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愛とはなにか

この前、マンションの廊下に、蜘蛛がいました。その蜘蛛は、1ヶ月前から、廊下の天井角に巣を作っていました。その巣は、見るからにごちゃごちゃしてて、なんだか不器用な蜘蛛だなと思いました。そしてこの前、廊下を歩いていると、ちょうど蜘蛛の3倍はある蜂が巣にぶつかり、巣は粉々に壊れながらも蜂をおおい、そこにやっと食料にありつけると蜘蛛は蜂の触覚に必死で噛みつき、あいた両足を震わせながら、蜂が動かなくなるのを待っていました。  一人ぼっちあそこに産み落とされ、生き抜こうと自分の家を作ってがけなげに生きてきた蜘蛛に、純粋な気持ちを感じました。生物で生まれた以上、自分は自分として、生き抜かなければならないし、たとえ自分が過酷な環境で生まれても、けっして生き抜かなければならない自分というものが生命の性質のような気がします。  自分への愛がからくる恐怖の回避に基づく作用が愛というものに思えてなりません。がゆえに、他は他を見くびるのではないかと思ってしまいます。  そのときありつけた食べ物を前にして、掃除に来たおばあさんにあっけなく蜘蛛は箒ではかれていきました。人間と他の生き物。愛においてそんなに違いはないのに、愛によって、価値のないもの、必要愛ものとされ、愛のあるものに、愛を持ちたいと、逆になってしますのです。  だから、僕は愛というものを意味する言葉をかんじて、悪とか、苦痛とかの観念が頭に回るのです。悲しいと思いました。  そうなると愛は獲得物でしかないのでは、と考えてしまいます。  愛を乱用している愛の正体を自分自身にしてしまうことによって、快楽を実現すれば、悪も愛も見分けがつかなくなるのではないでしょうか。  愛というものはいったい何なんでしょうか。 詳しい方がおられましたら教えてください。

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  • nabayosh
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回答No.13

愛とは、「それでも見守り続けること」だと思います。 蜘蛛が孤独なまま巣を張り、餌を得、巣を壊され…… でもこれは世界がそのようにできていて、有為転変の流れの中にあるということです。 その流れの中で抵抗する意志や欲望の力を「愛」であると見なすと、見誤ることになるのではないかな、と思います。 それをやってしまうと、他者を愛するということが自己愛を投影しているにすぎないことにはなかなか気付けません。 己の欲望に振り回されて生きる人や獣を、ただじっと見守るだけ。 別にその欲望とか意志を否定するでもなく。 とすれば蜘蛛が掃き捨てられようが、はたまた自らが掃き捨てられようが感傷的にならずに済む。 感傷は愛のようで愛でない、偽愛ですから紛らわしいところですが。 ただじっと世界を見守る以外、愛するすべはないと思います。

hatokamome
質問者

お礼

ありがとうございました。 今回、いろいろな僕にとって、貴重な言葉をたくさん頂いて、思ったことは、回答者の視点がそれぞれ、さまざまということです。 しかしながら、そこで気がついたのは、やはり、普遍ということが、どこかにあるのでは、という疑問です。 愛について考えても、必ずいろいろな視点からの考え方があり、それは恣意的に作り出されるさまざまな多様な概念であり、愛とは何かという言葉のカテゴリには、概観的に当てはまるけれど、しぼることは言葉である以上、相対的なもので、明確に、愛についての方向性を、誰もが理解し、方向付けることは、難しいと思いました。 愛を感じるとき、自分にとっての価値を感じてしまう自分はnabayoshさんのおっしゃるとおり、投影していると思います。 見守るという言葉参考になりました。

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回答No.12

言葉は一義的ではありません。その言葉を使用する者がどのように定義しその言葉を使っているかで変わってきます。(一義的でないのは言葉だけでなく世の中全てです) 次の1例を見てください。 A「このラーメン辛いなぁ。」 B「ほんまやなぁ。めっちゃ辛いわぁ。」 AさんもBさんも「辛い」と共通の言葉を使っています。しかし必ずしも意味が同じとは限りません。 もしかする次のような意味かも知れません。 A「このラーメン辛いなぁ。(辛いの大好き!)」 B「ほんまやなぁ。めっちゃ辛いわぁ。(辛いの苦手…)」 愛とは「見返りの無い奉仕」と言った人がいます。ある視点から見ればそういう側面もあるでしょう。 またある人は愛とは「奪うこと」と言った人もいます。愛しさが強すぎて見返りを期待しすぎそれが叶えられないと「愛憎」となるのでしょうね。 何が正しいかなんてのはありません。あるのはその人その人がどう定義するかだけです。 質問者さんがもし「愛とはこれだ!」と決めれば他者がなんと言おうと関係有りません。質問者さんの人生は質問者さんの価値観で歩むべきですから。 >人間の権利だけが尊重されては… 私はそんな事は決してないと思っています。そう感じるのは人間が一番だという気持ちが心のどこかにあるからだと思います。 どんなに科学が進歩しようとも人間が自然を完璧に支配してしまう事などありえません。所詮人間は自然の一部なのです。 真理を見出そうとする者が生物(植物も含む)だけを取り上げるのは生物が自然を支配しているという気持ちが心のどこかにあるからだと思います。 質問者さんは蜘蛛の視点から愛を模索しましたね?それをするなら何故蜂の視点にも立たないのです? きっと蜘蛛の巣周りにもある目に見えない微生物はどうですか?時には質問者さんを蝕むウィルスはどうですか? 物事は視点を変えれば解釈が変わってきます。正解などはありません。そういう意味では割り切って定義をするか一生見つからない真理を探究するかでしょうね。 ちなみに私の場合は「分かりません。」で放置しています。 自然の一部であるちっぽけな私の価値観で宇宙の何かしらを定義づけても何も変わりませんから(^^; そんなちっぽけでも自分の人生を豊かするなら自分の価値観を大切にしたいと思っています。

hatokamome
質問者

お礼

ありがとうございます。 僕もちっぽけな生き物のひとつとして、この宇宙の中の膨大な時間の中中の唯一の生命のすむ地球の人間という生物に生まれたことを感謝し、 同じ時間にすむすべてのものと、限られた、少々の時間を効率的に使い、一生懸命勉強し、考えたいと思いました。 とても、うれしく思います。

noname#91067
noname#91067
回答No.11

愛と正義は種族保存の概念です。 自己保存は主に恐怖や不快なものを回避しようとし、それが人間の本質でもありますが、人間より単純に生まれていても種族保存はあります。 ただ自己保存においては人間は領域が広く過去から未来まで範囲が広いので利己的が即ち自己保存ともいえないと思います。 自分をよく活かす(生かす)ことで種としての要望に適う、勇気が出せると「信じられている」 信じることは愛すること。愛することは自分を生かそうとする力が出せるもの。卑屈になることと謙虚は違って、卑屈になると他人も歪めるけれど、謙虚することは他人を理解しようという意志、それはつまり自分が種として自己に忠実であると信じてあるがまま生きれている充実感が来るのだと思います。 愛は儚さで一層際立つ時もあります、けれど恐怖に打克つこともあれます。勇気や善意が出せるのも自己保存を超えて種としてや全体を理解できた時にあるので自分の死だけで終わりとならない安心も、愛がさせる作用にはあると・・・信じていたい。が、私も愛に詳しいというより迷ってばかりの未熟者ですけどね。

hatokamome
質問者

お礼

ありがとうございました。 愛について、時に否定的になる僕にとってこのお言葉、心に優しさを受けました。 このサイトで、愛についての、考え方が、少し変わってきたような気がしました。

noname#117439
noname#117439
回答No.10

生命として存在するものは必然的に愛です。 煩悩、欲などの源泉は悪意として無意識下では認識されています。 この悪意とは心の中に魂の満ちていない「魂の欠損」から生まれます。 質問文の後半は少し支離滅裂な感じで、その内容は質問者様自身にしか理解できない根拠の無い哲学もどきです。 そんなことよりも蜘蛛さんに感じた愛と生命の尊さを大切にしてください。

hatokamome
質問者

お礼

ありがとうございます。 でも少しも問題が明らかになりません。 どんどん迷宮入りの状態です。 少しずつ解いていきたいです。

  • pojipoji
  • ベストアンサー率32% (53/161)
回答No.9

「トマス・アクィナス(1225-74) (申命記4:19、詩編8:8、知恵の書12:18を引用した後) ここでは、物言わぬ動物を殺すのは人にとって罪深いことであると言っている人たちの間違いが論駁されている。なぜなら、それらは、神の思し召しによって、自然の序列のなかで、人による利用が意図されているからである。したがって、利用するために、それを殺そうと、それ以外のいかなる方法によろうと、人間にとって悪ではない。このような理由から、主はノアに、(創世記9:3)「わたしはこれらすべてのものを、青草を同じようにあなたたちに与える」と言った。そして、たとえ聖書のいずれかの節が、われわれが物言わぬ動物に残虐であること、たとえば一羽の鳥を雛もろとも殺すようなことを、禁じているように思えることがあったとしても、それは、他の人に対して残虐であるような人の考えを排除する、あるいは、動物に残虐であることを通じて人が人間に残虐にならないようにする、のいずれかであるか、さもなければ、動物に対する侵害は、権利の行使者あるいはその他の人に対する発作的な加害につながるからか、または何らかの意義のためである。 『対異教徒大全』」 http://theology.doshisha.ac.jp:8008/kkohara/works.nsf/626e6035eadbb4cd85256499006b15a6/401c93917fd2d2d6492570ea00605966?OpenDocumentからの引用 長い引用で申し訳ありません。世の中には動物や虫には愛を入れる器はないという考え方もあります。そのように理解した場合、蜘蛛自身に愛というものがふさわしいかどうかにかかわり無く、質問者の方の心情を表すものとなります。 意図的に又は自分自身気がつかない状態で他の生き物を傷つけ殺すことはあります。しかし一方、自分のお腹や皮膚には無数の菌がいて自分自身と共生しています。 参考http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B8%E5%86%85%E7%B4%B0%E8%8F%8C http://melit.jp/voices/fkymhts/2005/07/24/post.html 何兆という生き物と共生しており決してひとりではありません。彼らにとって1人ひとりの人間は宇宙ともいえるでしょう。自分自身の身を保つだけでも多くの生き物の命を助けているといえます。自分自身の健康を保とうとするだけでもすばらしいことだと感じています。

hatokamome
質問者

お礼

ありがとうございます。 微生物にだって何らかの思いはあるのではないでしょうか。 それが人間と比べて強いか弱いかなんでしょうか。 昔は人間も微生物だったとようですし。

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.8

久々に回答が出来ない問題ですね。愛とは言葉だけで表すものではない 顔から手から表情、しぐさ、そのようなものからも伝わりますからね まあ見えないものであり、言葉では説明できないものでしょう。 聖書では神は愛である。と言ってますね 聖書は愛の本というのは言いすぎかな?

hatokamome
質問者

お礼

ありがとうございます。 僕のいいたかったのは、人間が組み立てられる言語の仕組みのようなものと他の生き物のそれでは、上下ではなく、カテゴリが違うのではないかという意味の「言葉だけで表すものではない」ということだったのです。僕の感じていることをぱっと開かせてくれる、内容やカテゴリの紹介がなかなかないのです。頭が悪いので、深い哲学は到底理解できません。無理なのかもしれません。

回答No.7

蜘蛛の物語は、象徴的で無常を感じますね。 愛と言う抽象的な概念によって、如何に多くのものが失われてきたのか容易に想像できます。あらゆるレベルで安全、平和、博愛、自由、個人の尊重等の理念に反することが異常なまでに困難になっていると思います。愛情豊かで、慈悲の心あるものは常に正しい、または、結果如何を問わないという誤った判断がなされるケースも少なくないでしょう。 これが恐ろしいことで、人口問題、環境問題、食糧問題などの根幹部分を大きく左右します。 もはや、人類がみんな愛情豊かであればみんなが愛情豊かに生存できる環境ではありません。 愛の濫用が地球を滅ぼす危険性を孕んでさえいるのです。 悪も愛も、慈悲も外道も物事の裏表である面を少なからず持ち合わせていると思います。 まずは、蜘蛛と蜂に合掌。

hatokamome
質問者

お礼

ありがとうございます。 実は最近、ふと気がつくと、自分が他人になっている錯覚をすることがあります。僕が蜘蛛を見ていて、蜘蛛が僕を見てる。でも僕の魂は、蜘蛛側にいて僕をとても怖いものだと恐れている。 毎日自信を得るためのメンタルトレーニングをしていたからかも知れません。 とにかく、どんな生き物も生きる権利があり、人間の権利だけが尊重されては、人間の愛によって、愛を理解することができないようになり、 本当の愛と呼ぶべき何らかのものが消えてなくなり、どんどん、地球は愛の法則性のエネルギーが、薄くなり宇宙の果てに放出してしまうのではないのかと感じます。人間の作ったより、何らかの愛の概念というものが、変わってしまうのだと思うのです。どんな小さい生き物も人間が支配して、利用する権利は、その愛の概念においてはないのだと感じます。 なるべく弱いものを意識しなければならない。 そうしないと どんどん相対的に総体的におかしくなると思います。 だから僕は身動き取れないのです。でも、これでいいと思います。一生懸命考えます。

回答No.6

「愛」とは総てのありとあらゆる事を受け入れる事だと思います。それは感情では無いと思います。ただただ「受け入れる」と言う事だと思います。自分が見ているこの宇宙にある存在総て(好きなものも、嫌なものも総て)を受け入れると言う事です。 愛しさや愛情、愛惜、愛憎など… これらは感情であり煩悩です。甘美な感覚が「愛」では無いと思いますし、その人間同士の好き嫌い等と「愛」とは全く別の感覚と考えます。また、私はこの世の中は本来 良い事も悪い事もない。 正しい事も間違っている事もない。 …と思います。知らず知らず多くの人はその事象とその中身を自分自身で意味付けしているに過ぎないのです。(最悪なのは自分の意味付けを他人に押し付ける事です。例:他人が教えてくれたとは言え自分が選んだのに、それが失敗した時に人のせいにする…苦笑)「愛」に理由は無いと思いますし、好き嫌いでもないし、ネガティブな感情は最終的にはこの「愛」で包容するしかないと思います。「愛」は「総てを受け入れる」と言う行為以外に対象は無く、本当の「愛」を知るのは本当の自分を知るのにも等しいとも思います。

hatokamome
質問者

お礼

ありがとうございます。 受け入れることという言葉、ありがとうございました。 頭にぱっとひらめいた感じを受けました。

回答No.5

「愛」は和訳を誤りました。 もともと、日本には「愛」は余り良い印象の言葉ではなかった。 「愛着」や「愛執」といった私たちの周りに取り巻いて離れない哀しさを 秘めているように思われます。 本来なら私たちには「慈悲」ということばがあります。 キリストの「Love」は本当はこちらの意味で使われるべきでした。 「私たちが神によって生かされている。」という観念がない私たちは、 あり得ない「愛」のかたちを自らの心に課してしまいます。 だから不明な出来事が目の前にあらわれた時、ふと戸惑うのです。 「自愛」とは日本では「我執に捉われて動けない様」を意味します。 キリスト教による意味では「神によって使わされたこの身体を労わる」 という意味になるのでしょうか。 本来の神の「Love」とはもっと大きいもので、 包み込まれる安心というか、いかなることも赦してもらえる大らかな「慈悲」です。 そして「慈悲」は私たちの「仏教」による「Love」です。 こちらは包まれるのではなく、自ら世界に溶け込もうとする安心です。 もし質問者様がキリスト教を信仰されるのであれば、 「Love」は聖書を読んで学ばれるべきでしょう。 さもなくば、「愛」という言葉に固執されない方が良いと思います。 以上、言葉を超えた観念によるものですが、 現代においてマスコミなどで混同され、 この辺りを正しく分別できない社会を感じます。

hatokamome
質問者

お礼

 ありがとうございました。  いいたいことが、自分でも言葉で表現できなくて、書きなぐった文章ですいませんでした。いいたいことの半分も伝わっていない感じがするのです。愛に強さはないのかと思います。虫にだって、鳥にだって、同じ愛があり、人間の言葉で表現するとき、愛はなくなってしまうような気がするのです。そこが切なく胸につかえるのです。ご親切な内容に感謝しております。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.4

愛は範囲があいまいでなんとも危なっかしいものですよね。 多分一般的に賞賛されるのは慈悲喜捨の部分が見えたときではないでしょうか。 慈は幸せを思う事。 悲は悩み苦しみがなくなるように思う事。 喜は幸せを喜ぶこと。 捨は一切を平等に思う事。 これらと執着と悪意をごちゃ混ぜにしているのが一般的に言う「愛」かなと思います。 上記の慈悲喜捨を育て、その他のものを滅していった人たちはこの世のむなしさ(どうしても迷惑掛け合ってしまう)に気づいて輪廻からの脱出を試みて悟りを目指したんでしょうね。

hatokamome
質問者

お礼

ありがとうございます。 平等に思う事。 心にしみる大切な言葉だと思いました。 時をさかのぼることはできないのだから愛の正体は何かわかるすべはないのではと思いました。 人間が考えうることは、科学的な愛の正体を論理で追及するぐらいなのではと思って今います。 なぜなら、愛についての言葉の表現が、それぞれだからです。 論理になると愛の一時的でも、そこで表現しようとする行動がなくなるから、とりあえず、その場の人間の考えによる愛を実行する他ないのではないでしょうか。だから、愛を科学的には判断できないで、別の分野で考える他なくなっているような感じがします。 人が感じ取って表現できる愛の意味は、限界があるのではないでしょうか。 他の生物も愛についていいたいことがあるのだと思います。それができないことが残念です。愛は悲しみのようなものに思えてならないのです。 ですが、愛について考えることをやめてはいけない人間の定めがあるのではないでしょうか。他の生物の愛を代表して世界を支配しつつある人間は、その責任があるんだと思います。

  • eienn
  • ベストアンサー率16% (77/462)
回答No.3

愛とは「対象に対する執着」という意味です。 hatokamomeの使っている「愛」という言語は、世間一般で使われている「愛」という言語と、意味がかけ離れているので、会話が成り立ちません。 生物は、その遺伝子に組み込まれた本能で生命活動を展開するのであって、それに「愛」は関係ありません。 もしこの質問を、hatokamomeさんが真面目にしたのであれば、もう少し文章表現の勉強をなされたほうがよろしいかと思いますよ。 非常に分かりにくいです。

hatokamome
質問者

お礼

ありがとうございます。何かを理解することは、言葉の概念だけであるものではないと感じることがあります。 遺伝子のようなプログラムのような、そのものの元々持っている何者かが、動かしているのであり、判断の決定権は自分自身にはないのではと思うことはよくあります。人々が神と呼ぶ得体の知れない何かに、動かされている自分が、その何かに、心をゆだね、信用して生きようと、運命を受け止めようと思うことがあります。 そうすれば、愛の経験の形も、無数の方向があり、外界と自分との作用にゆだねるしかないのかもしれないと思ってしまいます。 とにかく、このことについて考えることは、悲しみだと思います。 しかし、やめてはいけないと感じました。 文章にすると、文章力のない僕はいつも意味のわからない言葉になります。しかし、観念は、いつも同じ感じです。この文章も執着心から来るものだと感じております。 愛について、まじめに考え、追求し、理解していきたいです。 生涯のテーマだと思います。