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自己を蝕む自尊心
何回か同様の質問をしています。 そして霧の中に霞んでいたものがなんとなく見え初めて来たような気がしています。 それは皆さんの個々の回答以上に、やりとりそのものの効果のような気がしています。 さて、「自尊心が高い」と、精神科医にも、 このサイトでも指摘された私ですが、 最初に精神科医M沢S夫に「自己愛性自覚障害」と指摘されたとき、 全く訳がわかりませんでした。 白を黒だと言われたような感覚・・・ その根拠は、私は人一倍自己否定感が強く、また私を否定する言葉に簡単に傷つけられます。 更に、自分の長所と短所を言えといわれれば、短所は幾らでも挙げることが出来ますが、長所は?と訊かれれば「そんなものありません」と答えるしかありません。 けれどもここでの過去のやり取りや他の掲示板でのやり取りを振り返って、 何故こんなに人の言葉に「反発」するのだろう・・・という疑問が持ち上がってきました。 多少でも拒絶的、否定的、批判的な発言をされると、 「売られた喧嘩は買わねばならぬ」とばかりに猛反発して牙を剥きます。 それを見て人は「ナルシスティック」「自尊心が高い」と指摘します。 過去複数の良回答によって、少しづつ、自分を苦しめ、 自己を否認する自己愛について分かり始めた気がしています。 ちなみにM沢S夫が作成した「自己愛性人格障害」のチェックリストをやってみると、当て嵌まるのは1つだけでした。 自分を認めない自己愛なるものについて、 再度ご意見をお聞きして、考える契機にしたいと思います。 尚参考までに大手小町と言うサイトで、 「イン・ワンダーランド」というHNでトピを立て、 結局投稿を停止させられましたが、いろいろやり取りをさせてもらいました。 この堂堂巡りから抜け出したいと思っています。 重ねて質問させてください。
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>つまり「ありのままの自分を容認する」ということは私には起点では なく、終点に思えるのです。 そうですね、ちょっと言葉が足りませんでした。確かに今のあなたにとっては「今の自分を受け入れること」がひとつのゴールだと思います。しかし、もっと長い長い人生という視点で見ると、「自分の人生を生きる」という実感のようなものが「ありのままの自分を容認する」ところから始まっていくと思います。そういう意味で「人生のスタート地点」だと思います。 蛇足ですが、「結局・・・」「やっぱり・・・」と結論づけてしまうのも自己愛の防衛手段の一つです。その気になって、ダメだったら傷つきますからね。しかし、ただ結論づけてそこで終わってしまうと何も前には進みません。ダメかもしれないけどやるだけやってみるか・・・くらいの気持ちになれると前にも進んでいけるかもしれません。 自分を受け入れるという作業は時に怖くてつらい作業となります。「あきらめない気持ち」や「負けん気の強さ」がある程度ないと途中で挫折するかもしれません。でもまぁ、特に気合を入れて進まなくても、今の状況が「本当に苦しいもの」であれば自然に体が動くとは思います。逃げ回っていると本当の苦しさもなかなかわかりませんが・・・。 いっぱい右往左往しながら進んでください。無駄なことは何一つありませんから。
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- snakesoul
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ご期待にこたえて調子に乗って書いちゃいます! 「メビウスの輪のような迷路」から抜け出したいなら等身大の自分を知ることです。そして受け入れることです。それがスタート地点です。前にも書きましたが、ダメならダメでいいんです。 まずはあなたが変わろうとするときもぞもぞと動き出す自己愛さんをどう説得するか、ということがひとつの課題になってくるのではないでしょうか。自己愛さんが騒ぐと大切な言葉も素直に入っていかなくなります。 また認知療法で言う「認知の歪み」によって作られた等身大ではない自分や社会を現実的に作り直す作業や論理療法で言う「非合理な信念」でがんじがらめになっている自分を解放していく作業が必要になってくるかもしれません。 http://www.f5.dion.ne.jp/~with/irrational.htm ↑論理療法は例えばこんなページにちょろっと書いてあります。(あとアサーショントレーニングも同じような流れをくんだ自己主張訓練みたいなものです。)これらは「自分の都合のいいように解釈する」のではなく、自分を取り戻す作業です。「メビウスの輪のような迷路」を作っているのは他でもないあなた自身です。 今の自分が整理できてくると(等身大に見えてくると)、過去のことも整理できるようになってきます。 人に好かれたい・嫌われたくないが一番の目標となってしまうといつか自分自身を見失います。ダメでも馬鹿でも誰かに愛されます。等身大の自分で、まずは一人にでも好かれたら幸せじゃありませんか。もしかすると成育環境の中で、傲慢で、権威的で、自己中で、感情の起伏が激しい人に苦労した経験があるのかもしれませんが、まぁ過去はどうあれ自分の人生は自分で作っていくしかありませんから、焦らず進んでください。 調子に乗って書きすぎましたか・・・失礼しました。
お礼
>調子に乗って書きすぎましたか・・・失礼しました。 とんでもありません。 お疲れのところ度々時間を割いていただき恐縮です。 snakesoulさんは以前より「今の自分を受け入れること」と言われていますね。 >等身大の自分を知ることです。そして受け入れることです。それがスタート地点です。 反論のための反論ではありません。 ここのところがよく分からないで困っています。 つまり「ありのままの自分を容認する」ということは私には起点ではなく、 終点に思えるのです。 つまり目指すところがそいういう心の状態だからです。 けれども、そこを目指すための始発駅が「等身大の自己容認」駅であるとすると、それこそまたぞろ、メビウスの輪のトリック(トラップ?)です・・・ >人に好かれたい・嫌われたくないが一番の目標となってしまうといつか自分自身を見失います。ダメでも馬鹿でも誰かに愛されます。等身大の自分で、まずは一人にでも好かれたら幸せじゃありませんか。 本当にその通りだと思います。 結局勇気がないのでしょう。 >自分の人生は自分で作っていくしかありませんから、焦らず進んでください。 とはいうものの、やっぱり焦ります。 永遠にこの迷宮から抜け出せないのではないかという思い・・・ お忙しい中これ以上お引止めはできませんが、 良かったら「起点」「終点」に関することでも、 また教えてください。 いつもアドバイスありがとうございます!
- iye
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バベルの塔の創造に近いものがあるような・・・ 内的世界の創造と、自らの手による破壊。しかも、繰り返し。 あるいは、シジホスの神話でもいいですが。 どんなプラスのメッセージもプラスと感じられない? ただ美を追求する芸術家のように。 “愛は求めるのではなく、与えるもの・・・ それはすでにわれわれの中にいる。呼ぶ必要はない。 きてもらうように願うのでなく、ただ自由に出るようにさせてやること、ひとにそれをあたえてやるようにすること” ・・・だそうです。
お礼
お礼が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。 再三のコメントありがとうございます。
- iye
- ベストアンサー率41% (23/55)
「謙虚さ」というのは、長所?・・・この辺は認めてもいいのでは? もし、そうでないとすると、 見せ掛けの「謙虚さ」で、どんな意見も素通りしてる? それとも、自己愛に裏付けられたもの? 円環から抜け出すことは、すなわち“解脱”となるでしょうか。 同じところ(実際にはその都度、新鮮な体験だと思いますが)を何度もめぐることで、何か実りあるものに気づいてるところもありそうに感じますが。
お礼
再度のご回答感謝します。 >「謙虚さ」というのは、長所?・・・この辺は認めてもいいのでは? >もし、そうでないとすると、 >見せ掛けの「謙虚さ」で、どんな意見も素通りしてる? 鋭いご指摘です。 言葉に窮します。 自分では「謙虚」だとは思いません。 結構傲慢なところがあると思います。 恥ずかしながら後者の方に近いかもしれません・・・ その辺りを人は自己愛が強いと指摘するのでしょう・・・ 一方で謙虚でありたい、この堂堂巡りから抜け出したいという思いも同量に持っているのです。 >同じところ(実際にはその都度、新鮮な体験だと思いますが)を何度もめぐることで、何か実りあるものに気づいてるところもありそうに感じますが。 確かにこちらで再三質問させていただき、皆さんのアドバイスを頂き、 またお礼補足でやり取りをしながら、なんとなくこのスパイラルから抜け出せるときが来るのかという気持ちもあります。 >円環から抜け出すことは、すなわち“解脱”となるでしょうか。 解脱になるかはわかりません。 けれどもこのような自分にいい加減ウンザリしているのは確かです。 真の意味で自分を愛し慈しむ心を持ちたいと願っています。 また御意見お聞かせ下されれば幸いです。 ・・・私は昔からこのようにお話した相手に「自分をどう思うか?」という印象を聞くことが多いようです。 プラスのメッセージに渇えているのだと思います・・・
- iye
- ベストアンサー率41% (23/55)
素人の意見で申し訳ないですが・・・ 自分を全否定してしまえるほどの、高みにある自己が存在する、という解釈は成り立たないでしょうか? 自己を否認することで、否認するという行為をする自己の一部は否認されずに保たれる。 ただし、自己否認する、そういう自分が許せない・・許せない自分がまた許せない・・・と合わせ鏡のように永遠に続く・・・ あるいは、 現実的には手の届かない理想的な自己像と、卑小な恥ずべき自己像・・・往ったり来たり、飛翔と墜落・・・ いずれにしても、どこかにとどまって安らうところがない。甘んずることがないことで、保証されるものがあるのかな。 ひとの言葉というのは、自分の中のそういう内的な動きを止めてしまう。身動きできなくさせる何かには、抵抗する。自由を奪うものへの反抗、反発。どんな言葉も自分の全てを説明し尽くすことができない。 こころの動きを、精神の自由と考えるか、さまよえる苦しみと感じるかは、みんな、それぞれ。その時々でも移り変わる。 ・・・・そんなものなのかなぁ、と思います。
お礼
>素人の意見で申し訳ないですが・・・ とんでもないです。 ここでしばしば良質の回答を頂いて、「プロ」のカウンセラーとどのように違うのか、正直そんなに違わないのかなとも思います・・・ なかなか奥が深いご意見ですね。 確かに#1さんが仰られているように、本当にメビウスの輪のような迷路に嵌まり込んでいる感覚です。 しかしそこから無理やりに抜け出そうとすることは現時点では無理なのかもしれないとも思います。 文学的なご回答、ありがとうございました。
- hamakkotarou
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自分の気にいらない言動をする人に対して反発をするのは、 自分はそうではないからと思っているから、または 自分に対してそういった言動をすることを認めていないからかもしれません。 根も葉もないことや勝手に思い込んでいることを言われることは心外ですが 基本的に誰かがどんな発言をすることは自由だと思います。 言われた事の何処までを容認するかは人それですが、言いたい人には 言わせておけばいいだけだと思います。 まず言葉にはそれほど力を持っていないからです。 言葉を受け取った人がどう反応するかで力となって現れるだけです。 言った本人もある力を持っていると信じているでしょう。 でもその言葉が効果を表さなかったら、目的を果たせないわけです。 そんな使われ方をしている言葉に反応をするだけ相手の思う壺だと思います。 また言った本人は特に意味もなく習慣としてその言葉を使っているかも しれません だから少なくともどういう意味で使っているのかを確認するくらいの 心の余裕を持ってもいいかもしれません。 こうでなければいけないと思っていれば、それ以外のことが起きれば 常に改善のために反応しなければならないでしょう。 このくらいにはなって欲しいけれど別にそうならなくても構わない くらいの気持ちをもてればどんなことが起きたもそれなりに 楽しむことができると思います。 自分の許容範囲を広げれば問題は改善できるのではないかと思います。 誰かの発言を止めさせようとするよりも、自分を反応させなくするほうが 容易なはずです。 そうすれば、自分の寛容さを感じられるようになるでしょう。
お礼
ご回答参考になりました。 仰る通り、言葉自体に「パワー」があるわけではなく、 受け手がそれに「力」を付与するわけですからね。 とは言うものの、 ほとんどからだが自然に反応してしまう。 頭ではなくほとんど生理的な反応ですね。 >言った本人もある力を持っていると信じているでしょう。 でもその言葉が効果を表さなかったら、目的を果たせないわけです。 そんな使われ方をしている言葉に反応をするだけ相手の思う壺だと思います。 この部分、特に参考になりました。 ご回答ありがとうございました。
- snakesoul
- ベストアンサー率35% (36/101)
また回答させていただきます。 まずあなたは自己愛性人格障害ではないと思います。 ホンモノであればこんなところで相談をしたりしないと思います。基本的に「間違っているのは自分ではなく他者である」「そこいらの人間に自分のことがわかるわけない」というスタンスだからです。しかし、自己愛が高そうな面はちょいちょい見受けられます。例えば「M沢S夫に診てもらいにいく」とか「他者の言葉に傷つきやすい」とか「否定の言葉に強い反発を示す」とかです。・・・どちらかというと自己愛の高い境界性人格障害の方がはまりそうです。「人一倍自己否定感が強い」とか「一人でも否定する人がいると自分はダメな人間だと思う」とか境界例っぽいです。 http://homepage1.nifty.com/eggs/borderline.html ↑境界例についてのページですが、当てはまりそうですか? 境界例と自己愛はよく同居するようです。 >自分を認めない自己愛なるものについて つまり、「自分を認めない自己愛」ではなくて、「自分を認めない」ということと「自己愛」が同居しているということです。そして両者はあいいれない部分が多いため年中けんかをしています。あなたの場合は両者が同居しながらも普段は「自己愛」さんが部屋に閉じこもっている状態かもしれません。 両者は認知をゆがめることについては意気投合します。自分についても他者についても、1を100にしたり100を1にしたり、そうして現実を歪めてとらえることで自分の中でのつじつまを合わせようとします。だから、直したいと思うのであればより正確に現実をとらえていく練習が必要です。 上記とはまったく別の考え方ですが、広汎性発達障害傾向の方であれば、取捨選択や優先順位をつけるのが苦手で、小さなことにでもこだわってしまうことがあります。また自分の感情も他人の感情も感じ取ることが苦手だったりします。自己否定や他者からの否定に過敏なのはそちらの方向からも説明はつきますので参考まで。
お礼
snakesoulさん。 先に良回答を頂きありがとうございました。 所謂ボーダーラインパーソナリティーに関しては非常に微妙です。 というのも、町沢氏が作成したチェックリストの80%近くに当て嵌まり、 それを基に町沢氏の診察を受けに行ったわけですが、にべもなく否定され、 替わりに上記の診断が下されたわけです・・・ だから?あの医者は嫌いです(苦笑) 喧嘩になったこともあります・・・ >両者は認知をゆがめることについては意気投合します。自分についても他者についても、1を100にしたり100を1にしたり、そうして現実を歪めてとらえることで自分の中でのつじつまを合わせようとします。だから、直したいと思うのであればより正確に現実をとらえていく練習が必要です。 snakesoulさんは先に認知療法についての私の疑問に丁寧にお答え頂きました。あのご回答は今でも本当に感謝しています。 出来ればもう少しお考えをお聞かせください。 正直言ってもっとsnakesoulさんのご意見を参考にしたいのです。 どのようなことでも構いませんので、お暇な折り、お返事いただけると幸いです。 図々しくて申し訳ありません・・・ ご回答ありがとうございました。
- kyoutoukyo
- ベストアンサー率6% (97/1560)
当然ですがあなたのことは私は何も知りません。 なので過去の質問のことや、町沢氏とのことも何も分かりませんが、 人の言葉に反発してしまうのでどうしたらいいか ということだけで考えますと、他人の指摘に対して反発できるべき場所にいるから反発できるだけです。 ネットでの交流掲示板では顔も本名も出さずに好きなことが言える場所です。これが本名を記さなければならないとなればいかがですか? 売られた喧嘩を買いますか? 真剣に堂々巡りから抜け出したいと考えているのであれば、 実際の討論の場に参加してみるか、本名記載の掲示板などで発言するようにしてみてはいかがでしょうか。
お礼
>これが本名を記さなければならないとなればいかがですか? >売られた喧嘩を買いますか? はい。 私は区民大学やその他のシンポジウムに時々顔を出しますが、 所謂著名な講師に対して、自分の抱く疑問を問い質さなかったことはありません。昨年もある大学の講堂で行われたシンポで、聴衆の中で異論を唱えました。区民大学などでのディスカッションの場でも同様です。 相手が所謂大物であればあるほど何か一言反論したくなりますね(苦笑) 無論町沢氏にも食って掛かりました。 過去の質問に関してリンクを貼ろうと思いましたが、 複数に渉るので省略していました。 http://okwave.jp/qa3171725.html http://okwave.jp/qa3138021.html ご回答ありがとうございました。
- All_in_One
- ベストアンサー率31% (74/236)
本当に自己否定している人物が他人から棘のある言葉を投げつけられたとしたら、 それに対してトンガったりはしないと思います。 むしろそれを甘んじて受け入れるのではないだろうか。 否定されて傷つくのは人として当たり前の感情です。 自分が可愛いのも当たり前。 多かれ少なかれ人の中には自己愛と自己否定が同居してるものだと私は思っています。 M沢S夫医師の肩を持つわけでも貴方を否定するわけでもありませんが、 「自己愛性人格障害」とは言い得て妙です。 もっとも心理学者の手にかかると何でもありの感がありますがね。 人の心の在りようをカテゴライズすることにそもそも無理があるわけで。 基本的には同じDNAは存在しないのだから、1人1人違う部分があるのは当然と考えるほうが理にかなっている。 話が横道にそれてしまって自分でもどうやって結論に持っていこういささかかぼやけてきました。 つまりこういうことです。 自分を認めない自己愛、それが何だっていうんです? たとえ貴方がそれに該当すると指摘されたとしても、特にそれがレアなケースだとは思わないです。 繰り返しになりますが、人の在りようは人の数ほど何でもあり得るものですから。
お礼
>もっとも心理学者の手にかかると何でもありの感がありますがね。 >人の心の在りようをカテゴライズすることにそもそも無理があるわけで。 この辺りの発言は全く同感です。 敬愛するある人にもほぼ同様の意味のことを言われました。 またひとつ参考になる良回答を得ました。 ご回答ありがとうございます。 それから、もしよろしければ、 冒頭の3行についてもう少し細かくご説明いただければ幸いです。
見る側に立っている自分と見られる側に立っている自分の問題ではないでしょうか。どちらの自分を自分と考えているかによって結論が変わるというか見る側の自分で批判している対象が見られる側としての自分であれば自尊心というのは自分に対する羨望とか嫉妬に他ならないし、自己否定というのは軽蔑とか憎悪(あたかも自分を他人として考えているかのような)でしかないと思います。一方対象を見る側の自分にすると蛇が自分の尻尾を呑み込もうとするような無理なことになってしまいます。
お礼
>蛇が自分の尻尾を呑み込もうとするような無理なことになってしまいます。 そうなんです。 正に私の心の中では、エッシャーやマグリットの絵のように、 心理的なオプティカル・トリックが張り巡らされていて、 自分でもどう捉えていいのかが分からないのです。 ご回答ありがとうございました。
お礼
いつも親切なアドバイスありがとうございます。 >「自分の人生を生きる」という実感 よく分かります。本当にそういう実感を掴んで見たいと願います。 確かにそちらの方がきっと「先」なのだと思います。 >特に気合を入れて進まなくても、今の状況が「本当に苦しいもの」であれば自然に体が動くとは思います。逃げ回っていると本当の苦しさもなかなかわかりませんが・・・。 これもその通りだと思います。 重ねてありがとうございました。