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ほにゃらか形而左右学 「ちから」2
「ちから」に関して、哲学的考察が可能か、という質問です。 一般に、「ちから」といえば、物理学です。 重力・磁力といった、「ちから」の分析、慣性の法則の発見、などなど。 それと、生理的な「ちから」も、熱量として、生物学や栄養学、などなど。 ところで、人間は社会的動物と言う事で、必ず集団を作ります。 他の動物も、集団を形成しますが、人間の作る社会の制度は、特別です。 そこで、この社会を必然的に構成する「ちから」これが謎です。 この、社会を構成する「ちから」は、物理学上の力の様に、考察の対象になるでしょうか。 「精神のエネルギー」つまり「思考する力」 あるいは「ちからの総合」も視野に入れて、 今回の考察の、足掛かりについて、なんでも教えてください。 前回の質問 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3305165.html 前回の質問が長くなり、改めて、質問しなおしました。
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何気にマイナーチェンジをいたしました。お久しぶりです。 社会に対する力で有効なのは「教育」と「道徳法則」かな。 人を支配するのにお金や暴力や色気にも充分な威力があるで しょうが、社会を動かすには信用と普遍的な約束が必要で、 それに叶うには目には見えないが一人一人の教育水準が社会 の網の目となり共認回路を創造するからです。 人間は機械やシステムの道具ではない。 人間が社会の約束を生み守ることに拘ります。 拘ったところで自然は弱肉強食な淘汰に終始しますが、人間は 弱いものに従う可能性までも見出します。 重い障害があって弱者たるヘレンケラーは社会にとってお荷物に 違いない。そうでなければ出来ないような奇蹟を見せるにつけ 人間に多大な目指す希望の星となり、太陽となり恩恵を与えた のですから、良い教育者と出会ったことは五体満足な私が嫉妬す るほどです(笑) 人間が創った複雑な社会と社会の枠に納まらない人間の可能性。ど ちらもすごい教育の力なのですね。 あ、私の頭は不自由かも。 頭の都合が悪い弱者よ!友よ!頑張ろう!! 失礼しました。
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社会的な力は 有効か無効かで判別するとよいはづです。 有効とは 特に《思想》として 意志の問題です。良心・意志の自由を基礎とする自由な自己表現にもとづいているかどうかです。 自由意志を踏みにじるものでも つまり 無効の思想でも 社会的に有力であることがあります。逆に言うと無力でも 有効な思想は 多いはづです。 その昔――やはりその昔(なぜなら対比がはっきりするので)―― 采女(うねめ)という制度がありました。スサノヲ圏なる地方ごとに 美しい女性を朝廷(アマテラス圏)に差し出すというものです。 ・采女:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%87%E5%A5%B3 すでに許婚がいた場合には 悲劇が起きました。たとえば 陸奥の国・安積の里(現・郡山市)の春姫の物語が伝えられています。召し上げられたあと かのじょは その朝廷から逃げ帰ったのだけれど その許婚の男は すでに死を選んでいたということを知って かのじょも後を追ったという話です。 ・春姫:http://f32.aaa.livedoor.jp/~basyou/basyo/sub1028.htm 世界のどこかでは 初夜権というものもあったと聞きますが この采女をめぐるアマテラス者の対(つい)関係は 明らかに無効です。その申し出(これも思想)じたいが無効でしょう。でも 社会的に有力です。でした。いや 今でも? そういった思想の有効・無効を判定するのは 言わずと知れたわれらが哲学の役目です。共同主観です。 ところで 自由意志が 思想なる社会力にかんする有効性の基礎ですが 意志は すでに触れましたように 重さであり ひょっとすると 物理学における重力の問題であるかも分かりません。 〔うろ覚えで言いますが というより まるっきり 思いつきですが〕 もし異次元理論で 重力は その異次元との間で 出たり入ったりしているとすると そのように この四次元世界では 小さいけれども 意志なる重さは 異次元世界と つねに交流をしているのかも分かりません。それで 小さいし軽いのだと。つまり 有効だけれども この世では 無力・非力なのだというのかも分かりません。 突拍子もないことばかり言っていますが そのついでで申し訳ないですが もう一節を。 つまり《こころの清い者は さいわいである。かれは 神を見るであろう》と。異次元と通じている人は 重力が この世では むしろ 軽いのかも分かりません。ただし 意志も心も 有効なのだと。 哲学が――つまり 宗教がでは 断じて なく 哲学が―― この無力の有効を 救済するようになるでしょう。つまり われわれの共同主観=常識がです。それ以外に たとえば アマテラス権力という力に頼っても ほとんど無効であるでしょう。いかがでしょうか。すべては みなさんの判断です。
お礼
回答有難うございます。 >ご社会的な力は 有効か無効かで判別するとよいはづです。 この表現からもbragelone様と質問者の見ているもののズレが感じられますね、「力」を変化の原因とすると、そもそも無効な力が質問者からするとありえないことになります。個人に有効な力が、社会的に有効な力になるとは限らない、辺りを「全体は部分の総和以上のなにかである」として、その数学的な矛盾をどう解決するため、物理的なブラウン運動や「量の変化が質の変化をもたらす」と言った形式で解釈できるのかな、と。 >こころの清い者は さいわいである。かれは 神を見るであろう うむ~これは痛いですね。 人類学者の西田さん、じゃない岩田慶治さん 「愛さないと見えないものがある」と、フィールド研究の観察に関して話したとか、 生物学者の岡田節人さん、「細胞にも色艶がある」愛さないと見えてこないとか、 うん~鈍な人は感じない、敏な人は感じすぎ・・・と含みを残しつつ
ああ 失礼いたしました。 ウロボロスの輪です。
お礼
お手数をお掛けしました、有難うございます。 へびの輪のようなものですか。 「ウロボス」と「ウロボロス」でしたら、 「ウロボロス」と言う言葉を知っていれば、 ちょっとした、タイプミスと気が付きますよね。 無知なお礼で、失礼致しました。 あれ、・・・入力と出力が、やはり難解でした。
生を享受するために発達してきたものも、大きな船の乗り物な大局から見ればウロボスの輪に見られるような自己崩壊が見えてくる。 大局を見据え、現象として起こっている生か死かの2項対立を突きつけ演繹することにより、共通認識として精神的な力を統合することは可能かもしれない。
お礼
ご回答有難うございます。 これも、別の意味で非常に難解ですね。 宜しければ、「ウロボスの輪」検索も辞書も役に立たず、 ご解説頂けると、有り難いのですが、 なんとなく、生命のエネルギーが関係するのか? まったく、張り合いの無い、お礼になってしまいました。
- littlekiss
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●こんばんは、littlekissさん、と、オオム返し ほーい~♪ こんばんは、fishblow66さん。 オオム返し…kotaeru…?…んじゃぁ、とくべつこうこくを 『食塩水の塩分濃度を高める方法』 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=286025 『水の話』 http://www.con-pro.net/readings/water/ http://www.mizu.gr.jp/ http://www.nies.go.jp/kanko/news/26/26-1/26-1-09.html http://www.acute-care.jp/document/bloodgas-museum/heyr309a.html 世のおのずから数というもの有りや 有りといえば有るが如く 無しと為せば無きにも似たり 幸田露伴 - 運命 - より ●カン.カン.イカーン ↑ ありゃりゃ行き止まりましたか?そりゃ、困った。ほな、ちょいと練習はじめましょうか。お稽古、お稽古、ヨチヨチ歩きも歩けば歩くほどに運脚力も身につきましょうに。八坂さんの中で迷子になってはいつまでたってもお宝をおがめませんやん。そこで、※練習アイテムを持参 めいろあそび ー うさぎちゃんとくまくんのたからものさがし http://books.livedoor.com/item4097561944.html 漢字基本用語集を開き 異体字を http://www.taishukan.co.jp/kanji/kanji_yogo.html おおっと、これかいな?ほんまに、多っと。そら、足踏みもするわなぁ。壁にぶち当たると…。年金記録記載漏れの障壁のひとつに名の問題があるか。名の読み方は一緒であってもその名を表す文字はたんとある。パスポート提示し本人確認をとる時のように顔と名前が一致しない限り許可がおりずピシャリとハネられたりもする。姓と名。氏名。二葉亭四迷。運悪くここでハネられると未確認姓名体扱いとなりその名は宙に浮く。『浮雲』ふむふむ、行き止まりにぶち当たる諸事情があんだね。 http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/moji/codeitai.htm http://www15.plala.or.jp/gemuseum/gemstry-gmm.html ちからの総合 "とくべつこうこく"
お礼
もしもし、 また、もとの木阿弥ですか。 先週来、ドタバタが、いろいろ続いていて、 今読んでいる、記憶と時間に関する本の、思考実験的な考察が、なかなか頭のなかに入らず、苦戦しております。 勢い、力に関する考察が、途切れ途切れで、進まない。 今回の「とくべつこうこく」は全部見ている時間がないですね。 有難うございました。
社会的な力は 一つに 《思想》です。 たとえば 新しい共同主観(コモンセンス)と旧い共同観念(ナシオナリスム) また その両者の間の対話です。 社会の第二階を成すアマテラス公民圏が 既成の秩序を生かそうとするとき また 保守しようとするとき もしそのとき スサノヲ市民生活圏に 新しい考えが生じてくるなら――つまりたとえば 士農工商の身分制のまま 永遠に推移するとは 思えない―― 対話が必要であろうし 対話から新しい思想の誕生を拓こうとすると思われます。時には 衝突もあるでしょう。 新しいアマテラス人種が出て スサノヲ圏の新しい動きを摂り入れ 共同自治を刷新するなら それとして この《スサノヲ(S)‐アマテラス(A)》連関体制は 新しい時代へ入っていくものと考えます。 いま 思想が 社会的な力だというとき この現在の《S‐A連関体制》なる二階建ての社会形態において 主題と課題を具体的に いくつか挙げられるはづです。 《アマアガリ》という概念をめぐる主題を 一例として取り上げてみます。 《スサノヲ市民のアマテラス化(われわれの内なるアマテラス公民化)》 これが アマアガリです。 ブッディスムで言う《出世間》です。――《世の中の差異・格差を 精神的にも経済的にも 超え出てのように 社会的な人間関係において対処し交通整理し 秩序づけること。また そのような一人の〈市民‐公民〉連関主体となること》です。 あるいはまた 《スサノヲ市民が 〈わたくし〉なる自然本性のままでは いない。同じ自然本性の内に宿した〈おほやけ(大宅=公=アマテラス普遍概念の構築)〉の能力を発揮し表現するようになること》です。士農工商に身分確定したままでは 自然本性の自由は 表現・実現しがたいと考えるゆえ 人は アマアガリを欲する。 この内面的なアマアガリに対して 負の場合を考えてみます。負のアマアガリとして 外形的なアマアガリ(アマガケリ)が生じると考えられます。内面における出世間ではなく 社会的身分としての《出世》です。地位の階段を上がり(そのこと自体は 悪いわけではないだろうけれど) 出世すれば 《悟り》に近いという思想です。社会の第二階へ上がれば 真正のアマアガリだという思想(錯覚)です。 あるいはまた この外形的にアマアガッたアマテラス公民に対して 一般スサノヲの間で いわゆるアイドル( idola )視するという現象も起こります。ということは 広く 群れるという意味での《宗教》の問題にもつながるものと考えます。さらにまた これらの宗教やアマテラス崇拝者としてのスサノヲ市民の間に 既存の社会秩序を擁護する力が 思想として生じます。このアイドル崇拝者たちは アマテラス予備軍と呼ぶとよいでしょう。 アマアガリをめぐって その負の形態(アマガケリ)と あたかも心理的にアマガケリを試みようとするアマテラス崇拝としてのアマテラス予備軍 ふたつの問題が捉えられます。 例証として。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち この丘に 菜摘(つ)ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告らめ 家をも名をも (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集 全訳注原文付 (一))と解説されます。このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲらの生活圏の間にというか その上部に 三句のアマテラス視点が突如加えられているのであるから そのアマアガリには 疑問が付きまとう。(そうして 《この欠陥を取り除こうとするのではなく・・・》という対処法)。 したがって このとき――そうではなく 欠陥を取り除こうとして―― 出来もしない理想を掲げて 政権の政策を批判するのは アマテラス予備軍の仕事です。偶像崇拝という思想から出てくる動きだと思われます。崇拝するからこそ ぼろくそにけなせば よいと思っている。・・・ 誇張し極論したところがありますが そんな課題が考えられます。(力の認識よりも 実際の行動に片寄って述べています)。
お礼
>社会的な力は 一つに 《思想》です。 確かに思想に力はあるようです、歴史的にもフランス革命とか思想的力の影響があったんでしょう、ただ、戦争になると、思想より利害の対立が原動力になるのでしょうか、力はいろいろ複雑です。 >(力の認識よりも 実際の行動に片寄って述べています)。 物理的力も、物質における運動量の変化があれば、力が加わった、と、説明されるようですから、実際の行動が、どのような関連で現れるかを観察するのは必要ですね。 その場合、スサノウからアマテラスへ移行するとすると、そこに加わった力を、個人レベルと社会レベルで、どんな存在様式になっているのか、その辺が難しいです。 古いものから新しいものへ、あるいは、アイドル的共感、こういった力の質的な違いか、あるのかどうか、興味ぶかい所です。それと、個人における、スサノウからアマテラスへの移行と二階建てと比喩的に指摘された、集団における、スサノウからアマテラス、これらの移行が有った場合、同じような移行の原因としての「力」は同じかと言うと、そうとも限らないかもしれません。 物理的力は四種類、有機化合物の基本的な核酸は四種類の塩基、タンパク質は30種類位でしたか、そこから、個人の多様な感情や個人の意志自体の多様性、さらに集団の力。 つながりそうで、つながらないのかも。 雄略さんの所の例証もう一つ判らず、コメントを差し控えましょう。 それにしても、「ちから」と言う言葉ふだん平気で使っていますが、力そのものは見えなくて、見ているのはその痕跡だけだった、難しいはずですね。ご回答有難うございました。
- littlekiss
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こんばんは、fishbowl66さん。 ご質問パート2ということで、前回までのことはさておき、気分一新このご質問に向き合ってみました。「ちから」とは何ぞえ?と、家で寝ててもらちあかず、煮詰まるばかり…えぇーい!お外の空気を吸いに取材敢行じゃい!ウソ、ウソ、ウソ、たまたま今日は公休だったこともあり私用で京都まで出かけたの。行ったついでに足のばそっと、阪急河原町駅で下車。地上にあがり八坂神社方面へテクテクテク。正面に見えるはずの赤い鳥居がない、なんのことはない只今改修工事中(今年11月完成予定)だとさ。八坂神社の中を通り抜け門を出、いくらもいかないところに長い長い石畳の坂が続く先は祖廟。ちと、立ち寄って納骨のあれこれを伺ってきた。やっぱ、あったよ、「ちから」いっこめっけ! いやね、記憶は曖昧だからうろ覚えながら納骨は確か本山と祖廟でちょいとちがってたよなとただどっちがどうでってあたりはよくわかってない。靄靄…靄っと…してたのはここね。で、伺ってみると、祖廟に納骨した遺骨は最後は土に還るとか。本山に納骨した遺骨はゴシンタイの下(須弥壇?の下)へ安置。ほら、出てきた「ちから」。縁の下のちからもち。人が立つその足下には、礎がある。ってことは…ある意味、勉強とよく似てるかな、継続はちからなり。わからなければ土に帰る…はじめから。ドリカムの歌じゃないけど何度でも、何度でもこちらもまた継続はちからなり。 おっと、鐘がなった 時間だ
お礼
こんばんは、littlekissさん、と、オオム返し なにやら、ちょっと足を伸ばして、京都ですか、うらやましい。 京都は電車が東西に横切って、奈良では、南北に線路が走っている。自転車散歩で、道に迷うと、そんな大まかな方向感覚が、うまくいくこともあれば、「土つぼ」にはまることも、京都奈良間で痛い目にあったことも。それと、八坂神社の舞台方向と興福寺の奥の方も、坂や石段、神社仏閣が集まっていて、どっちがどっちか、もう一つ思い出さない。 あら、力を見つける前に、鐘が三つ、カン・カン・イカ~ン おそまつ、さっそくのご配慮、有難うございました。
fishbowl66さん こんにちは。 新しい社会力学へ向けて §1 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関 人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。 《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。 《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。 強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会的な生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき 知解されたものごとを 人はこの身体の運動とともに 意志する。 《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。 わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて 公民の領域を兼ね 公民としての役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として 存在します。いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。 これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を 単にスサノヲと言ったり 従って もっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。 次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特には S者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味では S者は 主観であり 人間語です。 §2 主観としての《S‐A連関》から出発する 主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴っていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。 すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。 このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 主体的な生きたA語客観は 主観として殊に 《共同主観(common sense=常識)》と考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。 主観が 社会的に共同化されて 共同主観となるばあいには このように S者がA者(A語・A概念)をとおして 生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が 協働性を含むことは 言うまでもありません。 §3 共同主観と共同観念 さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけが取り出されるときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように 単なる観念ないし観念的な現実というまでのものになりえます。 たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえられうる・そして感性で理解されうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語られたり論じられたりするからです。つまり 抽象的でもあります。 したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。 これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして 論じられ規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり 共同観念をつくりあげることが 可能です。 この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。 共同主観は より一層 S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。 しかも 必ずしも感性的でないことによって 観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。 もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。 つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一旦 基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から 一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさっているというようなしろものです。 また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま 見出されるそれであるということになるでしょうか。 §4 記憶・知解・意志(愛) 身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。 同じく《知解行為》は 記憶に基づいてのように ものごとを知解する すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。 何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。 精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛ないし他者の愛(愛とは 自治・共同自治)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。 記憶し知解し意志する《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。 また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種 不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。 従って言いかえると 一般に 新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤のなかで 人は 生きることになります。 新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。 そこで この区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。 いま《スサノヲ-アマテラス連関主体》たる人間について考えてきて 社会としては S者共同体である市民社会が 基礎であり あたかも身体(S)の上に精神(A)が 乗っているように S圏の上にもA圏が乗って 全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。 次に これらの分析用語を整理しておきます。 §5 概念・用語の整理(1) 《スサノヲ--------アマテラス》 連関主体 Susanowo・・・・・・・・・・・・・・Amaterasu S者・S語(人間語)・・・・・・・・A者・A語・A語概念 身体・感性・・・・・・・・・・・・・精神(記憶-知解-意志) 《わたくし》・・・・・・・・・・・・・・《おほやけ》 市民(homme/bourgeois)・・・・・公民(citoyen) 社会主体・・・・・・・・・・・・・・・・社会科学主体 政治経済主体・・・・・・・・・・・・政治経済学主体 * 象徴としての国王・元首はアマテラシテAmaterasite; Amaterasity; Amaterasitaet §6 概念整理(2) 《 スサノヲ--------アマテラス 》連関形態 スサノヲシャフト------アマテラストゥーム Susanowoschaft--------Amaterasutum S圏------------A圏 市民社会---------〔狭義の〕社会形態 《まつり》---------《まつりごと》 ヤシロ Yasiro-------スーパーヤシロ Superyasiro 自治態勢および生産態勢---行政府・立法府・司法府 ムラ mura----------国家:イエ・ナシオナルihe national エクレシアecclesia(eglise)---- 社会形態;キュリアコンkuriakon(church) §7 概念整理(3) スサノヲ( S )・・・アマテラス( A ) 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・知解・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・↓・・・(・↓・・・・↓・・・↓・) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家族(秩序・・・労働・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓ [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・(国家 :司法・・・・立法・・・・行政 ) §8 スサノヲイスム(インタスサノヲイスム)およびインタムライスムへ向けて スサノヲイスム:自治(個体の自己経営・愛)を基礎とする社会 インタスサノヲイスム:愛 ;S圏主導(民主主義)による《S圏-A圏》連関の社会 インタムライスム:国境を超えたスサノヲイスト市民社会連合
お礼
ご回答有難うございます。 新しい社会力学、想定外のスケールで混乱です。 ニ三度読み返しましたが、ソシャク中、←(漢字がわからん) ついでに、カタカナ語もわからん。 そんな訳で、暫く、お待ち下さい。
補足
あらためて、ご回答有難うございます。 bragelone様の書かれる事は、いつも難解で、苦労しております。 結局、正確な理解が得られないまま、悪戯に時間を掛けてしまいました。 そこで、素人が理解できる範囲で、感想と、相違点に関して取り急ぎ書いておきます。 表面的にしか理解できていませんが、二元論的な印象が強いです、スサノウとアマテラス、身体と精神、民間?と公共、そのような対立が、主体において力学的にバランスを保ち、客観・アマテラスも構成していく、こんな感じで、良かったでしょうか。 このように、ご回答をひとまず理解すると、相違点は割りとハッキリします。 個々の主体のバランスのとり方は、多種多様にもかかわらず、全体としてのバランスが取れてしまう、結果的には同じように見えますが、個を単純に二元的に見ないで、複雑な力学関係のバランスと仮定するわけです(質問の核心はこのバランスでしょうか)。この辺りが、物理学のブラウン運動と社会学の全体と部分の関係が相同なのか相似か(この比喩、へた)、うむ、下手で、止まった。(力笑 止まった所で、正直に申し上げると、 個々の気ままな動きが、一定の方向性を打ち出す、とすると、質問者としては非常に苦しい所です、その理由は、A.スミスの、個人が個人の利益を追求することが、公共の利益につながる、と、同じ理屈に成ります、この点は、別途の反論ができると思いますが、そのことはともかく、今回の「ちから」に関する質問の、私の仮説が、bragelone様とは、違っているのか、単に少し、ずれているだけなのかは、ご回答の理解不足で、にわかに判断できないですね。 お待たせしすぎたせいで、再回答を頂いてしまいました。 なんとか追いつけるよう、頑張ってみます、有難うございました。
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お礼
ご回答有難うございます。 今週は、ゆとりが無くて、お久しぶりにもかかわらず、 お礼が遅くなってしまいました、 こちらは、フルモデルチェンジでもしないといけない。 教育や道徳法則は大事ですね。 ところで「教育の力」と言うと納得ですが、 その力って、なんだろう。 教育の力と道徳法則(言い換えると規範の力でしょうか)の力 この二つの「ちから」は同じなんだろうか? 教育の影響は、広範囲にわたりそうですが、 道徳とか規範は、抑制とか禁止の力のような、 この辺り、わたし〈は〉頭が悪いですから、悩むんです。 はい、頑張りましょう。