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「愛」とは?
先日、貞操観念について質問したものですが、 (もっとも、その質問は削除されてしまいましたが) この結果から現代人の多くは貞操観念などの愛の規則は、社会システムに大きく関係しているとの事でした。 ならば誰も愛さずに、家族など形成せずとも、社会が成り立つ時代が、科学の力で可能になったとき、愛は意味を無くすのだろうか? 今のこの時代、愛が意味をなしているから、異性に愛を捧げるのか? 所詮、愛の力はその程度なのか? 愛がなくとも成立できる社会ならば、そこに愛はいらないのだろうか? 意見お待ちしています。
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貞操の対極は嫉妬ですね。 貞操を守る人は嫉妬がなく落ち着いているといえます。 そして貞操は自己制裁であるので、それを平気で破る人は情熱的であるとしても賢いということにはならないでしょう。 昔の人に貞操観念が強かったのは結婚年齢が低かったからでも、家事や家族の世話が大変だったからでもなく、好き嫌いは結婚の参考程度のことで価値観や倫理観も単純で比較する情報が少なかった。伴侶が相応しくなかったところで人間関係なしに生きることもままならないし、娯楽も贅沢もなかったので耐えれたと思います。だから煩悶も少なく愛されている感じというものも持てて愛することも難しくなかったでしょうね。
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- al8cino
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時代によって、表現方法に違いがあっても、本質は何も変わらないように思います。 論理的につきつめれば、様々な解釈が出来るとしても、結局、その解釈も表現の違いだけであって、人類は延々と同じことを繰り返してます。 おそらく、愛と人間は、不可分の関係にあるものと思います。 とはいえ、愛も人間も、目的や意味など、なんだかさっぱり分かりません。 敢えて、例えて言うなら、人間を光とすれば、愛は時間のようなものでは? 光のない世界に時間は無意味。時間が止まれば光も止まってみえる。 私には、想像力がないのか、愛のない人間というのが、思い浮かびません。それ即ち、人間ではない、ことになってしまうのでは...
お礼
ありがとうございます。 >「愛も人間も、目的や意味など、なんだかさっぱり分かりません」 わからないからと言って、投槍になるのではなく、考えることが人間であり、哲学ですよね。
- shift-2007
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#4です。 絶対的な貞操観念があると考えている、或いは信じているのですか。 昔あったそれは昔流の「システム」ではないといえるのでしょうか。 私にはシステムは変わっても気持ちは変わらないと思えるのですが。 ちなみに 夜這いについて調べてみると昔も案外奔放だったようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E9%80%99%E3%81%84
補足
>「絶対的な貞操観念があると考えている、或いは信じているのですか?」 絶対的には信じていません。 ただ、私達現代に生きる日本人の多くは、幼いとき、音楽、アニメ、映画、ドラマなどで、性に開放的=「悪」という価値観を持たされました。 それ自体は安っぽい価値観かもしれません。だがしかし、それが意味をなさない時代が来たとしても、「嘘だとわかっていても」信じ続けるという事は非常に意味があると思うのです。多くの日本人がそれを信じ続けていたならば、そこにはなんらかの、「ドラマ」、「ロマン」、「意義」が生まれ出るはずです。そして、それらは非常に人間らしい感情といえるでしょう。 だがしかし、現代の多くの性に開放的な人たちの意見は、理論も何も無いように思うのです。あくまで「快楽」だけ。そこには感情がまったくみられない。非常に動物的だと思うんです。 >「夜這いについて調べてみると昔も案外奔放だったようです」 最近、やたら、かつて日本も性に奔放だったとか言って、己の自堕落さを正当化しようとする人たちがいますが、これは、「私は物事を表面的にしか捉えることが出来ません」と言っているにすぎない。 夜這いは「奔放」ではない。そこに仕来りがちゃんとあり、神の行為でした。 それに比べ、先の奥様の例のように、現代人の性には意味がまったく無いように思われます。 私が言いたいことは「愛」を社会「システム」と安易に言い換えても良いのだろうか?ということだ。そこには、なんの人間らしいロマンスがみられない。
なるほど愛って異性との愛の話だったんですね(’O’)/ 一対一の男女の恋愛 近代の恋愛の道徳について焦点を当ててらっしゃるようなので http://www.amazon.co.jp/%E7%BE%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E3%82%88%E3%82%8D%E3%82%81%E3%81%8D-%E4%B8%89%E5%B3%B6-%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB/dp/4101050090 こういうのpick upです 人間同士が完全な意思疎通、理解ができるならなくなると思いますが そういう退屈千万な世界を自然が作るとは思えないので 人間同士に謎がある限り 根本的営み 想いの芽生えは なくなるとはとても思えないですね 哲カテより 他の場所で黙々と魅惑の方程式を見続ける方が役立つと思いますよ 退散=3
お礼
ありがとうございます。 三島由紀夫大好きですよ。 でも一番好きなのは、やっぱり太宰治やなぁ。
- bananasand
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「愛」は、主観的な思想に属するものですから、貞操観念などに反する行為をを公序良俗あるいは社会通念上許されない行為として無効とする規則、規範。慣習法が存在しても直接的に「愛」と関係するとは言えないところが残念なところです。 愛に意味があるか、異性に愛を捧げる理由、愛の力、愛がなくとも成立する社会いずれも客観的に見極めが出来る基準が確定できないのではないでしょうか。 つまり、その規則等の立法理由やそれらが存在する理由が「愛」にあるのではなく、争訟の解決の手段そのものであったり、習慣だったりすると感じます。 あと、(蛇足ですが)愛と死は、その関係性が意外に深いように思います。死に関する規定や習慣で、死亡の認定、死体の扱い、弔いの習慣などを一義的、画一的に規定するといわゆる愛も本来のエネルギーを失い画一化される傾向があると感じますね。ご質問者様の言われる愛がなくとも成立できる社会では、死は非常お行儀良くに画一化されているに違いありません。 蛇足で何を言いたいかというと、抽象的な愛を手段を尽くして直接規定するよりも、死を厳格に規定することである程度コントロール出来たのかと思うわけです。愛を含めた管理される側の思想は、完全な自由を与えると管理者側からみるとやっかいな代物なのではないでしょうか。
お礼
非常にありがとうございます。
- shift-2007
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#1です。 以前のご質問は知らないのですが、 「愛」を定義できるんですか? 「愛」が定義されればその定義から外れたものは「愛」ではないということですよね? 愛の定義はなんですか? なぜ定義された「愛」ありきなんですか。
補足
現代日本、大衆に指示されている俗論としての恋人間の「愛」でいいです。 いや、「愛」を「気持ち」と言い換えてもいいです。 そこに具体的な定義は無いです。 ただ、人間の強い愛の証として貞操観念があるのではなく、社会システムとして取り入れられたと言うのならば、なにが本当の人の気持ちなんだろうか?と言うことです。 なぜならば、現代の「愛」、たとえば、『タイタニック』を観て泣くとか、結婚式で永遠の愛を誓うとか、貞操観念がシステムだというのならば、これらも所詮システムだ。「そんなもんに感動する価値はあるのだろうか?」とか私は考えてしまって、空っ風が心に吹く。 なぜ現代人の多くは過去の純潔の証を、「現代では何の価値も無い古臭い道徳観」の一言で無にし、性に奔放になれるのか? 現代もやがて過去になる。そのとき現代の愛の証明もやがて意味を無くすときが来るだろう。そこに根源的な空しさを感じずにはいられない。 例えば、「今時、不倫なんて当たり前だよね~」と言って平気で不倫をする奥様がいたとします。 その奥様が、不倫は絶対に許されない時代に生きていたならば、絶対に不倫はせず、したとしても、なんらかの罪悪感は感じるだろう。 何故ならばこの奥様は大衆の流れに乗っているだけだから。 つまり、この奥様の価値観は時代の波に流されるのみで、つねに移ろっている。 現代人の多くは過去の愛は「システム」とみなすにも拘らず、現代の多くの「愛」とよばれるもの(俗論としての愛ね)は「システム」とみなさずに「ロマンス」だと信じきっている。 かれらは流されるのみ、実は流されない強い「気持ち」なんて持ち合わせていないのではないか?もしも、「気持ち」なんて煩わしいものが存在せずに世の中が成り立つのならば、現代人の多くはあっさり「気持ち」なんて捨て去ってしまうのではないか? ですから、なんというか、私の心は時々非常に虚無的になってしまう。
考えたことありませんでした 貞操観念、道徳は、時代の負け惜しみというか、あの時は駄目だったものが今はよい というようなやっつけ仕事だと思いますので社会システムに関係してるというのはわかるんですが 「愛の規則が社会システムに大きく関係している」 って本当ですかー?なんかしっくりこないです。貞操観念は愛の規則とは別のような.....
補足
まぁ、大体の人の意見が、「性病など防ぐために貞操観念というものが作られた」、というものでした。 貞操観念が信じられていた時代、貞操を守ることは、恋人だけを愛している証拠にもなったし、それ自体を絶対視し疑問を向ける人は少なかったと思います。 それと同じように、現代の愛を絶対視し、愛に疑問を向ける現代人も少ない。 その、かつて「愛」とよばれていた貞操観念は時代の豊かさとともに、しだいに消えつつある。ならば、今現在呼ばれている俗論の「愛」とよばれているものも、時代が変化すれば意味を無くす虚像ではないのか?ということです。現代曲の多くのラヴソングが大体が「一生君だけを愛す」というメッセージに終始し、人々は感動するが、貞操観念がシステムなのと同じように、現代の「愛」もシステムの一部なのではないでしょうか?このシステムが意味を無くさなくなったときだれもラヴソングに感動しないし、意味さえも理解できないのではないでしょうか?
>誰も愛さずに、家族など形成せずとも、社会が成り立つ時代が、科学の力で可能になったとき、愛は意味を無くすのだろうか? 「心優しい~ラララ科学の子ー。10万馬力だ、鉄腕アトム♪」 というように科学から生まれても自尊心と想像力を持ったことは 冷たく乾いた科学ロボットでも優しくなり自分の勇気を励みとします。 「冷めた人間は科学の勉強不足」という明言(私の恩師のです)に賛同しているので、詳細は解りませんが、勉強も愛も実践や経験なくしてどう賛美したり対等な関係を築けるのか?ですよ。 科学は哲学が母胎で、哲学は好奇心、探求心を示す態度のこと(理論体系が確立されたものはないので、哲学史や宗教のような教学ではないです) 怠情や物質の平等から“愛”は生まれない。 人間に運命の平等が与えられることは将来栄光金輪際あり得ない。 人間から自尊心と喜怒哀楽の想像力がなくならない限り。 というのが今の私の哲学です。 哲学といえども主義は色々あるんですけどね。 >現代人の多くは貞操観念などの愛の規則は、社会システムに大きく関係しているとの事でした。 社会を人体に置き換えてみます。現代人は人体という大まかな区分で出来ているのではなく、60兆の細胞からなる五臓六腑やらの組織と精神。そして人類が65臆人。誰かが何かを知ったり得たものは人類全体で共有できうる知能と実現させる実行力がある人間。個性としての臓器、例えば肝臓なり心臓が「私が正しい」と主張したところで人間の完成を見るのではない。 社会(世間や風潮)に従って貞操観念を獲得するというのは、良くも悪くも自己主張とは言わず、ある意味他人を思い遣ることが出来る、全体に対して謙虚しているようなような慎ましい行為なのではないのでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 >「怠情や物質の平等から“愛”は生まれない」 ありがとうございます。非常に励まされます! でも、だんだん日本にい限って言えば、怠惰や平等によって愛が見えにくくなっているようで、なんだか寂しいですね。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
なぜ「愛」ありきなんですか?
補足
すいません。 お手数ですが、もう少し具体的に述べてはもらえないでしょうか?
お礼
遅くなってもうしわけありません。 そうですね。 う~ん、なんだか良回答に選んでしまいましたが、改めて読んでみると別に良回答でもないですね。すいません。 結局、「人間なんてそんなもの」って言ってるだけですよね。 悲しいです。