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汚れつちまつた悲しみに・・・
中原中也の、汚れつちまつた悲しみに・・・、という有名な詩の意味を、どなたか教えてください。この詩は、いったい何を表現しているのでしょうか?伝えたいことはなんなのでしょう。ひたすら悲しい、ということは伝わってくるのですが、あまりよく分からないのです。
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詩にしても和歌にしても、俳諧にしても、これはこういうできごとの折りに造られたものだ、という説明を聞いて、意味が分かるとかは本当はおかしいのです。 作品を読んで、聞いて、何かの心の感銘を受けて、その後、その作品が作られたときの状況や経緯をしって、なるほど、よく分かるということで、作品としての感銘・感興は、説明と独立していなければならないのです。 造られた状況が分からないと、感銘がないとか感興がないというのは、作品になっていないのです。 中原中也の詩は、その点、少し問題があるのです。読んでも、よく意味が分からないとか,何を言っているのか感興がないという人がかなりいるのです。その他方、中也の独特な作風というものに惹かれる人がかなりいるのも事実なのです。 幾つかの作品を読んでみて、中也は、その言葉にどういう思いを込めたのだろうか、と考えていると、ある程度,何かが分かってきます。無論、分からない、感じられないということもあります。 この作品は、著作権が切れているはずで、引用してもよいはずです。全文は、下の参考URLにありますが、一行置きに繰り返される、「汚れちまった悲しみに」と「汚れちまった悲しみは」をはずしてみます。次のようになります: >汚れつちまつた悲しみに >今日も小雪のふりかかる >今日も風さへ吹きすぎる >たとへば狐の皮裘(かはごろも) >小雪のかかつてちぢこまる >なにのぞむことなくねがふなく >倦怠(けだい)のうちに死を夢む >いたいたいしくも怖気づき >なすところなく日は暮れる…… 「汚れちまった悲しみに」という表現が、自嘲的で投げやりな表現だという感じは確かにあるのです。「悲しみ」が「汚れる」とは、何と気障な、とも感じるのですが、他方、これは非常に自嘲的な言葉に響きます。それでは、「汚れちまった悲しみ」を除くと、詩はどうなるかというと、上のようになります。 二連目の「たとへば狐の皮裘(かはごろも)」というのは、何を言っているかよく分からないのです。感覚的に分かるか分からないかの問題のようになります。 しかし他の行は、通俗的な言葉のようで、しかし、 >今日も小雪のふりかかる >今日も風さへ吹きすぎる ここには、何か痛々しい感情の苦痛と絶望のようなものが、造形されています。この表現自体、まだ自嘲的な感じがしますが、中也の他の作品を見ると、やはり、こういう自嘲的な感じの言いまわしが出てくるのですが、しかし、他方、その部分だけを見ると、高度に冷静に緻密に彫琢された、詩的形象が含まれています。 中也の詩は、どこかユーモラスで自嘲的な言いまわしと、綺麗な詩的形象と、そして悲哀というか、切ないような悲しみの三つの要素から大体できているのです。 この作品にも、この三つが含まれていて、この場合、詩的形象が一番希薄というか、形象はあるのですが、それが自嘲的な表現に隠れてしまっています。 どこかユーモラスで自嘲的な言いまわしは、中也が自分自身を反省的に眺めている結果,出てくるのだとも感じられるのです。この詩の場合、自虐的とも言えるレベルまで来ているのですが、しかし、上に抜き出したラインを見ると、詩の形象彫琢は行っていることが分かるのです。 中也の詩は、自意識過剰で、自己の感情に溺れているようにも思えるのですが、良く読むと、冷静にそのような自己を眺めている視線があるのです。「自嘲」とは、そういう状態だとも言えるのですが、中也の場合、ただ自嘲に溺れこんでいないというのが、彼の作品を「詩」と評価する人たちの見方でしょう。 自嘲し、悲哀の感情に溺れているように見えるなかに、冷静に詩の言葉を彫琢している中也という詩人がいるということになるのです。すると、これは、単なる自嘲や自虐ではなく、もっと複雑な屈折した意識のありようの表現であるとなります。 どこかユーモラスな自嘲的な屈折した、いわば青年期の自己の客観視のような視点と距離の取り方、それに先に述べた,詩としての形象彫琢と、悲哀という組み合わせで、「中原中也世界」というものが出来あがっているのです。 自嘲的な視点に心動かされる人と、詩的彫琢に心動かされる人と、悲しみのある言葉に心動かされる人がいるということになるのですが、これらは、どれも、中也の詩の世界を前提にしているのです。 この「汚れちまった悲しみに」は有名な作品ですが、これは詩ではなく、青年が日記に書くような感傷的で自意識過剰な言葉の羅列だと感じられる人には、これはそういうものに見えるのです。 立原道造という青年詩人がいて、若く亡くなりますが、彼の感傷的リリシズムの詩は、エピゴーネンが一杯あるが、しかし、立原はエピゴーネンとは一線を画しているという評価を昔,読んだことがありますが、「一線はなかった」というのが答えだったと思います。 中也の場合も同じで、こういうスタイルのエピゴーネンはたくさんいるのです。そこで一線があるのかというと、あるのですが、ないとも言えます。しかし、中也の詩は模倣できないのです。こういう自嘲的で悲哀のある詩の真似はできますが、「中也の詩」にはならないのです。 この詩は、投げやりになり自嘲的になって、「人生はこんなものさ」と言いつつ、感傷的に悲しみや絶望をうたっているように思えますが、どこか、「冷静さ」が入っているのが特徴なのです。自分を反省して自嘲する自分自身を、また冷静に眺めている自分がいるというような構造です。 何重にも、こういう自己観察、自己省察の視点があるのではないかというのが中也の詩で、立原の詩は、ここまで自己省察した視点がある意味ないとも言えます。 立原の詩は、詩的空間からある距離を置いて、詩を形象している作者がいるのですが、中也の詩は、もっと自己観察・自己省察が錯綜しており、もっときっちりした詩的イメージを彫琢できながら、敢えてそれをしない中也という存在が感じられるのだとも言えます。 実はわたしもこの詩はよく分からないのです。しかし、中也の他の詩のなかに、その哀切さと美しさに心動かされる作品があるのであり、そこからすると、この詩にも、大きな感銘を受ける人がいるだろうと想像できるのです。 この詩がよく分からない場合は、中也の他の作品を読んでみて、どれか心に感銘を受けるものがあれば、もう一度引き返して、この詩に戻ってくると、違って見えてくる可能性があります。 最初に述べたように、この詩がどういうできごとの背景で造られたのか、関係がないのです。 No.1 の方の回答が簡潔で見事に中也の詩の構造を言い当てているのですが、そういう意識は、実は大勢の人が持っていて、しかし、彼らは中也ではないのです。しかし、中也の詩に心動かされる人たちなのです。 「近代人的意識」と言えば、小林秀雄につながって行くのが分かるでしょう。 >汚れちまった悲しみに >http://macalfa.tripod.co.jp/YomuFiles/yogore.html
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あえてその場ではないと承知しつつ、4の方に反論です。 私は、むしろ、うまい解釈ですら、文学には必要ないと思ってます。 ただ簡潔に、文学の(しかも感銘を受けたものだけ)背景をしりたいと これは、もちろん、文学の解説者の見方、解釈、理解ではないと思ってますが、私には、それだけしか、必要ありません。 >この詩がどういうできごとの背景で造られたのか、関係がないのです。 逆で私には、それしか、興味ありません。下手な評価者の文学の解釈、 それは頭にも、心にも残らないのです。 関係がないとは思わないのです。(私だけかもしれませんが、私には、関係があり、逆に心に残らない文学の解釈は不要だと思ってます。かえって、 作品の感銘をそぐとすら思えますが。
お礼
いつだったか美学者の今道友信さんが次のようなことを言っていました。 「大宰府の遺跡に立てば、われわれは何も思索することなく、その山野の自然の美しさに心を惹かれ、いつまでも立ち去らぬ思いに時を過ごすかもしれない。しかしもし、大野山の上には、8世紀のころ、山城が築かれており、大宰府の私どもの立っている台石は、昔ここに築かれた都府楼の礎石であるということを誰かに説明してもらい、それらの事実を回顧しながら、この景色をまた改めて眺めるときに、風景は時間の立体性を得て、そこにある一木一草は自然の悠久な生命をあらわし、次第に、ただの山野の風景とは趣を異にした詩情を体験してくる。」と。 つまり、詳しい知識がなくても、ものさびた礎石を見れば、ここに古人が生活を営んだという事実は分かるけれども、でも、正確な歴史的知識が与えられてくると、いつしか風景は歴史の舞台として重みを添えてくる、ということです。 私は詩も同じだと思います。詩も詩という音楽である以上、何の知識なしにその詩と接しても、大きな感動は得られます。しかし、そこにさらに、歴史、時代背景、中也の生涯、などの、感覚的にではなく、理性的に考える省察が加わった場合に、その詩から受ける感動も変わり、理解も深まるのです。一つの作品を、感覚的にだけ捉えても、それ以上のことは得られません。美には、感覚的な美もあるけれども、知性がなければ発見されない深いものもあるのです。 絵画の場合も同じで、知識があってその絵を見るのと、何も知識がなくてその絵を見るのとでは理解の深さがちがいます。 ただ、知識が一番重要なものかというと、それは違うと思います。知識は確かに重要だけれども、一つの芸術としての作品がそこにあって、その上に歴史事情なり時代背景があるのですから、その作品に対してそこに何を感じるのか、その感じる体験こそが最も重要なことだと思います。 皆様、いろいろなご意見ありがとうございました。
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一瞬、ダウンタウンブギウギバンドか何かの言葉かと思いました(^^; でも、そういうロックの人達が好みそうな言葉だと思います。 私もよく意味は分かりませんが、何だか退廃的で耳に残る言葉ですね。 ちなみに爆笑問題の太田さんが若い頃、中原中也のこの言葉に感化されて、 当時かなり攻撃的な詩を書いていたそうです。 下のサイトによると、当時同棲していた長谷川泰子さんの事を詠ったというのが 一般的なんだそうです。 http://www2.wbs.ne.jp/~siki/nakahara2.htm
お礼
興味深いサイトありがとうございました。中原中也と小林秀雄が知人だったとは知りませんでした。この詩の内容も少しづつわかってきました。中原中也についても、もう少し、自分で調べてみようと思います。
彼(中也)のたえこという恋人が、彼の親友(小林秀雄でしたっけ?)にとられてしまった事はしってますか?のちに2人は結婚してます。 信じていた大切な人を同時に失ってしまった。 それがあるような気がします。どこかに本あるはずで解説もあるはずなのですが(小林さんの中也についても、読んだ記憶も) 私見ですが(私のはかなり歪んでいるのが常ですが)純粋な悲しみの中に もっと深い感情も渦巻いていたのではないでしょうか? いかにたえこ、しずかに一緒におりましょうと歌ったたえこさんが自分の親友の下に走ってしまったら・・そう思ってよんでみてください。
お礼
ありがとうございます。そういえば私も、家のどこかに中学の時の資料集に解説があったような気がします。悲しい、悲しい、この詩をもっと深く理解できるようになるために、もっといろいろ調べてみようと思います。
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中也という詩人は、原風景というか思い込みというかわかりませんが、かって自分(中也)は【純粋】そのものであったという思いがあったようです。 そこからいつのまにか汚れってしまった(世俗にという意味だけでなく)という意識があるようです。 それを歌っているのではないでしょうか。 そして汚れてきたことになにもできない無為と虚無の現在をうたっているのではないでしょうか。 、
お礼
純粋だった心が汚れてしまった・・。 なかなかおもしろい感じ方ですね。とても参考になりました。 ありがとうございます。
お礼
大変素晴らしい回答、感謝します。何度も何度も読ませていただきました。 この詩は、とても、静かです。しーん、と静まりかえった深淵の世界があります。私はこの詩全体を包んでいる、その「静けさ」に、なんとも言えない寂しさ。孤独、自分を救ってくれる人は誰もいない、そんな中也の姿を感じます。本当に美しい詩だと思います。音楽で言えば、ピアニッシモから始まって、途中にクレッシェンドもディクレッシェンドもなく、最後まで悲しいピアニッシモで終わるような雰囲気です。それ故に心を打たれます。