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履き物
足中と呼ばれる踵のない草鞋がありますがどのような場合に使われたのでしょうか? 常飛脚や七里と呼ばれた早飛脚は使ったのでしょうか? 武士の履き物は雪駄が良く使われたようですが、行列の場合はどうだったのでしょうか? 桜田門事件のような雪中での徒立ちの履き物はどうしたのでしょう? 調べてみたのですが今一つはっきりしません。 ご存じの方お教えください。
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時間があれば絵巻物をボーッと見ています。 今日は、履物に注目して見てみました。 宮本常一著『日本庶民生活誌』を、絵巻物の解説書として重宝していますが、その中に 「侍たちは毛沓をはいているが、徒歩の雑兵は足半をはいている。馬に乗るほどの者でも 身分が低ければ足半をはいた者もいる。」とあります。 「蒙古襲来絵詞」の中の、「季長、生の松原の石築地の前を通過する」場面です。 http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/index.html 椙山(すぎやま)女学園大学・人間関係学部の助教授・山根一郎氏のHPで、「研究の世界」の中の「日本人の歩き方」の中に、絵巻物に現れる足半の使用例があります。 http://web.sugiyama-u.ac.jp/~yamane/ 飛脚と言えば、広重「東海道五十三次」の「平塚(縄手道)」を思い出しました。 この絵では片足だけしか見えませんが、足首に紐を巻きつけているので、 草鞋ですね。 また、飛脚の写真が残っていますが、やはり草鞋です。 草鞋は、紐を足首に巻きつけて固定しますから、ぴったりと安定するのだと思います。 http://zenpaku.huu.cc/toukaido/53.htm http://www.eonet.ne.jp/~munemune/05tokusyuu.html 「大名行列」でイメージ検索すると、何種類かヒットします。 前記の「東海道五十三次」の「日本橋(朝之景)」には、大名行列の先頭が描かれています。 『参勤交代道中記―加賀藩資料を読む』平凡社には 「供人は野装束、即ち布羽織、股引、脚絆、甲掛、草鞋、笠を着した」とあります。 雪がある場合は、「爪掛」という藁で編んだ足袋の先のような物を草鞋に掛けていました。 http://www.footandtoy.jp/event/2006/kusanokutu/K004.html 桜田門の変における人物が何をはいていたかは、絵を見ただけではよく分かりません。 茨城県立図書館には「桜田門外之変図」があります。 これは、襲撃した水戸浪士の蓬田市五郎自身が描いたものですから、襲撃側のいでたち姿は信憑性があると思います。 たすき姿が襲撃側で、用意周到であったと分かります。 襲撃側の足元をよく見ると、全員(多分)黒っぽく描かれているので、原画を見れば判断できると思います。 大老側は、雨合羽を着けようと申し合わせしたと記録がありますが、履物は常日頃から個人の判断だったのでしょう。 http://www.lib.pref.ibaraki.jp/home/shozou/siryou1.htm 彦根城博物館だよりの中に「桜田事変絵巻」がありますが、履物は分かりません。 http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/letter/08.html
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- ben1151
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わらの中に棕櫚を入れて、編みこむと強度がでると、聞いたことがあります。 走るのが仕事の人は、使い捨て感覚が一般人より高く、簡略化された、ぞうりを数多く持ったのでは、ないですか?
お礼
大変ご親切なご回答本当に有り難うございます。 足中は草鞋の踵の部分を削ったという説明があり固有名詞として残っているのですが、私の調べた所では詳しい使用例などは見あたりませんでした。 どうも徒武者が使ったらしいと考えたのですが、踵の部分がむき出しとなるのでどのような効用があるのか疑問でした。 藁の節約などではないですね。 走るのに便利だったと考えると腑におちますがそれでは実際にどう使用されたのかが疑問でした。 絵巻物からの発想は目から鱗でした。 私も手許の絵巻物を見直し、将軍の息女が加賀前田家に嫁ぐ行列の警護の武士の足下を見て晴天なので上下着用、袴の腿立ちを高く白足袋に草鞋でした。 雪草鞋があったとは気付きませんでした。 彦根は雪の多い土地ですから普段からこのような工夫があったと納得です。 恐らく桜田門の時もこのような雪草鞋が使用されたものとおもわれます。 絵巻物の光景は迫力満点でした。 本当に有り難うございました。