• 締切済み

沐浴することについて質問です。

主にガンジス川で沐浴すること(業の解脱を図ること)はヒンドゥー教の最終目標である梵我一如を悟ること(輪廻から解脱すること)と直接関係していると考えられるのでしょうか? また、考えられるとしたら、どのように関係しているのかも踏まえて回答して下されば非常に助かります。

みんなの回答

回答No.3

 女神ガンガを妃にした、最高神を度忘れしてパンドゥと書きましたが、これはシャンターヌの間違いだったと、思い出したので、訂正させてください。  洵にシャンターヌとバーラタ族のパンダヴァたちとは、神話のうまい設定で、直接の血の繋がりはないのですね。  これは創造界と唯一最高にして、唯一存在のシャンターヌとの関係を象徴していて、非常に示唆的だと思ってきております。  バーラタとは正統な王統の王族という意味ではありますが。  マハバーラタ物語とは、その王族が僭主者のクルからこの世界、創造界を取り戻す。  人間が聖なる生き方を回復するということの象徴となっているそうです。

回答No.2

 ○再び   ご丁寧な質問内容の補足に恐縮します。私の拙い書き込みをお許しくだされているご様子に感謝を申しあげます。私は日本、東京、江戸びとのいう大川(隅田川)の外から、出たことは、二・三十代の数年でした。そういうことで東アジアの一部の、隣国は勿論、インドにも旅してはおりません。ヒンドゥの方々に直接、お伺いになれれば、それが一番いいのでしょう。    ○「ヒンドゥー教徒はガンジス川で沐浴しないと梵我一如を悟れない」と考えているのだろうか?ということです。   [悟れない、という理知性を含んだことばより、到る。戻る。入れる。の方が私は適当かなと存じます  ○なぜなら、ヒンドゥー教徒は梵我一如を悟ることを最高目標としているはず。  [「究極から、究極を目指しなさい、それを至高としなさい」と私も教えられ、精進しております存じます。]  ○「沐浴することは来世での幸せを祈ること」とされているのならば、沐浴することは梵我一如を悟ることに必要であるのか。   [ガンジス沐浴が梵我一如の必須じこうであれば、私達インドの外の者には、梵我一如は望めない。そんなことを普遍なる教えが、説くということは、ありえない。聖者達はそんなことは申されていない。インドのヒンドゥ者がそういうなら、カーストのはきちがえと同様に間違いもはなはだしい。要は、宇宙の神のvibration、オウムに浸ることは必須じこうでしょう。これは、芥川などの蜘蛛の糸の役もしてくれますが、それだけでもなく、元々は、神自体から最後の底まで通っている、創造の力、当為、意志ですので。  ○(来世での幸せと輪廻の解脱とは目的が異なると考えますので。)   [来世は普通、上位にいくなら、三・四段階です。しかし同じところを何回も行き来するなら、無限というのではなく、エンドレスです。  来世が、また、同じこの地上の肉体界という人もいる。それが殆どではあります。そのカルマ、因果から抜けることと、肉体の幸福のためとは明らかに異なります。その間の区別ができていないのが、現実のヒンドゥ者の皆さん、信仰者のみなさんではないでしょうか。  ○罪を洗い流してくれるならば私(悟りが最も重要な目標だと思う)もガンジス川で沐浴したいですね。(笑)   [罪、一欠片ない、晴れ渡り、清澄そのもので、背後の神と創造界というものを、自分が隔てたり、曇らせたりしない状況は、至福でしょうし、サマディでしょう。それは到達でしょう。それはガンガという創造の当為価値に身をおくことで可能にして、必須でしょう。  ガンジスの水がそれをしてくれるという伝統の信仰は大切ですが、水は水、しかかも最近は汚染がはなはだしいそうでうね。信仰がそこに、素朴に留まっている安逸は、大衆性の宿命でしょう。

nossoripig
質問者

お礼

ご丁寧に回答して下さり、真に有難う御座いました。 御礼が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。お蔭様で、なんとなく解釈出来たと思います。

回答No.1

 短い、要点だけのご質問の文章で、QNo.3430081のご質問のお動機などが不明なので、回答を控えておりました。  ガンジスは別名Ganga(Devanagariīが化けたので)ともいいますね。この河の精が女神Gangaですね。この女神は、パンドゥの第一の夫人です。パンドゥは、至高の神の創造意識への変化意識という神となっています。Gangaは創造のvibrationで、アーメンでもあり、オウムでもあります。  これに浸るのが本来ですが、これは一定の技法が必要です。  このガンガに浸ることを象徴しているのが、一つはガンジスでの沐浴であり、これは聖なる大元にいけるということでもあります。  それと、何かの技法や行には肌を頭脳まですることや、清めることは大切です。特にヒンドゥの方々にはガンガは聖なる河です。  これは信仰です。盲目といえば、信仰に盲目と理性の境目は難しいところがありまして。元々の我を、創造の聖なる梵に還すことができるという信仰です。信仰はそれを実現してくれます。  聖なるvibrationの行は、グルの導きがなければできませんが、ガンガの河で、沐浴すること、お骨を流すことは、グルのお教えを大事にできる機会がない人でもできます。一つの力の、そして意志の、当為の流れをガンジスという、ガンガが象徴しております。  とわたしは勉強したことがあります。  ガンガ宇宙創造の当為と力、意志です。女性神です。

nossoripig
質問者

お礼

アドバイス、真に有難うございました。

nossoripig
質問者

補足

質問の内容が不備であったようで、申し訳ありませんでした。 動機はと言いますとただ沐浴することに興味を持ったと言うのがありのままなのですが・・・。 質問内容を補足させて頂きます。内容の視点をかなり変えてしまいますが、「ヒンドゥー教徒はガンジス川で沐浴しないと梵我一如を悟れない」と考えているのだろうか?ということです。なぜなら、ヒンドゥー教徒は梵我一如を悟ることを最高目標としているはず。しかし一般に「沐浴することは来世での幸せを祈ること」とされているのならば、沐浴することは梵我一如を悟ることに必要であるのか。(来世での幸せと輪廻の解脱とは目的が異なると考えますので。) まあヒンドゥー教徒に聞いてみるのが一番なのですが・・。 もっとも、罪を洗い流してくれるならば私(悟りが最も重要な目標だと思う)もガンジス川で沐浴したいですね。(笑) ↓以下、気持ちよさそうな沐浴 http://www.asahi-net.or.jp/~kw4h-sehr/india2.html http://www2.ocn.ne.jp/~yusuke1/index.html←旅のショートショートの「沐浴の色」

関連するQ&A