>>阿羅漢は大乗仏教側から見た小乗仏教に関する侮蔑語なのでしょうか?
もともとの意味はそうではありません。阿羅漢と言う言葉がありますが、インドの宗教一般で、「尊敬されるべき修行者」をこのように呼んだようです。初期仏教では修行者の到達し得る最高位をこのように呼び、学道を完成しこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を「無学位」ともいいます。それ以下は、不還果・一来果・預流果を「有学」(うがく)位といいます。この阿羅漢果を得た人はお釈迦様と同等の悟りを得たものと考えてよいはずです。
サンスクリット語経典の中でも初期に書かれたものは、お釈迦さまもガヤでの成道(悟りを開かれたこと)のあとサルナートに向かい、つい最近まで苦行を共にしていた五比丘を訪れ、初転法輪(初めての説法)によって五人の比丘は「釈尊と同じ悟りに入った」とされます。ただ説教しただけでなく、それによって五比丘はお釈迦様と同等の悟りを得たと表現されている場合があります。
また、釈迦の十代弟子といわれる人のほとんどは、釈尊のお墨付きをもらっています。
有名な話は説法第一といわれる 富楼那という仏弟子がいました。彼は、弁舌巧みな布教者でした。あるとき、気性が荒々しく、粗暴だといわれる地方へ布教に行くことになり、旅立ちにあたり、お釈迦様が質問しました。
「富楼那よ、その地の人々にののしられたり、あざけられたりしたらどうするつもりか?」
「世尊よ、『この国の人たちは、私を手をあげて打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」
「富楼那よ、手をあげてお前を打ったらどうするつもりか?」
「世尊よ、『この国の人たちは、私を棒で打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」
「富楼那よ、その地の人々がお前を殺したら、どうするつもりか?」
「世尊よ、『世の中には自ら命を絶つものもあり、誰か自分を殺してくれないかと願うものさえいる。願わなくとも殺してくれた』と思うことでしょう」
これは、原始仏教聖典である『阿含経』の一部『相応部経典』にある一節です。辺境の地での布教は、これほどの覚悟が必要だったということでしょう。こうした問答の後お釈迦様は、富楼那の悟りを認め旅立つことを許したといわれます。
しかし、釈尊滅後それではだんだんと都合が悪くなってくるようです。お釈迦様を特別な存在にしておきたい人々が現れます。それが大乗仏教のと呼ばれる仏教を提唱する人々です。その時に大乗仏教たちがそれ以前の仏教にたいして「小乗(劣った乗り物)仏教」と呼びはじめたのはご存知だと思います。大乗仏教教団ができる以前は、お釈迦様以外悟っていなかったということはなかったはずです。お釈迦様が悟りにオッケー出してるんだから「阿羅漢」が仏と同等ということに文句の付つけようがありません。
しかし、大乗仏教では「声聞」を阿羅漢と呼び、批判的に仏と区別しています。大乗の修行者を「菩薩」と呼び悟りを得ることはできるが、小乗の「阿羅漢」と自然との対話の中で独自に悟りを得る「独覚(どっかく・または縁覚ともいう)」は仏になれないとされ、さらには「地獄」へも堕ちることができず、その位のまま輪廻が繰り返されるとする論書さえ存在しているようです。
ただ、『妙法蓮華経』の中の「三界火宅の喩え」には、
長者が火事の家から三人の子供を逃がすために、方便を凝らして、それぞれの子供が好きな羊車・鹿車・牛車を与える約束をしたが、安全なところに逃げて後、三つの車など比べ物にならない立派な大白牛車を与えたといわれます。
意味としては、菩薩・聞声(阿羅漢)・縁覚の区別は方便であって、最後には仏になることができるという喩えです。
『妙法蓮華経』のなかでは、阿羅漢であるものも仏になれるとしています。ただ注意すべきは、やはり大乗有利で説かれているということです。小乗仏教のように阿羅漢が無学位であるという認識はなく、あくまで大乗仏教における修行中の菩薩の一人と認識するということになります。
>>阿羅漢は大乗仏教側から見た小乗仏教に関する侮蔑語なのでしょうか?
その認識は大乗仏教からみれば正しいです。けれども小乗仏教からする認識とは違うことも私たちは知らなければなりません。そして最後になりましたが、今小乗という言葉は大乗仏教からの差別用語に当たるため「初期仏教」や「上座部仏教」と呼ぶのが適切かとおもいます。
長々書き連ねましたが、まとまらぬな文章のため読みにくいかと思いますが、文意を読み取っていただきたく思います。
合掌 南無阿弥陀佛