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長崎 壱岐の地名『触』
長崎 壱岐の地名には『触』のついたところが多く見受けられます。 調べてみると「藩政時代にお触書を通達する触役の一日の担当区域であったから」とありましたが、そんなにあちらこちらに担当区域があったのだろうかと疑問でもあります。 「免」については免税されていた土地と納得できるのですが、『触』についてはどうも納得できないでいます。 詳しい方の説明をお待ちしております。 ちなみに『触』はなんと読むのでしょうか・・・・。 フレ ショク サワリ フレが一番しっくり来るような。
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触(ふれ)の起源は古代の朝鮮語のpol(村)からの派生だという説があります。 韓人と倭人が朝鮮半島に雑居していた時代からの地名の名残りの可能性が高いそうです。 となれば、弥生時代に起源をもつ相当古い地名だということになります。 藩政時代なんてもんじゃありませんね。 質問者さんの直感が当たっているようです。
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- goo-par1732
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司馬遼太郎著『街道をゆく 壱岐・対馬の道』に、地元の郷土史家に「触」についてたずねた話が出ています。 触の語源は古代朝鮮語でしょうか、との問いに対して 「ちがうと思います。江戸中期にできた行政区分ですから。」 触の面積はほぼ一定ですか、との問いについては 「本来、サスガシラ(百姓頭)が触れてまわれるだけの範囲でございます」 司馬氏は、これらの発言に否定も肯定もされていません。 さて、「フレ」が古代朝鮮語と同根であったとしても、次の疑問を解決せねばなりませんね。 まず、朝鮮により近い対馬には、「触」という行政単位が、古代から今までまったくない ということです。 そして、近世に突如として壱岐だけに(生口島にもあるが)出現するという謎です。 後者の「謎」を考えると、壱岐独特の何かがあっただろうと思います。 ということは、江戸期を通じて壱岐を支配した松浦氏が、おそらく農業政策か 土地政策からの必要性から、中世の行政単位である村を分割して、 その小集落を「触」と呼ぶことにしたということですね。 地方の為政者が、新しい行政単位として「触」としたのは、おそらく古代・中世を通して 壱岐の人々の間に「フレ」という言葉が連綿と伝わってきていたからではないでしょうか。 「フレ」が小集落を意味する言葉として伝わったのか、それは分かりませんが、 行政単位とするにはちょうどよい言葉だったのでしょう。 『新・地名の研究 新訂版』によれば、壱岐独特の農地の「割替」制度から 出た言葉だという説は説得力があります。 割替は耕作地をほぼ10年ごとに替わって、収穫量を平均化して不平を少なくする制度で、その単位として農民の間で「フレ」が使われてきており、これが「触」という行政単位になったということです。 http://www.bk1.jp/product/01071144 他にも研究論文が出ていますが、素人の私にはハイレベルで理解できません。 専門家の回答を待ちます。
- mapato
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こんにちは。 #3の方も仰っていますが、「日韓古地名の研究」などで知られる金沢庄三郎などによると、朝鮮語同様(というより同根と考えて良いと思いますが)古代の日本語でも集落のことを「ぷれ」「ふれ」などと言っていたそうで、私も壱岐の触はこれに適当な漢字を当てはめたものである可能性が高いと思います。 地名と言うものはしばしば用いられている漢字とはまったく無関係な大和言葉から発生しているにも拘らず、のちの時代にそれが忘れ去られて当てられた漢字から由来譚が生まれるようなことが起こりがちです。 「藩政時代にお触書を通達する触役の一日の担当区域であったから」というのも「触」という漢字に影響されて生み出されたものである可能性もあるのではないでしょうか。 無論それらの意味が複合して出来上がったというようにも考えられますが。 こちらでも金沢博士らの説が紹介されています(中程より少し前の「続けて、九州の地名と韓国語の関係を調べるため、次の2冊の書籍を取り寄せた。」という辺りからです)↓ http://www.shochian.com/harubaru2.htm
- goold-man
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ふれ 港が開けているところが「浦」 上記以外のところがすべて「触」
- mat983
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下記サイトに読み方があります。 http://www.post-code.jp/pc/html/42421.html 有安触 アリヤスフレ 牛方触 ウシカタフレ 大浦触 オオウラフレ 片原触 カタバルフレ