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幣原喜重郎の示唆
国体の護持と軍需によらない復興を期した幣喜重郎の平和主義思想がマッカーサノートのきっかけの1つとなったとも聞きます。 幣原総理が昭和21年1月34日にマッカーサと会談した際に、日本側(幣原)から戦争放棄を示唆したと言われていますが、この示唆は幣原の独断による言動だったのでしょうか?
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ご回答がないようですね。現行憲法の制定(大日本帝国憲法改正)過程は、もちろん探り尽くしては居ませんが、削除の前にご参考の思いというか、知識というかを書いておきます。 幣原喜重郎総理大臣(以下、『幣原氏』と書く。)がマッカーサーとの直接の衝にあたった方ですね。 もう50年も前ですが、宮澤俊義先生のコンメンタールにもその間の事情がいろいろ出ていました。 マ元帥の所に幣原氏が日本側案を持参したら、突っ返されたとの記述があったと記憶しております。 そして業を煮やした総司令部側の案の提示、そして手交となった。という記述です。 賢明な老政治家が、非常に素晴しい案を持ってきてくれたと、マ元帥が言ったとか、書いたとかの話がやはりありました。 しかし、あの条項はマ元帥が提示、手交した総司令部の案の中にあったようです。それは原文(マッカーサーノートでしょうか)が公表されていますから確認できます。 マ元帥は優秀で雄弁な方です。 そしてまた、多くの歴史家がその回想録の歴史的価値を疑問視しております。 私は幣原氏からの平和主義思想というのは、マ元帥側からのお話ですが、これはマ元帥特有の修飾的創作ではないかと存じます。 昨日まで大日本帝国の指導階級であった方が、そこまで観念を切り替えていたということはありえないと存じます。 敗戦前から、平和運動んどの思想家であればいい得ることでしょうが。 日本はもう戦争はしませんという、くらいのことばはだしたでしょうが、それは敗戦と戦争の悲惨の中のだれでもの思いでしょう。 国としての戦争や軍備の放棄、況やそれの憲法的成文化は示唆していないと存じます。 そしてそれは敗戦と戦争の悲惨の中での誰しもの思いで、幣原氏だけではないと存じます。あったとしても、当然ことばの端々での発言ですから、独断もなにも、幣原氏自身の個人のことばではないかと、理解しております。 それを引き取って、総司令部側やマ元帥があの条項案を提示、手交したかも知れませんね。 しかし幣原氏は誰とも相談はしてないのではないでしょうか。 法律というものは、制定されれば、制定者や、原案作成者、制定過程とは別個に、解釈・運用され、意味が出てきます。 そういうことを法律家としても高名な幣原氏は知悉していたであろうから、いっさい公言はしないでしょう。 過程や会談の内容や発言、会話も。 そんな個人のことをいってはいけない立場でしょう。 日本国民が正統に選挙した、代表者が自由にその見識で討議を重ね検討し、国民に示し、所定の手続きで制定(改正)した。これだけではないでしょうか。 結論は言葉の端で、述懐はした。そのかぎりであって独断とかの問題が生ずるべき、提示などはしていない。独断でもなんでもない、敗戦した現状況下の述懐である。 示唆というが、それはマ元帥の修飾的叙述である。或は通訳だとか、理解の仕方ではないかと理解しております。 幣原氏自身の意識と会話の趣旨はそんなところはないですか。 仮にも大日本帝国憲法の改正であれば、総理大臣であろうと、示唆という言い方での表現形式ではありえないと存じます。
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。 この話の元はアメリカ側から出てきたものなのですね。 宮澤としよしさんのお弟子の芦部さんの本(この分野で一番売れてるあれです)にも、断定的ではないですが「・・・と伝えられている」と記載されていました。 鬼籍入りして久しい今でも、泰斗として君臨する芦部さんや、そのお弟子で補訂者の高橋さんが十分な裏付けなしに記載しているとは考えにくいとも思いますが、#1さんのご回答を拝読して、実際はそんなところだったのかもしれないなと思いました。 質問文の「昭和21年1月34日」は「昭和21年1月24日」の誤記でした。訂正してお詫び申し上げます。 貴重なご意見を賜りましてありがとうございました。