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「余儀なくする」はサ変動詞の特殊な用法か?
「余儀なくする」の用法についての質問です。 私は中国の大学で日本語教師をしています。 「余儀なくする」(「余儀ない」(イ形容詞)+「する」(サ変動詞))につい3年生から質問を受けました。 この用法で「能動」「受身」「使役」「使役受身」の使い方について、うまく回答できなくて困っています。「余儀なくする」だけが、特殊な使われ方になっているように思うのですが。諸賢のアドバイスをお待ちいたしております。 以下に、私の考えたことを述べます。 【III類動詞】 (サ変動詞1:「余儀なくする」・・・一応動詞とみなして) 能動 :私は登山計画の変更を余儀なくした。(これは意味をなさないので、使われない) 受身 :台風の襲来によって、私は登山計画の変更を余儀なくされた。 使役 :台風の襲来が私に登山計画の変更を余儀なくさせた。 使役受身:台風の襲来によって、私は登山計画の変更を余儀なくさせられた。 【考察】以上について意味上、「受身」と「使役」と「使役受身」は同じ。だから、「使役受身」は実際上使う必要がない。「余儀なくする」が、「選択肢が狭まって望まないことをせざるを得ない」という意味をもっているから三者が同じ意味になる、と一応考えてみました。しかし、下の例ではどうでしょうか? (サ変動詞2:「都落ちする」) 能動 :平家は都落ちした。 受身 :源氏によって、平家は都落ちされた。(ちょっと意味が曖昧で、この使い方を私はしない) 使役 :源氏が平家を都落ちさせた。 使役受身:源氏によって、平家は都落ちさせられた。 【考察】以上について意味上、「受身」と「使役」はぴったり合わない。「使役」と「使役受身」はぴったり合う。(「都落ちする」のような「望まないことをする」という意味でも、「余儀なくする」とはちょっと違うようです) (サ変動詞3:「勉強する」) 能動 :私は勉強した。 受身 :先生によって、私は勉強された。(これは意味をなさないので、使わない) 使役 :先生が私に勉強させた。 使役受身:先生によって、私は勉強させられた。 【考察】以上について意味上、「受身」と「使役」は違う。「使役」と「使役受身」は同じ。 【I類動詞】 能動 :私は歌を歌った。 受身 :先生によって私は歌を歌われた。(私が歌おうと思っていた歌を先生が先に歌ってしまった) 使役 :先生が私に歌を歌わせた。 使役受身:先生によって私は歌を歌わされた/せられた。 【考察】以上について意味上、「受身」と「使役」は違う。「使役」と「使役受身」は同じ。 【II類動詞】 能動 :子供はニンジンを食べた。 受身 :母によって子供はニンジンを食べられた。(食べたのは母) 使役 :母が子供にニンジンを食べさせた。 使役受身:母によって子供はニンジンを食べさせられた。 【考察】以上について意味上、「受身」と「使役」は違う。「使役」と「使役受身」は同じ。 以上、いろいろ考えてみると、意味上、「受身」と「使役」は同じではなくて、「使役」と「使役受身」が同じだと思います(以上の考察の中で、「自動詞」と「他動詞」をきちんと区別していないのが、私の思慮の足らないところかもしれませんが)。しかし、「受身」と「使役」と「使役受身」が、実質的に同じ意味になるのは、「余儀なくする」のようなサ変動詞の特殊な用法のときだけのように思います。 この私の考え方で間違っているでしょうか。ご助言をお願いします。
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No.1 についての補足です。 「余儀なく」 が 「やむをえず」 という意味で副詞的につかわれることがあります。 例 : ぜひとも斎 (とき) に参ってくれいと仰せられて、よぎなう [余儀なく] これへ参り (「古語林」 1997 大修館書店) 例 : 余儀なく欠席する (「新明解国語辞典」1981・1997 三省堂) この用法にしたがって 「私は登山計画の変更を余儀なくした [a-1]」 あるいは 「私は余儀なく登山計画の変更をした [a-2]」 という能動文をつくることは、文法的には可能でしょう。 > 使役受身:台風の襲来によって、私は登山計画の変更を余儀なくさせられた [b-1]。 についても、つぎのように 「余儀なく」 の位置をかえることができるとかんがえました。 → 台風の襲来によって、私は余儀なく登山計画の変更をさせられた [b-2]。 上の [a] 「した」と [b] 「させられた」 にふくまれる動詞の 「する」 は、いずれも 「登山計画の変更をする」 あるいは 「させられる」 という意味の 「する」 です。それは、「やさしくされる」 などにふくまれる 「する」 とおなじ受身用法の 「余儀なくされる」 の 「する」 とは、意味がことなります。 以上、No.1 でご不明の箇所をまとめなおしてみましたが、わかりやすくなったかどうか自信はありません。 ところで、 「余儀なくさせられた」 の解釈によっては、[b-1] から [b-2] への書き換えがゆるされない可能性もあります。その場合の 「余儀なくさせられた [c]」 は、 「余儀なくされた」 とほとんど同じ意味の表現として意識されているのではないかと想像します。そしてこれは、本来は誤用であるとかんがえます。 No.1 では 「台風の襲来」 を動作主として 「台風の襲来が私に登山計画の変更を余儀なくした」 という能動文をつくりましたが、そのあとでおもうに、 「台風の襲来」 は状況であって動作主ではなく、 「余儀なくされる」 の動作主を特定することはできない気がします。 そのため、動作主をはっきり特定する表現として 「余儀なくさせる」 が用いられるようになり、それに対応する [c] 「余儀なくさせられる」 という表現もうまれたのかもしれないとおもいました。 現在も進行中の日本語の語法の変化 (参考URL) をふまえて 「余儀なくする」 の用法のゆれを整理してみたらおもしろそうですが、残念ながらわたしの手にはおえません。 参考URL: 「翻訳調」 について(No.3 luune21 さんの回答)
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- shiremono
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No.5 についての補足です。 1: 『「余儀なくさせられた」 の解釈』 とは、そこにふくまれる 「する」 の文法的な機能についての解釈 (話者の意識) をさします。 [b-1] の文で 「余儀なく」 と 「させられた」 が切りはなせないとすれば、その文は [b-1] と一字一句おなじでありながら 「する」 の意味が文法的にことなる [c] という表現であることになります。Anseigenji さんが整理してくださったとおりです。つまり、この箇所ではそれ以上のことをのべていません。 2: 「余儀なくさせられた [c]」 という使役受身文は、文法的には、 「余儀なくする [e]」 という下のような能動文が前提になっているとかんがえます。 ●能動2:【動詞:余儀なくする】 私は登山計画の変更を余儀なくした。[e] [非文] [e] が文法的に成立しないことは、 Anseigenji さんご自身もはじめの質問文にお書きになっているところです。このことから、 「余儀なくさせられた [c]」 という表現も文法的におかしいと感じます。 それでも 「本来は誤用」 という留保をつけた書きかたをしたのは、もしかすると 「わざわざ [c] を使う必要」 があるのかもしれないとおもうからです。「余儀なくさせられた [c]」 のほうが 「余儀なくされた [d]」 よりも新しい用法であるのは、まずまちがいありません。 [d] の用法があるにもかかわらず [c] の用法が広がりつつあるとしたら、そこにはなにか合理的な理由があるのかもしれません。たとえば、 「翻訳[口]調」 が一般化するなかで 「余儀なくさせる」 というそれまでになかった使役表現が必要とされるようになり、 [d] はそれに対応する使役受身として生まれた用法なのではないか。話者の意識において使役の動作主が特定されている場合には、 [d] よりも [c] の方がむしろ適切な用法として感じられさえするのではないかというのが、わたしの稚拙な思いつきです。 参考: 【使役】 [使役態の主語が非情物である場合] 「これは本来の日本語にはなかったもので、欧文の翻訳文の影響で行われるようになったものである。 例 農業が国を発展させる/何が彼女をそうさせたのか」 (藤井正 「使役」 『日本文法大辞典』 1971 明治書院) 【日本語には見せかけの受身文がある】 「しかし、ここに、対応する能動文や自動詞文をもたない受身文がある。 p 日本が豊かな自然に恵まれていることはよく知られている。 [「恵ま」 および 「恵まれ」 に傍線 ― 引用者] p は、 [中略] 一見、受身文の構文のようにみえるが、「自然に」 は 「自然において」 の意であり、能動格 (脇役) ではない。能動格をあえて想定すれば、 「天に」 となろう。しかし、 「天が日本に豊かな自然を恵む」 という文は自然な日本語ではない。このように、p は対応する能動文や自動詞文をもたないので、見せかけの受身文となる。「恵む」 は他動詞であるが、対応する自動詞がない。「恵まれる」 は自動詞の代替物として機能しているのである。」 (小池清治 『日本語はどんな言語か』 1994 ちくま新書 p.194)
お礼
2のご回答で、現代日本語の趨勢(外来語の影響による翻訳[口]調の一般化)まで見越したご見解を興味深く読みました。しかしながら、Shiremonoさんが『「余儀なくした[e]」(能動文)が文法的に成立しない非文だから、そこから派生した「させられた[c]」(使役受動文)も文法的におかしい』では、“受動文”も“使役文”も全部文法的におかしくて、問題ありになってしまいます。ここは、原点に立ち返ってはいかがでしょうか? つまり、『「余儀なくする」というサ変動詞は特殊な使い方では?』との私の質問に、ANo1でShiremono さんは同意なさいました。「余儀なく」は“他に選択の余地が無く否応なしに一つのことをせざるをえない”というニュアンスなので、[d](受動文)はほとんど使役受動態の意味も兼ね備えている特殊な用法に思います(従って、“使役受動文”は屋上屋を架している)。 外来語の影響について、会社時代を思い出しました。私は、某化学系会社の研究所で永年、国内外の雑誌に研究論文を発表していましたので、良くも悪くも英語的発想が日本語文にも現れていました。その端的な一例が「・・・・と思われる」です(これを頻用する論文を「思われ文」と定義)。新発見や新理論を論理的な筋道で明確に語るべき論文に「・・・・と思われる」のような曖昧で主体性を欠く弱い口調を頻用するのはよくない、と考えるようになりました。一方、「事実を客観的に述べる科学英語論文に倣って、日本語でも“思われ文”のような受動文こそ適切なのだ」と譲らない人もいました。 60歳定年後、私が日本語教師を目指して関連の書籍を読むと、驚くなかれ「思われ文」がけっこうあるのです。秋天の月を眺めて故郷や恋人を偲ぶときの「おもわれる」(自発)は詩歌で使われても、「思われ文」は明治以降の舶来思想による悪影響によるものだと想像しています。 ジャーナリストの本多勝一氏は、『日本語の作文技術』(朝日文庫)の中で、「ように思われる」の頻用を、「断定を避けていかにももってまわった“お上品ぶり”を示すのに好都合だが、要するにこれは事の本質をオブラートで包むための技法であり、謙虚さを売り物にしている慇懃無礼な態度にすぎない」と批判しています。謝謝。
- Ishiwara
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> わたしは理科系出身なので‥‥ そうですか。理科系で言語を教えるなんて、すごいですね。実は、私も理科系です。 理科系だからこそ、余計に「正/否」論にこだわりがあります。言語は「正/否」よりも「多数/少数」のほうが、なじむようです。 昔は「能動/受動」の両方があったが、その後「能動」のほうは、あまり使われなくなったとき、これを「否」とするよりも、いったん「正」の仲間に入れて「ただし、近年はあまり使われない」という方法もあります。このほうが、日本語に「例外」をあまり持ち込まないで済みます。 日本語は、実に例外の少ない、美しい体系を保持している言語だと思います。 かつて、東京語で「電車」は「デ」にアクセントがありました。それが時代とともに少数派になり、今は絶滅寸前です。これが何%以下になれば「否」になるのでしょうか。難しい問題です。少なくとも、それを使っていた人たちは、まだたくさん生きていて、最初「間違えて覚えた」のではないことは確かです。 私は、初めてアメリカへ行ったとき、Often を「オフトゥン」、Chicago を「チカゴ」という人があまりに多いので驚きました。日本の先生は×をつけますよね。
お礼
日本の英会話学校で、テキサス出身の米人教師もoftenを「オフトゥン」と発音していたのを思い出しました。しかし、こちら中国の方言は、外国語同士ほど異なります。それと比べると、日本語や英語の方言差など可愛いものです。ですから、日本の英語教師は「オフトゥン」と発音した生徒に二重丸をつけてあげるべきです! 今回のANo.1-3(4)の方々のご助言は参考になりました。これに味をしめて、日本語について疑問が生じたら、OK-Waveでご質問をいたしますので、よろしくお願いします。謝謝。
- Ishiwara
- ベストアンサー率24% (462/1914)
特殊な用法ではありません。 「大きくする」「美しくする」と同列に考えてください。 「余儀ない」は、もともと「余儀」(意味:これ以外のこと)という名詞から派生しましたが、元の「余儀」のほうが使われなくなって、派生した形容詞「余儀なし」のほうだけが残っているものです。 「汝を呼び出だしたるは、余の義にあらず」(あなたを呼び出した理由は、ほかのことではない。) 同じような例で「やるせない」がありますが「遣る瀬」(船を着岸させる浅瀬)という名詞が使われなくなって、派生語だけが生き残っています。(船を着けるところがない→どうしてよいか分からない) 「やるせなくする」←文法上は成立します。
お礼
わたしは理科系出身なので、古文に基づく原義から説き起こしてくださったのはとても参考になりました。ありがとうございます。例示の「(片思いで)やるせなくする(/やるせない)」(能動形)は文法上でも意味上でも成立する例だと理解します。しかし、「余儀なくする」は「余儀なくされる」 という受身のかたちでしか用いられない(点で特殊なのだ)、とのANo.1&2の回答者のご指摘が、”意味上”の理解としては、分かり易いです。従いまして、ANo.3の方が回答の冒頭で「特殊な用法ではありません」とお書きになっていることに少々とまどっています。
- menphis3
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「余儀なくされる」という状態は、もともと能動的な行為では無いので能動及び受身の表現が成立しないのではないかと思います。 うまく説明ができませんが、下記URLの説明などご参考になりますでしょうか?
お礼
「余儀なくされる」は「余儀なくする」の受身で、この使い方しかないとの理解でよろしいでしょうか? ネット状況が立て込んでいるためか、参考URLが開けません。暇なときに再挑戦して参考にしたいと思います。ご助言に謝謝。
- shiremono
- ベストアンサー率70% (187/267)
本来の 「余儀なくする」 の用法は、 「余儀なくされる」 という受身のかたちでしか用いられない点で特殊なのだとかんがえます。 > 私は登山計画の変更を余儀なくした。 という仮設的な能動形は、 「余儀なくされた」 に対応していないとおもいます。「余儀なくされた」 に対応する能動形は、 台風の襲来が私に登山計画の変更を余儀なくした。(非文) になるのではないでしょうか。 「余儀なくする」 は、「指摘する」、「踏み台にする」、「つめたくする」、「馬鹿にする」 などにみられる 「する」 の用法とおなじ仲間だとおもいます。 「余儀なくする」 が特殊なのは、それが受身のかたちでしか用いられない点です。 > 台風の襲来によって、私は登山計画の変更を余儀なくさせられた。 は、たしかに日常的に用いられていますが、「する」 の意味がことなってしまいます。「変更を余儀なくされた」 という場合の 「する」 は、「変更を強制された」 の 「する」 とおなじとみなすことができます。「変更をする」 の 「する」 ではありません。ところが 「余儀なくさせられた」 の 「する」 は、「変更をする」 の 「する」 なのです (「使役受身」)。したがって、「余儀なくされる」 と 「余儀なくさせられる」 は、 「する」 の意味合いがまったくことなる用法としてべつべつにかんがえる必要があります。 これ以上のことはわかりません。わたしも 「自動詞」 と 「他動詞」 の区別が苦手です。「する」 ないしほかの動詞について受身だけで用いられる語法がみつかるとよかったのですが。
お礼
中程までのご説明はよく分かりました。しかし、『「変更を余儀なくされた」 という場合の 「する」 は、・・・・・・』の4行は、とても難しいです。「余儀なくする」の「受身・使役・使役受身」に意味上の違いがあることを理解するためには、頭を冷やしてじっくり考えなければなりません。老化した我が頭のトレーニングの機会まで与えてくださいました。ご助言に謝謝。
お礼
「余儀なく」 を「副詞的」につかうという発想で、[shiremono]さんが、ANo1を補足的に説明してくださったことにより、ご主旨がとてもわかり易くなりました(「優しくする」の「する」との違いも分かりました。 今回の補足説明を私流に整理しますと、以下のようになります。 ●能動:【“やむをえず”=余儀なく(副詞的用法)+する(動詞)】 私は登山計画の変更を“やむをえず”した。[a-1] 私は“やむをえず”登山計画の変更をした。[a-2] ●使役受身1:【“やむをえず”=余儀なく(副詞的用法)+する(動詞)】 台風の襲来によって、私は登山計画の変更を“やむをえず”させられた。[b-1]」 台風の襲来によって、私は“やむをえず”登山計画の変更をさせられた。[b-2] ●使役受身2:【動詞:余儀なくする】 台風の襲来によって、私は登山計画の変更を余儀なくさせられた。[c]」 (注:「台風の襲来」が動作主) ●受身:【動詞:余儀なくする】 台風の襲来の“ために”、私は登山計画の変更を余儀なくされた。[d] (類似の用法:私は継母にやさしくされた。) (注:「台風の襲来」は動作主ではなくて、状況設定かもしれない。しかし、私には「台風の襲来」が動作主と考えてもいいのではなかと思えるのですが) 疑問1:『「余儀なくさせられた」の解釈によって』の「解釈」とはどのような解釈でしょうか? 疑問2:『「余儀なくさせられた[c]」が“本来は誤用であるとかんがえます”』は、なぜですか? 意味上「余儀なくされた[d]」と「余儀なくさせられた[c]」が、ほぼ同じなら、わざわざ[c]を使う必要がないのだ(使用例が無い)、と単純に考えてはいけないのでしょうか?(おそらく、文法的知識の浅い私が「疑問1」を抱いているためだと思います。) 以上お三方の助言を通じて、「言葉」というものの意味の広がりと奥深さを知ることができたのは幸いでした。頭陀袋のような老化した脳を活性化するためのいい機会になりました。しかし、中国の教室の現場で教えるための実用性の観点からは、ここまで知る必要がないのも事実です。質問の項の冒頭で「諸賢のアドバイスをお待ちいたしております。」と書いたたために、ハイレベルの回答をいただいてとまどってしまいました。「横町のご隠居はん、ちょっと教えてんか!」(私、関西人です)と書くべきでした。謝謝。