- ベストアンサー
「愛」とは?
先日、貞操観念について質問したものですが、 (もっとも、その質問は削除されてしまいましたが) この結果から現代人の多くは貞操観念などの愛の規則は、社会システムに大きく関係しているとの事でした。 ならば誰も愛さずに、家族など形成せずとも、社会が成り立つ時代が、科学の力で可能になったとき、愛は意味を無くすのだろうか? 今のこの時代、愛が意味をなしているから、異性に愛を捧げるのか? 所詮、愛の力はその程度なのか? 愛がなくとも成立できる社会ならば、そこに愛はいらないのだろうか? 意見お待ちしています。
- みんなの回答 (29)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
貞操の対極は嫉妬ですね。 貞操を守る人は嫉妬がなく落ち着いているといえます。 そして貞操は自己制裁であるので、それを平気で破る人は情熱的であるとしても賢いということにはならないでしょう。 昔の人に貞操観念が強かったのは結婚年齢が低かったからでも、家事や家族の世話が大変だったからでもなく、好き嫌いは結婚の参考程度のことで価値観や倫理観も単純で比較する情報が少なかった。伴侶が相応しくなかったところで人間関係なしに生きることもままならないし、娯楽も贅沢もなかったので耐えれたと思います。だから煩悶も少なく愛されている感じというものも持てて愛することも難しくなかったでしょうね。
その他の回答 (28)
>伊丹十三さんの話は始めて知ったのですが、これは他殺のような気がします。あなたが言うように、真面目な人ならば、遺書をワープロに書かないと思うな。誠心誠意、手書きで書くと思う。何者かが筆跡を残さないためにワープロに書いたんじゃないだろうか? →今の作家はワープロで小説打っていますが、誠意ないということですかね?現代作家に抗議しよう。編集者もさぞ困ることでしょう 人の自殺の理由をそんな風に 簡単に予測しちゃっていいの? この世でもっとも闇に包まれた最後の瞬間、最後の秘密。 それに罪や判断や予測をたて断固として決めてしまうの?自殺って何か考えたことアル? 一人の人間の自殺に人間全体の人生の価値の有無がかかってると思わない? 本当に人生には救いようがないのか? 一人の人間が個人の、独自の生を生きるということは・・そんなにも限られたことで そんなにも孤独なことで 絶対的なことで そのしがらみがほんとうにどうしようもないということがあるのか? その疑問が一人の人間の「自殺」というものに集約されてる >それに本当に潔白を証明するために自殺したとしたとしても、この人はかっこ悪いです。そもそも潔白ならば死ぬ必要が無いではないか。 自殺するなら、遺書にも「潔白を晴らす」ではなく「罪を犯したので死にます」と書くべきだ かっこ悪いってなぁに? かっこ悪いのが人間。 それに彼はかっこ悪いなんてものとは千万里の距離を持った人です。 >そもそも潔白ならば死ぬ必要が無いではないか 自分の歩んできた道で構成,蓄積さされてきたものについて。真の意味での「思想」について。 それに嘘をつかずに生き、突き動かされてしまう。 こんなことが普通の人にできるかね >「罪を犯したので死にます」と書くべきだ 誰が罪を犯した と「判定」するのか? 彼に対して 「罪」というもの 「道徳」というものについて 述べることができる権利のある人はいるのか???????? 道徳観念について本当に判断を下すことができる人間というのは その精密な観念について述べられる人のことではなくて 「つねに道徳観念について悩む」者のことだ。それは、善人か凡人か悪魔か犯罪者であるかもしれない。 その観念の是非は決断した時点では分からない。それは実践、実行した後に その人だけがその行動の是非を確認できるのだ。 彼は死んでしまいました。実践した後で正しかったかどうか判断することはできないでしょう。 けれでも彼は実践した。身体ごと道徳について悩み、試し、実践し、そして死んだ。 自分の生命を放棄すること 犠牲にすることが貴方にできるのか。 「身体ごと道徳を試す」ということが貴方にできるのか。 道徳的に正しい行為というのはありえない。それについて悩む者、あるいは実践する者だけが「道徳的」であることができる、 それでさえ、保証のある正しさであるわけじゃない。ただ道徳的である、ということだけ。 実践されない、世間の正義や道徳を背中に背負い、誰からの、何の保証も前例もなく、自分自身が貫くものとなって、新しい道徳を作ることを試した彼に何を言えるというのか。 人間を知らず 道徳について悩むことを知らないものが 悩めるわけがない。まして性の道徳なんて。 >さらに言うと、弱さを武器にして不倫を正当化させようなど、愚の骨頂だし、セコいです もうコメントしなくていいよね? 性なんてどうでもいいじゃん もっと大事なこと考えようよ さようなら。
お礼
>「かっこ悪いのが人間」 こう言うあいだみつお的な言い草は嫌いです。「>さらに言うと、弱さを武器にして不倫を正当化させようなど、愚の骨頂だし、セコいです」は、あなたに向けた言葉ですよ。 >「身体ごと道徳を試す」 試していますよ。
- frau
- ベストアンサー率28% (56/199)
「愛」についてのテーマが不倫の是非を問うことになってますね。 同じような別の質問「浮気について」に回答したのですがコピペします。 ---------------------------------------------------------------- 男性は「ホウセンカの種のように(←当方のピアノの師匠のお言葉ですが)撒き散らす性」です。そして結婚は親なし子や人口があふれかえるのを防ぐための理性のひとつ、契約の一種とも考えられます。そして不倫や浮気はタブーになるのは、マクロ的に考えれば日本が「イエ」制度にDNAレベル、文化レベルで束縛です。ミクロ的には束縛されると逃げ出したくなるのが人の心理。もちろんそれを理性で抑えることは個人差がありますけれど。つまり結婚は契約と長年染み込まれた慣習と社会通念に守られているわけですが、どのような事情であれ男女間のことであるならば嫉妬という根源的な情動を防衛するため不倫は「人の道に外れること」と乱暴に定義されるわけです。 心理学的、生物学にも愛が冷めるのは3年説ということもあって。男女間のことはすべて「生もの」だと思います。結婚はタイミングと言われますがそれを逃してみて分かりました。しおれない、腐らないうちに関係を制度化するんです。たとえるなら冷蔵庫?実際のところ冷やすだけ。鮮度も永遠ではない。そこでホットなものを外に求めるわけです。 結婚2年目の人にインタビューしました。確かに結婚して責任感はもつようになったが仮に同棲しているだけならいつでも別れられると思うって。でも結婚してるからといって別れられないわけではないんです。軽い「情」でも月日を車輪のようにして、ふたりの間のエピソードや経験が雪だるま式に膨張すれば重いものになるんです。で、私や彼の場合のようにそのしがらみの「重さ」と外に求める「軽さ」を同時に求めるがゆえの業をせおうことになる。私の場合女であるゆえそのコンフリクトが激しいかもしれない。 ---------------------------------------------------------------- 以上、私の男女観のひとつでした。 >何も覚悟が無いくせに不倫し、そのくせ、不倫を題材とした小説と己を同化させ、己を正当化させようという近代人の頭の弱さが嫌いなんです。 このご意見ちと気になります。ではそれを書いた「近代作家」はどうなのでしょうか。小説というメディアに感化させられる以上にその根源である作家の作品と世界観すべてを否定することになり、しいては過去の芸術作品すべてをも否定することになります。作品が生まれたその過去もその時点では「近代」ですよね? >愛がなくとも成立できる社会ならば、そこに愛はいらないのだろうか? いらなくてもよいと思います。愛を請うから、愛にまつわるトラブルが生じるんです。でもそのために芸術が生まれる。そこにいわゆる無償の愛であっても道ならぬ恋であろうと、不倫であろうと病理であろうと混沌としてるもの、それが愛の実態でしょう。 そして現代の愛の形こそどの時代よりもカオスを呈してる。昔は分かりやすかったんです。「貞操観念」もそのひとつです。一昔前の男性社会は女性の性を妾や遊郭に閉じ込めることで自由を謳歌してた。差別はなくなり今度は女性が自分の性について主体性をもつようになったわけですが、まだ男性のDNAに染み込んでいる女性の「貞操観念」なるものによって、自由という足枷をつけられ、逆説的に自由を選択することすら負担にさせられていると思いますね。 >現代の多くの「愛」とよばれるもの(俗論としての愛ね)は「システム」とみなさずに「ロマンス」だと信じきっている。 ええと、当時の男性も女性を抑圧しておいて遊郭や遊女に「ロマン」を求めてましたよね?永井荷風の世界とか。でも女性側からすれば「システム」にしっかりと拘束されてたわけですよ。男性側のロマンスが女性の犠牲で成り立つ時代があったのなら現代の「奥様連中の軽い不倫三流ドラマ」も許されないという道理はないでしょう。 >人間の欲望の赴くままに、「堕落」した形に変容していく。 また「>奔放な性の堕落」というより病理の形態という側面もあります。恋愛は親との問題を顕在化させる課題である、といいます。例えば恋愛・セックス依存(またこれを含む境界性人格障害の症状など)の精神病理の原因は親からの精神的、肉体的虐待や人間関係上のトラウマや愛情飢餓からくるものなんです。とすれば一概に「堕落」とはいえないでしょう。 また「堕落」にも背景と理論、そして道理があるんです。欲望の赴くままに生きている人もいるでしょうけれど、そういうのをデカタンスといいまして、またそれはそれで立派な美学(太宰やフェリーニ作品のような)であります。 病理の増加も時代性の特徴としても「愛」の需要はまだまだ必要とされるのではないでしょうか。そもそも本来幻想であるのが愛であるならば時代性という具体的なものによってさらに手の届かない幻想となるのでは・・・と考えます。 ご質問者様は「貞操=無償の愛」という図式をお持ちですか?であるなら私は同じ種に対しそれは幻想である、理想論であると思います。確かに「愛の詩」「愛の小説」「愛のドラマ」は星の数ほどあります。私でももうお腹いっぱいですよ(笑)。でもそれは理想を歌っているんです。歌い手や歌詞を作った作家の、作品すべてがノンフィクションとはいいがたい。でも人はなぜか謳いつづけるんですよ、時代に関係なく。ということは「愛」という実態のない概念は時代システムにかかわりない普遍的なものなのでしょうね。その時代が求めるものによって貞操観念とか不倫ブームという流行りがうまれるけれど、ひとつの結果論であって愛という概念はまつりあげられるというよりその意味が置き去りにされる。 >愛を信じているのならば、人間の意志で「愛」と厳格に向き合い、愛を人間の「意志」で不変のものであると定義し、努力しなければならないのだが、 ご質問者様の図式は貞操観念=愛の理想、または理想の愛なのでしょうか?時代とからめてますが、時代性にこの図式を求めることはかつての封建時代を謳っているようで個人的には重苦しいものを感じますし、文化として求めているのならそれは芸術の自由性を否定しているような気がしないでもないです。明確な家族システムが伝統としての「日本のイエ制度」であるなら、「貞操観念」もいつか崩壊する時代を迎えます。 >愛の力はその程度なのか? 愛それ自体が模索、哲学してるんです。昔から。誰のものでもなく、皆のものです。本当に愛があればこの世界は統一されてます。 宇宙規模(神様の世界)でいえば >愛の力はその程度なのか? なのでしょうね。皆愛を求めているから逆に争いごとや憎しみが絶えないのかなと。太古の時代から「愛」が私達にその課題をつきつけています。その記憶がDNAに継承されないのであれば私達の子孫も絶えるでしょう。初めに愛ありき、そして終わりもきっとそうであると信じたいですね。宇宙も人類も個人レベルでも。 長くなってしまいましたが最後に。 >やはりそこに物語を捻出しょうとういならば、精神性が必要なのであり、精神性を伴うのならば、やはり性に奔放にはなれないと思うな。 「物語」が必要なら精神と肉体は不可分です。どちらか一方ならあなたが恩恵を受けているすべての芸術作品は「検問」「添削」ばかりの読み捨てられる週刊誌のようなものになるでしょう。 同様「堕落」における「ケガレ」は美なくしては存在しませんしその逆もまた然りです。ふたつのもの(二律背反性)の同一性の本質、真髄って、ふたつとも触れなければ分かりません。精神はケガレを伴って美しく鍛えられる場合もある。 それら不可分のあいだの拮抗状態あってそのコンフリクトに悩む、それが芸術や人間性の深化、新しい魂を創造させるのではないでしょうか。 えっとわたくしごとになりますが、不倫相手が観念的に「人を愛するとはどういうことか分からない」とマジメに考えておりました。「不真面目」といわれるであろう彼はマジメに考えることができる人だったのだなと新たな発見が。男って、女って人間て面白いものですね(笑)。
お礼
(続き) >「愛の詩」「愛の小説」「愛のドラマ」は星の数ほどあります。私でももうお腹いっぱいですよ(笑)」 その「愛」にもレベルが存在します。『セカチュー』系の、愛を商売にしたものは私も飽きたし嫌いです。しかし、それ以上の愛を提示した芸術は確かに存在します。私はどっちかって言うと、性に奔放なものにお腹いっぱいです。 >「封建時代を謳っているようで個人的には重苦しいものを感じますし」 封建主義=「悪」というのもそもそも時代遅れでは。 >「芸術の自由性を否定しているような気がしないでもないです」 否定しています。独創性の一人歩きが芸術を殺してしまった。 >『不倫相手が観念的に「人を愛するとはどういうことか分からない」とマジメに考えておりました。「不真面目」といわれるであろう彼はマジメに考えることができる人だったのだなと新たな発見が。』 「人を愛するとはどういうことか分からない」って、真面目に考えてないやん(笑)。 ま、そもそもあなたは「愛」がいらないと仰っているので、もう、なんとも言えないです。そもそもこどもが出来たときどうやって「信頼」を教えるんですか?
補足
>「心理学的、生物学にも愛が冷めるのは3年説ということもあって……そこでホットなものを外に求めるわけです」 言い訳にしか聞こえないですね。では何故、ずっと不倫せずに夫婦円満な家庭が「確かに」存在するのでしょう? 心理学、生物学が絶対的なものだという根拠はないです。フロイトもラカンもクラインも、キチ外じみた妄言は沢山している。あなたは、その妄言は信用せず、自分にとって都合の良い説だけ取り出して自分を正当化していますね。あなたは単に、人を愛する力が弱く、欲望に屈しやすく、それか単に運命の人に出会っていないだけなのではないのでしょうか? >『根源的な情動を防衛するため不倫は「人の道に外れること」と乱暴に定義されるわけです』 根源的な情動を防衛できるのならば、それは「乱暴」な定義ではなく、「正統」な定義なのではないのですか? >『このご意見ちと気になります。ではそれを書いた「近代作家」はどうなのでしょうか……作品が生まれたその過去もその時点では「近代」ですよね?』 私の定義する近代とは「戦後」のことです。 確かに最近の甘っちょろい不倫小説を書く女流作家とか普通にクソですね。 戦前の、不倫を題材とした作家にも目を向けてみましょう。戦前の昭和、それは今以上に不倫は「罪」でした。それでも、罪の意識を感じつつ、いや、それだからこそ、罪と戦う激しい魂から人々を感動させる文学が生まれたのではないでしょうか?つまり、我々一般市民以上の魂の慟哭が人々を感動させるにいたった。太宰に至っては自殺してしまいました。 しかし、現在の作家、一般大衆の不倫の意識は実に軽い。軽すぎる。そこに嘗てのドラマはない。あるのは自堕落な楽観性のみ。 >「そして現代の愛の形こそどの時代よりもカオスを呈してる。昔は分かりやすかったんです。「貞操観念」もそのひとつです……逆説的に自由を選択することすら負担にさせられていると思いますね」 カオスに呈させてしまったのは、あなたのような考えを持った大衆の責任ですね。 あなたは、なにか「自由」を素晴らしいもののように捕らえているけど、「自由」がすばらしいとする根拠は何なのですか? その腐った自由観のせいで、欲望まみれのヤツが野放しにされ、愛は汚されてしまった。 >『ええと、当時の男性も女性を抑圧しておいて遊郭や遊女に「ロマン」を求めてましたよね?……現代の「奥様連中の軽い不倫三流ドラマ」も許されないという道理はないでしょう』 う~ん、こういう例えはどうでしょう?政治家の年金や天下りなどの 不正を批判している人がいたとします。その人が政治家になったとたん、「今まで政治家は大衆を犠牲にして金を巻き上げ、しふくを肥やしていた。だから嘗て大衆だったおいらが大衆から金を巻き上げても、道理は通るだろう」と言ってるのと、あなたの論理は一緒ですよ。 >『また「堕落」にも背景と理論、そして道理があるんです……またそれはそれで立派な美学であります』 これですよ。この意見こそ現代人の醜悪さを顕著に物語っています。 坂口安吾や石川淳、織田作之助、大好きですよ。大好きであるが故に現代人の不倫はクソだとしか言えない。坂口の時代は敗戦という時代背景がまず前提にあり、堕落しなければ生きていけなかったのである。だからこそ『堕落論』の意義があった。それは、つまり、当時の人々が純潔による恋愛がしたかった。しかしそれは時代のせいで出来なかった。 変わって、現代では堕落する必要が無い。純潔な恋愛をしようと思えば出来る。しかし、現代人は豊かさに溺れ性に奔放で、そのくせ、罪を問われれば、あなたのような意見を言う。時代背景や精神性、誇り高さがまったく違うのにもかかわらず。その点において現代人の性は本当の意味で堕落している。
ANo.14です >私は何も覚悟が無いくせに不倫し、そのくせ、不倫を題材とした小説と己を同化させ、己を正当化させようという近代人の頭の弱さが嫌いなんです。 自分の生活より先にメディア・ドラマがある時代だからでしょうか、でもそれは性に関することだけじゃないと思います 自分の感覚の中で何を大事にし、守るの? 身体感覚としてはどうするの?海水浴では開けっぴろげか 日陰が好きか とか 心は秘密主義?それとも結構露呈主義...?? という具合に、 自分の選ぶ、あるいは与えられる「快・不快」について 幾つになっても何のこだわりも 選択もなくSMも何でもOKです、というのは 動物的なのかな?と思います。 大真面目にいうと、[身体感覚]は魂の尊厳に関わってくるものと思います。 例えば一度でも人に暴力を振るわれて 嫌な思いをしたとしたら.....たとえ[身体の傷]でも簡単には癒えない。 ですが不倫に関して 真面目すぎて悲惨な例を知ってます。 伊丹十三という 賢くて 超純粋な方がいましたが、(ヤクザ抗議の映画を作ってヤクザに顔を切られたり 国民に脱税するなー!!と訴えたりしていた人です) 謎の「自殺」を遂げてしまいましたが以下がその経緯です 1997年12月20日、写真週刊誌「フラッシュ」により不倫疑惑が取り沙汰されたことに対して「死をもって潔白を証明する」とのワープロ打ちの遺書を残し、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンションから投身自殺を遂げた。しかしながら、他殺とされる見解も多い。それは不倫疑惑について週刊誌の記者からインタビューを受けた際に「妻に聞いてみればいいよ」と笑いながら、全く意に介さず「いつものことだから」のように軽口を叩いていた伊丹が突然それを「死を以って証明する」と自殺するのはあまりにも不自然すぎるからであった。伊丹十三の「自殺」を知った宮本信子は立ち上がれないほど憔悴しきってしまったという。 真面目すぎる人は生きてゆけないのだと思いました(::) 非常に愛妻家の方でしたが 多分ほんとに、最後に一回 安っぽいお姉ちゃんとちょっとした浮気してしまった。。。。 きっと、ほんのちょっとした間違いだったのに・・・ 皆と同じように 少しもろかっただけ。 奥さんに 貴方だけが私の大事な女性ですというような遺言を残したと聞きます。。 涙が出てくるでしょう? 人間はもろいんだ..... だからあまり 罪とか 覚悟とか 倫理とかを作りすぎてはいけないと思います。。 伊丹十三のような人のためにも
お礼
すいません。間違って補足してしまいました。 >「でもそれは性に関することだけじゃないと思います」 その通りです。でも今は性をテーマに扱っていますし、性という重大な問題を他のものと同列に扱っている時点で変です。 >「ですが不倫に関して 真面目すぎて悲惨な例を知ってます」 同じように、不真面目すぎて悲惨な例(こちらのほうが遥かに多いと思います)は世の中に沢山あります。どちらかというと真面目すぎて悲惨な方が人々を感動させる力があると思います。 伊丹十三さんの話は始めて知ったのですが、これは他殺のような気がします。あなたが言うように、真面目な人ならば、遺書をワープロに書かないと思うな。誠心誠意、手書きで書くと思う。何者かが筆跡を残さないためにワープロに書いたんじゃないだろうか? それに本当に潔白を証明するために自殺したとしたとしても、この人はかっこ悪いです。そもそも潔白ならば死ぬ必要が無いではないか。 自殺するなら、遺書にも「潔白を晴らす」ではなく「罪を犯したので死にます」と書くべきだ。 さらに言うと、弱さを武器にして不倫を正当化させようなど、愚の骨頂だし、セコいです。
補足
>「心理学的、生物学にも愛が冷めるのは3年説ということもあって……そこでホットなものを外に求めるわけです」 言い訳にしか聞こえないですね。では何故、ずっと不倫せずに夫婦円満な家庭が「確かに」存在するのでしょう? 心理学、生物学が絶対的なものだという根拠はないです。フロイトもラカンもクラインも、キチ外じみた妄言は沢山している。あなたは、その妄言は信用せず、自分にとって都合の良い説だけ取り出して自分を正当化していますね。あなたは単に、人を愛する力が弱く、欲望に屈しやすく、それか単に運命の人に出会っていないだけなのではないのでしょうか? >『根源的な情動を防衛するため不倫は「人の道に外れること」と乱暴に定義されるわけです』 根源的な情動を防衛できるのならば、それは「乱暴」な定義ではなく、「正統」な定義なのではないのですか? >『このご意見ちと気になります。ではそれを書いた「近代作家」はどうなのでしょうか……作品が生まれたその過去もその時点では「近代」ですよね?』 私の定義する近代とは「戦後」のことです。 確かに最近の甘っちょろい不倫小説を書く女流作家とか普通にクソですね。 戦前の、不倫を題材とした作家にも目を向けてみましょう。戦前の昭和、それは今以上に不倫は「罪」でした。それでも、罪の意識を感じつつ、いや、それだからこそ、罪と戦う激しい魂から人々を感動させる文学が生まれたのではないでしょうか?つまり、我々一般市民以上の魂の慟哭が人々を感動させるにいたった。太宰に至っては自殺してしまいました。 しかし、現在の作家、一般大衆の不倫の意識は実に軽い。軽すぎる。そこに嘗てのドラマはない。あるのは自堕落な楽観性のみ。 >「そして現代の愛の形こそどの時代よりもカオスを呈してる。昔は分かりやすかったんです。「貞操観念」もそのひとつです……逆説的に自由を選択することすら負担にさせられていると思いますね」 カオスに呈させてしまったのは、あなたのような考えを持った大衆の責任ですね。 あなたは、なにか「自由」を素晴らしいもののように捕らえているけど、「自由」がすばらしいとする根拠は何なのですか? その腐った自由観のせいで、欲望まみれのヤツが野放しにされ、愛は汚されてしまった。 >『ええと、当時の男性も女性を抑圧しておいて遊郭や遊女に「ロマン」を求めてましたよね?……現代の「奥様連中の軽い不倫三流ドラマ」も許されないという道理はないでしょう』 う~ん、こういう例えはどうでしょう?政治家の年金や天下りなどの 不正を批判している人がいたとします。その人が政治家になったとたん、「今まで政治家は大衆を犠牲にして金を巻き上げ、しふくを肥やしていた。だから嘗て大衆だったおいらが大衆から金を巻き上げても、道理は通るだろう」と言ってるのと、あなたの論理は一緒ですよ。 >『また「堕落」にも背景と理論、そして道理があるんです……またそれはそれで立派な美学であります』 これですよ。この意見こそ現代人の醜悪さを顕著に物語っています。 坂口安吾や石川淳、織田作之助、大好きですよ。大好きであるが故に現代人の不倫はクソだとしか言えない。坂口の時代は敗戦という時代背景がまず前提にあり、堕落しなければ生きていけなかったのである。だからこそ『堕落論』の意義があった。それは、つまり、当時の人々が純潔による恋愛がしたかった。しかしそれは時代のせいで出来なかった。 変わって、現代では堕落する必要が無い。純潔な恋愛をしようと思えば出来る。しかし、現代人は豊かさに溺れ性に奔放で、そのくせ、罪を問われれば、あなたのような意見を言う。時代背景や精神性、誇り高さがまったく違うのにもかかわらず。その点において現代人の性は本当の意味で堕落している。
愛というより、現代人の貞操観念が問題なんですね。 別に愛がなくても貞操観念のある人はあるし、ない人はないんじゃないですか? 愛と貞操観念をごちゃごちゃにするとわからなくなります。 >でも、昔の日本は性におおらかだったといっても、その反面、良家の子女は性に厳格に育てられていました。 そういう女性が両親の逆らえず、相手を愛してないけど結婚して 一生不倫しなければ、それは愛なしでも貞操観念があることなるじゃないんですか? 質問者さんの言う愛とはセックスのことですか? 質問文の愛をセックスと置き換えて考えると、 セックスはなくても成立するけど、ないとつまらないって感じじゃないですか?
補足
>「愛というより、現代人の貞操観念が問題なんですね」 いいえ、問題はもっと根深いものだと思います。 確かに私の定義するところの「愛」が不明確でしたね。 俗論の「愛」恋人間の「愛」でいいです。お手数ですが過去の私の補足を見てください。 >「愛と貞操観念をごちゃごちゃにするとわからなくなります」 ここが問題です。 あなたは(現代人のほとんどの人が?)、愛と貞操観念を別々のものだと捕らえているが、しかし、一昔の日本ならば貞操観念は愛に内包された概念だったのではないのでしょうか? 愛の様式は変わっていく。それも、「厳格」にではなく、人間の欲望の赴くままに、「堕落」した形に変容していく。 そもそも「愛」が永遠ならば愛の定義はいつまでも変わらぬはずなのに時代とともに変わっていく。それなのに現代人は愛を永遠のものだと信じ込みたいのである。 愛を信じているのならば、人間の意志で「愛」と厳格に向き合い、愛を人間の「意志」で不変のものであると定義し、努力しなければならないのだが、現代人の性はおおらかになるばかり、自堕落な愛の形をとっている。 >「そういう女性が両親の逆らえず、相手を愛してないけど結婚して 一生不倫しなければ、それは愛なしでも貞操観念があることなるじゃないんですか?」 その通りですね。そこには愛が無いですね。 私は決して貞操観念だけを問題にしているのでは無いのですよ。 >「質問者さんの言う愛とはセックスのことですか?」 そんな話ではないです。俗論としての「愛」でよいです。大衆に支持されている愛の概念でも良い。
>でも、世の中の常識に納まりきれない精神が、芸術を生み、文学を生んでる事実を考えてみれば、あなたの仰りたいこともある程度理解できる こんなことを言ったつもりはないですー汗 なんか真逆な感じがします 芸術文学を生み出す人は私とは関係ないし 小説を書くなんて実際変な人が多いと思いますよ? でも質問者さんのように色々気になってしょうがいない!というのならバーっと文学等読んだら参考書になるんじゃないかしら。 >自堕落な性が嫌いなんですよ 自堕落じゃない不倫検索をしてみるとか 不倫を不倫とは思えない一冊↓ http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%8B%E5%BE%AE%E7%AC%91-%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%83%B3/dp/4102118020 悲しいんですすごく(ToT) でも全体としてnitoroさんの言ってることは分かりますよー 性の情報、事態がズカズカ入り込んでくるから スラム街に住んでるみたいな感じで傷つけられますよね スリートで麻薬を売ってて 親や住人がジャンキーになっていくような区域に住む諸外国の若者達の 暴力的な日々はさぞ大変だろうな。 なんてよく思ったりします
お礼
いや、mintowall2さんが小説を紹介してくれるし、愛と文学は斬っても斬りはずせないものだし、それに、>「芸術文学を生み出す人は私とは関係ないし 小説を書くなんて実際変な人が多いと思いますよ?」は、その通りです。そのように私は書いたつもりなんですが……。 私は何も覚悟が無いくせに不倫し、そのくせ、不倫を題材とした小説と己を同化させ、己を正当化させようという近代人の頭の弱さが嫌いなんです。 「小説に出てくる人物ほど出来た人間なんかい!?」と思わずつっこまずにはいられません。 大衆は、不倫という「罪」を犯しているのにも関らず、綺麗なままでありたいのだ。そして、そう信じ込みたいのだ。そこで口実にされるのが「不倫小説」であり、「過去の日本は性に奔放だった」みたいな愚劣な意見だと思うんですが、どうですかね?そこには思考停止の楽観性しかみられません。 さらに言うと、私は、不倫はある程度認めているんですよ。 ただし、覚悟の伴う不倫ならね。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
>「愛」を社会「システム」と安易に言い換えても それは飛躍しすぎじゃないでしょうか。人間はマシンじゃないし、逆にサルに戻ることも出来ないですよ。 結婚は結納、結婚式、入籍届けというシステムとお互いの「気持ち」から成り立っていると思いますが、システムを否定したいがために結婚を否定すれば、「気持ち」まで否定することになるんじゃないでしょうか。 絶対を信じてはいないと言うなら、全ては割合の問題であると理解できるはずじゃないでしょうか。 このまま時代が進むと全人類の半数を占める女性がみな浮気大好きな人妻になるとは思えません(悪くない気もしますが)。 私にはnitoro2さんの取り越し苦労だと思いますよ。
補足
>「それは飛躍しすぎじゃないでしょうか。人間はマシンじゃないし、逆にサルに戻ることも出来ないですよ」 いや、だから、貞操観念を信じている人にとって、性におおらかな人は「猿」なんじゃないでしょうか?私もそう思ってました。 そこで、以前、質問してみれば、貞操観念は社会システムだったから現代でも信じているのは滑稽だと言われてしまったんです。 >『結婚は結納、結婚式、入籍届けというシステムとお互いの「気持ち」から成り立っていると思いますが』 その「気持ち」さえも、貞操観念がシステムだという人からしてみれば「システム」だと思うんですが、現代の「愛」を信じている人はそれをシステムと認めないのです。思いっきり矛盾していますよね? >「システムを否定したいがために……」 私は何もシステムを否定したいのでは有りません。 現代の性におおらかな社会は、自身の「愛」も否定しかねないのに、過去の愛ばかり否定し、何故、現代の愛は信じることが出来るのか?ここが肝です。 >「このまま時代が進むと全人類の半数を占める女性がみな浮気大好きな人妻になるとは思えません(悪くない気もしますが)」 何故、悪く何のですか?是非、補足してください。参考にします。 >「私にはnitoro2さんの取り越し苦労だと思いますよ」 「愛」は現代の宗教です。 人々に宗教だと思わせないところが、ますます宗教的です。そして、人は宗教なしには生きていけない。 ですから、非常に重要な問題です。 取り越し苦労なんていわないでよ。
- ommani
- ベストアンサー率20% (1/5)
人間は「愛」を誤解していることが多々あると思います。 例えば、嫉妬。「私は彼を愛しているから嫉妬する」というのは、愛ではなく、所有欲です。 大抵の恋愛もそうです。「私はあなたに性欲を満たしてあげる、だからあなたは私に安心感をちょうだい」と暗黙の了解で取引を行います。 愛とは、一番遠い「不安」と誤解されていることが多いのです。 赤ちゃんと接しているとき楽しい気分になります。美しい風景を見たとき自然と感動します。両親は子どもを無条件に愛を注ぎます。 愛とは自由であり、見返りを求めないものです。もちろん、この説明も愛の複数の側面のほんの一部でしかありません。 「愛とは何か?」これを完全に理解することは不可能かもしれません。なぜなら、「神とは何か?」と同じ疑問だと私は思うからです。 神は有限だと思いますか?無限だと思いますか?どこか特定の場所にしか存在しえないと思いますか?どこにでもしていると思いますか? 神という言葉を出すと、宗教臭く感じますが、愛という言葉に置き換えることもできると思います。 神が無限だとすれば、愛も無限。無限を完全に理解するということは、あなたが無限を超越する存在だということになるからです。 人は神だと思っているのですが、神以上でもなく、神以下ではない神そのものです。 あなたの本質が愛なのに、どうして愛をなくすことができるでしょうか?
お礼どうもNo6ですー >夜這いは「奔放」ではない。そこに仕来りがちゃんとあり、神の行為でした。 これは違うと思いますねー。 & >先の奥様の例のように、現代人の性には意味がまったく無いように思われます。 気持ちは分かるけどほんとうにそうかな??? 奥様の一人一人にインタビューしても本人達にも自分の営みの意味が分からないだろうけど レベルの低い形であれ 彼女達は身体ごと何かを生きる兵士達で その一過性の姿なのかもしれませんよー?例え不特定で曖昧な対象に向かってても いつか何かを本質へと昇華するための行為かもしれませんよー? ボンヤリ考えても、人間のおこす行為がそこまで意味のないものとは私は思えないなァ 他にも援助交際とか何でもいいけど、「あれは汚かったね。あれは社会がちょっとトチ狂ってて欲望まみれだったんだね。」 こんな感じで流せば流せることだけど彼らなりに質問者さんのいう「ドラマ、ロマンス」があるかもですよ? と提起です 俗っぽい意味でとらないで下さいねー
補足
>>『夜這いは「奔放」ではない。そこに仕来りがちゃんとあり、神の行為でした。 これは違うと思いますねー』 そうですか。違いますかね?でも、昔の日本は性におおらかだったといっても、その反面、良家の子女は性に厳格に育てられていました。ですから、昔の人が性におおらかだったとは一概には言えないと思いますね。 う~ん。なんというか私は自堕落な性が嫌いなんですよ。不倫するならなんで結婚したの?子供をどうして生んだの?子供にどうやって「信頼」というもの教えられるの?とか考えてしまう。 結局現代の性におおらかな人って「個」のことしか考えていないのではないか。「公」を考えるならば性におおらかにはなれないと思うな。 でも、世の中の常識に納まりきれない精神が、芸術を生み、文学を生んでる事実を考えてみれば、あなたの仰りたいこともある程度理解できる。けれども、だからこそ、不倫やフリーセックスは闇の世界のものとして存在し罪悪感が伴うものだと思うんです。 最近では、新聞でも不倫の経験、ある?ない?みたいなアンケートが、「ポップ」に特集されていましたし、これは、若者の私からしても異様だと思います。 最近の奥さんや若者はむしろステータスとして不倫を楽しんでいるような?そんな人たちにもちゃんと「ドラマ」はあるだろうけど所詮それは「三流ドラマ」のような気がします。 やはりそこに物語を捻出しょうとういならば、精神性が必要なのであり、精神性を伴うのならば、やはり性に奔放にはなれないと思うな。
- Fenrisulfr
- ベストアンサー率22% (21/95)
私見ですが、愛とは『欲するところ』の美名に過ぎません。 つまりは、慾を愛と言い換えているだけです。 慾が存在しないような社会になれば愛は存在しなくなるでしょう。 しかし、慾が存在する限りは、それを人は愛と呼ぶでしょうね。 (そうではないと仰る方がおられれば、『愛ではあるけど慾ではない』何かをお示しいただきたい。)
- ganesha_me
- ベストアンサー率24% (27/109)
カプセルで培養されるのが当然で、 接触自体が不潔となればスキンシップも交配も無用になりますね。 多分、質問者様は異性に対しての「愛着」と神の「慈悲」を混同されています。 神は人間が滅びても「自ずとあるもの」ですから、社会も同じです。 偉大な愛とは自ら人の為に犠牲になった”イエス=キリスト”の恵みに感謝して、私たちが神の手によって生かされていると謙虚に生きる姿勢です。 愛が意味を成すなどと考えるのは人間の傲慢です。 もちろん仏教においては「愛」は「愛執」を意味し執着する心の愚かさを説いています。 それとは別に、人が人として共に生きるという姿勢は大切ですから、 人類の繁栄を願って異性との生活を大事にするのは良いことですし、 それなりに意味があると思います。 人が未来を築いてゆくのであれば、社会も人のためであり、 それらは科学が進歩しても変わることはないでしょう。 「愛」という言葉に惑わされないようにして下さい。
お礼
ありがとうございます。
お礼
遅くなってもうしわけありません。 そうですね。 う~ん、なんだか良回答に選んでしまいましたが、改めて読んでみると別に良回答でもないですね。すいません。 結局、「人間なんてそんなもの」って言ってるだけですよね。 悲しいです。