりします。 私は約30年前子供でしたが、30年前と現在とでは違っていて、 生き方の手本が無いように思います。 例えば、お父さんの時代は、一つのところで勤めあげるのが自然でした。 一つの企業の中で自分の人生を決めていくと思います。 しかし近年は、逆になったと思います。 つまり自分の人生の中で仕事を位置づけていく感じになったと思います。 (それを表現する用語があるのですが、思い出せません) 私の子供時代は近所づきあいがあり、毎日子どもたちは親が付き添わなくても 外で近所の子供たちにもまれ、育って行きました。 しかし今は、隣近所干渉しあわなく気楽な面もありますが、その反面、 親が付き添わなければ大変危険で、子供たちは親同士が約束を取り付けなければ遊ぶことが出来ません。 毎日よその子供と切磋琢磨して育っていく時間が昔に比べて圧倒的に少ないと思います。 学校にしても私の時代は陰湿ないじめは無かったです。 ジャイアンのような子はどこにでもいましたが、そんなジャイアンにも人情やヒトの誇りあったと思います。 他人の手を借りなくても出来る事が多くなって、便利で「我慢する機会」も減ったように思います。 文明のリキが発達して昔に比べたらはるかに便利になりました。 心や時間にゆとりが持ててない気がします。 そして親の時代と違って今の社会を生きるひな型が無くて、 人々は戸惑っているのではないでしょうか。
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noname#80116
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- ANASTASIAK
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- adaypajimy
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回答No.1
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ご回答ありがとうございました。とても勉強になりました。 この回答文で得られた知識を内面に体得したいと思いました。 *** わかりやすく「おじぎ」を例にとってみますと 私はこの社会で生きているうちに自然に「おじぎ」という行為をわかっていて、またそれは私達の共通の動作だと暗黙の了解のうちにわかっている。これが(共同主観)。 ところが、初めて外国に行った時におじぎをしたら通じなかった。「なぜ頭の天辺を見せるのか?」と不思議がられた。 その時初めて「おじぎという共同主観は日本人のものなのだ」と分かる。 ムラ人1「ねえ知ってる?日本人の《おじぎ》は外国ではしないんだよ」 ムラ人2「知ってる知ってる!」 このムラ人1と2の共通認識が、(共同観念)。 ※《 》の中のおじぎは他の言葉にも置き換えられる。死刑制度など。 ※「北海道では」とか「あの学校では」と狭い範囲でも活用される。 昨日のテレビ番組で 江戸時代の銭湯は男女混浴が普通であったと聴いて、現代の私達にはありえないと驚きました。ということは、共同観念は変化していくものと考えられる。 主観とは、わたくしが外を見たり感じたり行為したりすること。 客観とは、そのわたくしが、わたくしを観察すること。 私達は、外(社会生活)で人間語・身体・感性を使うにあたり、いい具合に調整していく(調整するのは意思・愛があるから)。 その調整したS感性でまた外を見て感じて行為する……このように共同主観を形成しつつ生きている。 けれども、この共同主観からから切り離されたA語概念(共同観念)は意思や愛を持たないの調整されずに残っていることがしばしばあり、それに出くわすと人々は戸惑い葛藤しながら生活することになる。 *** ということでしょうか。 まだ理解したという自信がないのですが、このようなことかなと思いましたので書いてみました。 時々社会での生き方に戸惑ってしまう理由もぼんやりとわかってきたように思います。 >社会としてのひな型をめぐる表現形式についてのひな型のようなものを作っていけるのではないでしょうか。 面白そうな作業ですね。brageloneさんはもう作られているかもしくは作業中なのですね。 ありがとうございました。 ※私は海外に行ったことがないので、おじぎの話はあてずっぽうかもしれません。