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現象学と無意識
現象学では無意識をどう捉えているでしょうか。 サルトルなどは無意識を批判しています。
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現象学において無意識を肯定的に捉える動きは、決して新しいことではありません。現象学の運動の中で、主にサルトルは無意識に批判的ですが、サルトルの学友メルロ=ポンティは、『行動の構造』の注において、フロイトの言う無意識等々のものこそ自分達の言う実存と言うべきものである、と述べています。また、メルロ=ポンティは、心理学の教授資格も持っているので、(タイトルは忘れましたが)ラカンの学説について、その講義で触れております。邦訳の講義集『眼と精神』に収録されていたでしょうか。 古くは、フッサールの現象学においてすら、無意識的なものは想定せざるをえなくなるという過程を経ます。フッサールは、その前期の哲学においては、心理学主義を否定し、個々の人間の心理現象をかき集めるだけでは捉えられない論理的な本質を究明することを自らの課題として提起しました。そして、中期の『イデーン』に見られるような「超越論的現象学」において、意識に与えられる本質直観において論理的な本質が捉えられるという方法を提案するに至ります。 このように、現象学はその方法論上の舞台を意識に収斂させているように見られがちですが、これは比較的古い解釈です。いまだフッサールの中期の年代だった頃の講義『経験と判断』においては、意識的になされる論理的なものの判断が意識化されていない時間的空間的脈絡(「環境」とか「地平」と呼ばれるもの)の内にその重要な源泉を持っていることが指摘されます。つまり、意識的な論理や本質を成立させるための条件として、無意識的なものの重要さが指摘され研究されるようになっていたのです。これが後期の哲学において、「生活世界」という重要な概念に洗練されていきます。つまり、フッサールの現象学は、(意識を立てるという目的のためとはいえ)中期の後半から後期にかけて無意識に関心を向け始めていたと言えるのです。 ただし、このような現象学の無意識研究は、表面上、フロイトやラカンに見られる欲望と抑圧との無意識研究とあまり似てないと思われるかも知れません。しかし、先に引いたメルロ=ポンティの言葉にあるように、フロイトの最大の業績は、お医者さんとして無意識的な症例のあれこれを発見したことにあるのではなく、人間性全般を理解するために無意識が看過できないということを見出したことにあります。例えば、フロイトは、夢や言い間違いといった些細ではありますが不思議な現象を解明するのに無意識を想定することによって上手く説明を与えています。フッサールの現象学は、厳密な科学の基礎付けのかぎりにおいて無意識の領域にぶつかることになり、ただその関心からのみ無意識的なものを論ずるにとどまったわけですが、メルロ=ポンティは、そういった現象学の流れを受け、現象学が取り組もうとした課題を果たすためには、無意識を含めて人間性全般を理解し直す必要があると考え、現象学が捉える人間性全般を大きく改変しました。それは、無意識や身体の諸性質や(ただ論理的なだけではない)日常的な発話を含んだ人間の研究に外なりません。 そして、そのような、もはや意識にとどまらない人間(サルトルにとっては、人間とは結局のところ意識にとどまってしまうのですが)の在り様を、etre a monde (世界内属存在)と言い表すのです。 なお、蛇足ですが、竹田青嗣氏は、フッサールと無意識と(ニーチェと)を絡めて論じた著作物がたくさんあり名声を博してはいますが、私個人としましては、絶対に参考にすべきではないと親切心から申し上げておきます。
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- filostefani
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こんにちは。 私は哲学者でも現象学者でもありませんので、定かではありませんが。 現象学というのは意識に昇ってくることを対象としていますので、 意識に昇ってこない無意識は、現象学の対象にはならないのではないでしょうか。
補足
ご回答ありがとうございます。 永遠に仮設だよって感じでしょうけど、もし暇がありましたら以下のURLをご覧になってみてください。 http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/gennsyo/yamatyann.htm
補足
たいへん分かりやすくご解説いただきありがとうございました。 とても参考になりました。 又よろしくお願いいたします。