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文化遺産をめでる事は屍をめでること
昔の貴族や権力者が所持していたもので、今はガラクタ骨董の類になってしまったものを再生?する、文化活動としての~~の至宝展やらに行くと陥る感覚があって、それは 「かつてこの贅沢きわまるものを受注し生産し消費していた時代があった、そしてその一部の人間の贅沢というものが、社会的にも容認されていた時代があった。然るに今は何だろう。ただ何百円か払ってそれを顧るだけで、帰りにスーパーに立ち寄ってろくでもない料理を作って、CDでも聞いて寝るだけの庶民というのは、あるいは現代社会の均質性というのは、じつは文化とは遠く離れてしまったのではないか」「なんとなれば、なぜこういう尋常ならざる贅沢をわざわざ観に来るのか。すなわち現代生活が社会が、憧れなどを含んでおらず、ただ生存するのに都合がよい、文化的には死滅した社会だからではないか?」 というような気がします。 そういう考え方感じ方は、なにか問題があるでしょうか。異端でしょうか。
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>かつてこの贅沢きわまるものを受注し生産し消費していた時代があった これは、一概には言えません。 確かに、「黄金の○○」だの「宝石の散りばめられた王冠」だのは一部の特権階級のモノだったかもしれません。 しかし、土器や壺、なんかは生活の必需品でしたし、建築物なんかも生活に密着したモノでした。 もちろん、絵画なんかも必需品でしたし、芸術家というのも今のアーティストと違ってどちらかといえば壺やら家やらを造る職人みたいな位置づけでした。 ただ、歴史的に有名になるのは名工の作った作品ですが。 しかし、歴史の彼方に忘れ去られた職人の作った作品も多数残ってますし、そんな作品の持ち主は中流以下の庶民だったかもしれません。(かもしれませんというのは、こういった注目されないモノはなかなか出所をハッキリさせるのが難しい) ※また、壺や建物にある絵や彫像はタダの飾りではなく「宗教的な意味合い=精神生活に密着している」と言えます。 これら、遺物が歴史的・芸術的価値を持ちだしたのは(長い歴史から見れば)極最近の事なのです。(特に、考古学が始まったのは近現代に入ってから) それまでは、生活に密着した品物だったし、必要がなくなったモノは忘れ去られる運命だった。 今で言えば、量販店で買う家電製品やら家具みたいなモノでしょうね。 で、一部の名工が作るのがオーダーメード製品で、忘れ去られたのが型落ちした製品って感じで考えれば現代の感覚に近いかもしれません。 まぁ、旧くなったモノにアンティークだ何だといって価値をつり上げるようになったのも近代に入ってからですね。特に考古学製品に至っては昔はタダのガラクタですから。 かのメディチ家はタダ同然でそれらを収集してました。まぁ、彼らは当時では変人ですね。 その御陰で、考古学という学問の萌芽が生まれたんだと個人的には思っていますが。
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- tamtam10
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いつの時代も人間は「快」を求める生き物で、その時代の情報・生産技術の中で「快」を追求した結果、現存してるのが、いわゆる「文化遺産」なのだと思います。 従って、昔の王族・貴族の所持品も、現代のTV・雑誌・CDなどもそういう意味では「同列」のものです。 ただ、「文化」という冠が付くと何となく、インテリっぽく知的な感じがするんですね。けれどもそれは全て「後付け」です。「文化的なものを造ろう!」として出来たものではなく、あくまで制作者や依頼者の「快」の追求の結果の産物です。大衆の嗜好から乖離して、自分を高みに置きたい文化人のスタンスを示すオブジェなんです。 だから、現代にもキチンと「文化」はあります。 後は後世の文化人が今をを評して、 「あの時代には本当の文化があった……」 と言ってくれるだけです。
お礼
至宝店のぜいたく品は「快」以外の何者でもありません。それと同じ流れで矮小化されたものが現在の様式でしょう。相対化の訓練でしょうね。
- ringouri
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あなたの「現代社会」あるいは「現代文化」の理解の仕方が狭過ぎるため、世の中が見えていないだけです。 スーパーのお惣菜やコンビニのお弁当を買って食べたり、CDを聞ける人など、現代世界(地球レベル)で少数派ですよ。「現代社会の均質性」をあげつらうなんて、あなたが日本のそれほど貧しくない社会に暮らしていて、日常文化に埋没し、本当の「現代社会」がまったく見えていない(あるいは見ようとしていない)状況の結果であって、「均質性」が幻想だということに気付けば、世の中や文化遺産の見方が変わると思います。 XXの至宝展や有名な文化遺産を訪れて入場料を払って見学するのは、現代と異なる文化の状況を知りたいという知的欲求が第一義的なものでしょう。贅沢な品物などは、確かに権力者や富豪の象徴かもしれませんが、その当時それを可能にした(資金源・労力源として搾取される対象としての)庶民や特殊技能者(工芸職人、芸術家、技術者など)がいて実質的にその当時の「文化」を担っていたわけです。その当時の庶民は「文化的な生活」など感じずに暮らしていたことでしょう。だからと言って文化と無縁だったわけではなく、文化の担い手だったことは明らかです。 未来の人達から見て、現代の「文化遺産」とは何でしょうか?興味ありますね。日本人が往々にして近代・現代の文化遺産を大切にせずに(むしろ積極的に破壊しつつ)暮らしているのは、現代文化の歴史性に無頓着だからでしょうか.... もう書くのがおっくうになったので、長々とは述べませんが、現代文化の担い手もその多くは庶民ですよね。今生きている我々一人一人が現代文化の担い手であって、けっして一部の芸術家や金持ちではありません。 ですから、質問者さんのように、ネガティヴに考える必要はないと思いますし、逆に、質問欄にあるような思考方法は「文化」の理解を妨げているような気がします。
お礼
文化の形態をもっと流動的につかまなければなりませんか。どうも、これほど形態差があると戸惑います。しかし、おっしゃることもっともです。多くの庶民が文化の所有者であるという条件で行われている現在の文化活動も、またひとつの歴史的形態ですね。
今も昔もほとんど大多数のヒトは社会を成り立たせるために最低限の条件を与えられていることに変わりがありません。すなわち生かさぬよう殺さぬようと言うものです。ただ現代は唯一の権力者のために社会があると言う建前にはなっていないところが少し違います(勿論小数の国では違うことがありそうですが)逆に極少数のエリート(?)が作り出したものが形のあるものではなくなっているということもあります。典型的なものは流行です。万事移ろいやすいものです。コンピュータですら巨万の富の対象となっているのはコンピュータ本体ではなくソフトです。大多数の庶民が与えられたソフトによってなだめられているのが現代とも言えるのではないでしょうか。結論としては貴方のご感想はないも残さなかった大多数の庶民のことを考えればあまり中っていないのではないかと思います。
お礼
ありがとうございます。 生かさず殺さずは過去の遺物ではなかったんです。なんだって少数者のために社会なんていうことが可能になっていたのでしょう。 流行というのはたしかに庶民発祥のものかもしれない。それが文化の流れの逆転かもしれませんね。
お礼
中流以下の所有者の物品もけっこうあったのでしょう。そういうチープなものも量的にはしのぐかもしれないから。そういうガラクタはアンティークショップで法外な値段になっているという、ヴィンテージ嗜好が台頭します。