人間は、神様が「喜びの対象」として創造された実体対象です。
しかも、ご自身に似せて創造されましたので、子女として
創造されたということです。それ故、人間は、「知・情・意」という
価値追求欲を持っています。
そして、それぞれ、「真・美・善」の価値を実現しようとします。
これは子女である人間にだけ与えられたものですね。
情的なミケ、知的なポチ・・・?そんな動物いませんね。
ですから、彼等動物達は「文化」を造れません。人間のような
「喜び」もありません。「価値」を追求しないからです。
価値を追求しようとするのは、原因的存在である神様と100%同等に
創造されているので自分の存在根拠を、原因的存在へと思いをめぐらす
ことができるからなのです。それは対等の立場で創造された者以外には無理です。
ですから、「喜び」が人間にとっても究極の願いになります。
それは、相手を愛することを通してです。それが最高の喜びです。
為に生きる愛です。相手が喜んでいる姿を見て自分も喜ぶ・・・。
その最高のものが「父母の愛」=神の愛です。これ以上はありません。
なぜなら、神様の愛がそれ以上ないからです。
家庭を通して、子女の愛、夫婦の愛、父母の愛を体得して、人間は
心を完成させて霊界へ行けば、永遠です。
「私達の愛は永遠です。」と誓って結婚したいですよね。
「私達の愛は死ぬまでです。」と誓って結婚したい女性はおそらくは
いないでしょう。そのような永遠の愛があるとすれば、それは
「奪いあう愛」ではなくて「与えあう愛」のはずです。
求心力と向心力との与え合う愛の力は、授受の作用により回転運動になります
から、「永遠性」があります。
物理の法則では、通常、入力より出力の方が若干減りますが、与える愛だけは、
入力より出力が増します。この原理で宇宙が存在しています。
それでなければ、とうの昔に宇宙は縮小してなくなっているかも知れません。
相手の為に生きる。つまり、生殖器も相手のものを自分が持っているんです。
神様は、生殖器を相手にそれぞれ付け替えておかれたと言うんですね。
自分の「もの」じゃないんです。だから、自分が勝手に使ったら泥棒ですね。
ジグザグの愛になってしまいます・・・。
そのようなインスタントラーメンのような愛を願うかどうかで、
その人の人生が別れてしまいます。
動物や昆虫にとっては、生殖器は、ただの生殖活動のためだけでしょう。
しかし、人間はそうではないです。喜びの為にあるのです。
何も生殖活動のためだけにセックスをするのではありません。
ただ、その喜びが神様が人間に本来願っていらっしゃる喜びなのか、
どうなのか・・・? これが問題なんですね。
人間の良心は神様と相対しますので、直感的に何が正しいか分かるように
なっているはずだと思うんですけどね・・・。
お礼
神様って????? なにか信仰されてるんでしょうか。 信仰の自由は認めますし、人が喜びを享受できることはステキな事だと思うので、人それぞれ好き勝手にご自分が納得のいく信念(私自身は縛られるのがあんまり好きでないので、この言葉は極力嫌っていますけどね)を持って生きることは、生を充実させて生きるにはやむを得ないでしょうね。 人間社会を上手く生き抜くにあたっては、なにかしら信念めいたものをもっていないとやってられないところもありますからねえ。