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悪い思考を止めるには…因果応報に囚われる

些細なことで例えますと、職場で挨拶をしても返してくれない人に対して、すれ違った後に…「地獄に落ちればいいのに」「どうせ、こんな人間はろくな人生歩まない」「帰り道で事故にでも遭えばいいのに」など、とても酷いことを考えてしまいます。 もちろん顔や、言葉には出しません…いえ、顔には出ているかもしれませんが。 最近、自己啓発関連のもので、悪い思考は自分に返ってくる…という内容のものを知ってしまい、とても苦しくなります。 かといって、良いほうへ良いほうへ考えようとしても苦しいです。 「悪い思考=人を許せないこと」はそんなに悪いことですか?

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  • noname002
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回答No.16

>省略したと書かれていることが気になってしまうのですが… ということですので三たび参加させていただきます。 やはり「気になる」タイプでいらっしゃるんだなぁと思いました。 省略したといいましても、ほぼ繰り返しになるところを削ったというのが大部分です、そんなに深い意味はないんですよ。 さて、いろんな意見が出ましたけれど、なかなか、そうか、と言ってスパッと切替えることもかなわないだろうとは存じます。 先の投稿でも触れましたが挨拶行為というのは本来、敵視する必要はない、お互い警戒心を解いて好意的に接しようということの表明行動なのですから、返礼してもらえないことが敵意や侮蔑を感じさせ不安を誘われて不快になるのは自然なことだと申し上げているつもりです。 そのかみは、戦場においてすら互いに名乗りを上げ挨拶をしてから一戦交えたというほどですから、いかに昔から何事かを行うにあたって、フェアであることの表明が大切にされていたか窺い知れます。 挨拶を返さない或いは、その他のマナー一般についても常識に欠けた言動をとる人というのは二手に分かれるようです。一つは、すでに申し上げたように誰に対しても「隙だらけの無防備な人」「自分を守るという術が抜け落ちている人」です。 昔から何が恐ろしいといって他人のねたみや恨みを買うほど不吉なことはないと言います。インドあたりで、いろんなところに鏡のような反射する装飾品を身につける習慣があるそうですが、これは他人のねたみ恨みの視線をはね返すためのものなのだそうです。エジプトあたりで眼の形の文様を用いるのも同じような目的からなのだそうです。古来いかにヒトが他人の悪意を買うことを恐れてきたか分かりますね。 ところが上記に挙げたような人は現に少なくとも貴方という人の恨みを買ってしまっているというのに意にも介していないと言う。私に言わせれば、なんと無防備な人かなぁと思うわけです。恐らく、こういう人は他の人からも同様な恨みを買いがちでしょう。 もう一方は、選別して人によって、わざとそうしている場合です。 この場合は当事者にとって最も不快をもたらします。宣戦布告されたようなものですから。相手が自分よりも弱い立場であり、蔑ろにしたところで抵抗する力も、さしてなかろうとタカをくくっている、取るに足らない者と見下していることを、あからさまに誇示しているからです。 この場合には私でしたら自分からも無視すること、文句を言われたら相手に問い返すことを辞さないと、先の投稿で申し上げました。相手と自分の間に優位劣位などない対等な関係であるということをアピールするためです。これは決して自分のためだけではありません。 ところで貴方の場合ですが、お話を伺っている限りでは、このままでは良くないということを強く感じていらっしゃる御ようすながら一本調子のままの行動しかとれないことが、むしろ相手の言動の非常識以上に御自分の御気持ちを傷つける大きな原因になってしまわれている。 これは大変に損なことだと思います。 私の経験からも言えますが、そもそもの原因が、いかに他人にあろうとも、どんなに自分の言い分に理があろうとも、相手の非を、しかも御自分で「些細なこと」とわきまえていらっしゃるようなことで激しく怒り、不満を言い募るような状態ですと、かえって周囲は、もとの非常識な人よりも貴方のほうを大人気ないと言って、たしなめるものなのです。人は言い易いほうに言うものです。 そうなれば貴方は、もっと腹が立ちませんか?周囲の人全員、本来なら敵にまわさなくてもいい人まで敵にまわすことになりかねません。そうなれば、いまよりもっと生き辛くなります。ですから、そんなようなことになる前に、御自分のほうを大事に守ってくださいと申し上げるのです。 イイ年をして、ごく普通のマナーも守れないような程度の低い人のために御自分の精神状態を、どす黒く濁らせるほどの価値がありますか?体調まで崩すもとになってしまいますよ。そうなると、もっと悪循環に陥ってしまいます。 ただ、私自身がそうであるように、これは捨て置くわけにいかないと思うようなことであればトコトン闘う、尚且つ、それで相手に何らかの実力行使を及ぼすことができるという自信と覚悟があるなら別です。それならそれで、やり抜くのもまたアッパレであろうと思います。それができますか?ヘタをすると、いまよりもっと自分の非力を思い知らされることになるかもしれません。それくらいなら先の投稿でも申し上げましたように、許しがたいことを許すことで、かえって相手にとって恐ろしいことになるのをクールに眺めていらっしゃればよろしいのです。これが一番無難です。どなたか仰いましたが殺人犯でも反省しない者はしないのですから。そんな人の更生に御自分の人生をかけますか? 私は、貴方が何もかも投げ打ってでも敢えて真っ向から闘うというのなら、それはそれで、と思います。でも、そこまでして、と思われるなら、無視されようが自分は挨拶をするのだ、という自分自身の選択のもとに行動できるようになられてください、と申し上げたのです。 無礼な相手を恐れて無理にする挨拶など屈辱的です。 屈辱に甘んじざるを得ない自分をどうすることもできないのは苦しくて当たり前です。 同じ挨拶をするにも、相手の顔色を伺いながらするのと、相手がどうあろうと自らの選択のもとにするのだという挨拶と、どちらを選びますか? 鳥の赤ちゃんでも、生まれてきて一番最初にすることは、そばにいる庇護者への挨拶だそうです。これは本能でしょう。ヒトの挨拶だって本来は自分を守るという本能から発しているはずですが、それでも、守るという術すら知らないままのヒトもいるし、守るという範囲を逸脱して好戦的にまでなるヒトもいる。それらは決して自ら選択しているのではありません。彼らもまた奴隷なのです。 貴方は、自らに選択権を認めませんか?

giraffe-elephant
質問者

お礼

noname002様 度々、アドバイス頂き、本当にありがとうございました。 言葉の一つ一つ、すんなり入ってきたアドバイスに感謝致します。 これからも、読ませて頂きます。

giraffe-elephant
質問者

補足

度々、本当にありがとうございます。 今、仕事帰りでして、じっくり読ませて下さい。 後ほど、お礼を書かせて頂きます。

その他の回答 (18)

noname#38456
noname#38456
回答No.8

もう一度、書き込みます、おゆるしを。 >>・・でも、この人にとって、これは良い修行になるだろう」 ここは、素晴らしいと思いますよ。 ただ、ここがねぇ、いけない。 >>・・ほら見ろ、だからそういうことになるんだ。 似たケース、けっこう、あるので、気持ちはわかります。 でも、この時の心の働き、自分自身の"けがれ(=例、嫌悪など)"が、あり、それに感応、つまり同調するから、そう思うのですよ。 でも、だからと言って、そこまで、自分を制御するのは無理だと思う。 この場合、逆に『早く、仕事を覚えるといいのに。』と心で、思ってみては??、と。 >>私が人を許しても、何故、相手は私を許してくれないのか・・ 苦しいなら、懺悔することです。 なにも、相手に直接、謝るのではなくて、まず自分自身の行為について、反省し、悔い改め、その悪い行為を遮断するようにすること。 それでも、苦しいなら、やはり相手に懺悔すること。 これも、やはり直接、誤るのではなく、まずは、自分自身の心の中で、相手に悪いことをした・・と懺悔すれば、おのずと、その苦しみは小さくなっていくものと。 やり方は、例えば、相手の方を心の中でイメージします。 で、いままで行ったこと、何でも良いので、迷惑かけた等、又は、気にかかることを心の中で、誤ればよいのです。 そのうち、おのずと心が、静まっていき、いつか、きっと、相手にそれが、届くと思うけど。 あと、ここ、勘違いかもしれないが(__) 関係が、ギクシャクしてたら、相手を賞賛すること。ただし、賞賛に与えすることが、あれば。 又は、相手を哀れむ(あらけむ)言葉を使い、話すこと。 ただ、これって、直接、相手にいうのではなくて、自分の周りの人にでも可能。簡単にいうと、二枚舌、仲たがいする言葉の、逆(賞賛)バージンという感じ。 結局は、周り回って、自分自身に帰ってきます。悪口、嫌悪はもちろん、賞賛や哀れみもね。これを忘れずに。 あと、今回の回答、大きな勘違いだったら、本当にすいません。 以上

giraffe-elephant
質問者

お礼

度々、ありがとうございます。 正直、苦しいのにも拘らず、私自身、この気持ちを改めるべきなのか解らなくなってきました。 どうして、私が懺悔しなくてはならないのですか?私に懺悔しなくてはならないような気持ちにさせている相手は、一体何様なのでしょうか? 折角、回答、アドバイスを頂いているのに、反発しているようですみません。 許せないことを許されない…私は、神でも何でもありません。ただの人間です。気持ちの制御は、とても難しいです。

noname#38456
noname#38456
回答No.7

簡単に回答してみます。 すべての現象は、心、口(言葉)、身体(行動)の三つの要素で現象化、つまり、実際におこるものと言われてます。ですから、心で、「地獄に落ちろ」と念じた場合、その心の働きが、次は、言葉、行為に及ぶものと。 で、今回の場合、この「地獄におちろ」は、どういう心で、思いましたか??、例えば、嫌悪、怒りを背景なら、当然、地獄に落ちる原因にはなります。 さて、『因果応報に囚われる』は、つまり、すべての行為は自分に回り、回って帰ってくるという意味。 つまり、カルマの法則、原因が、あるから、結果がある。 これの例えば、本当に、その思念で、相手のひとが、地獄に落ちたなら、その原因は、あなたの嫌悪の心にあることになりますよね。なら、そのカルマによって、いずれ、あなたも地獄に落ちます。 >良いほうへ良いほうへ考えようとしても苦しいです。 なら、まだ心の行為だけですので、心において懺悔してみては?? 例えば、心の中で、「嫌悪を持ち、『地獄におちろ』と念じてしまいました。ごめんなさい」とか。 これの対象は、相手の方でも、良いのですが、自分自身の行為の反省という意味でも、かまいません。 >「悪い思考=人を許せないこと」はそんなに悪いことですか? はい、ダメです。心において、嫌悪を持って念じるなら。 逆に、心において、「成長して欲しい」と念じて、「悪い好意を遮断してほしいな」と思うのはかまいませんが。 >職場で挨拶をしても返してくれない人に対して・・ これは、哀れみ(あられみ)の心で、接しては?? 例えば、「この人は、心の成長が、足りなくて、挨拶が、できない。」とか、又は、自分の心において、「私が、コミニュケーション、接し方にまだ、足りないところが、あるため、相手は挨拶が、できない」と か。 だから、物事を肯定的に考えましょう。 『すべては心の働き』、嫌悪を持って接したら、必ず相手も自分のことを嫌悪を持って、接するようになります。 これが、カルマですからね。 以上、趣旨と違ったら、ごめんね。

giraffe-elephant
質問者

お礼

ありがとうございます。 その酷いことを考えた相手が、仕事でミスをして怒られていたり、他の人間から影口を叩かれていたりする場面に出くわすと…「ほら見ろ、だからそういうことになるんだ。私の思考だけが、この人をこのような状況にさせたわけじゃない…でも、この人にとって、これは良い修行になるだろう」こう、考えます。 しかし、この思いが自分に巡って、自分が今、このように苦しんでいるんだ…と考えてしまい、苦しいです。 だからといって、私が人を許しても、何故、相手は私を許してくれないのか…物事を肯定的に考えられません。

  • daioo
  • ベストアンサー率36% (4/11)
回答No.6

人を許せないという誰にでもあるものではありませんか? ただ、あまり厳しくなりすぎると自分が辛くなるのでは? 挨拶を返さない人も、ただ人付き合いが苦手、口下手だけかも知れません。意外と心の中では声をかけられた事を快く思っているかも知れません。 情けは人の為ならず・・・ってよく聞きますが、 これって、情けは人の為にならないと言う意味ではなく、情けをかけるのは、自分のためですよ、と言う意味ですよね。 自分が気持ちよく生きるためには、人に情けをかける(=人のことをことさらに悪く思わない)方が楽ではありませんか? こんなことで悩んで、自分の心を傷つけたりするのは、もったいないと思います。かといって、無理に良いほうへ考えようと努力するのも大変です。 少々のことには目をつむって、自分の心を豊かにしてください。

giraffe-elephant
質問者

お礼

アドバイス、ありがとうございます。 挨拶を返さない人に対しても…「聞こえなかったんだ」「考え事していたんだ」と、考えるようにしても、その後、「何で私がそこまで、あの人間のことを考えなくてはならないんだ、悲惨な目に遭って、人の痛みを知れ!」と、どこまでもグルグル思考が巡っていきます。 どうしても、目がつむれません。

  • asakiei
  • ベストアンサー率53% (17/32)
回答No.5

「悪い」思考だと自分が認識している時点で脳は不快感を味わっているのでは?なら自分にいいはずがないですよね。 でも無理矢理良い方向に、というのも不自然で苦しいでしょう。 仕事関係以外で楽しい趣味を充実させて毎日幸せいっぱいな気分でいれば、些細なことなんて気にも止まらなくなると思いますよ。

giraffe-elephant
質問者

お礼

ありがとうございます。 家に帰っても、うまく、仕事とプライベートの切り替えができず…それが原因だとも思います。

  • guratann
  • ベストアンサー率30% (8/26)
回答No.4

● このような悩み事のときって、ご自身でお気付きになっていないだけで、ちゃんと御自分の質問投稿文中に、あなた自身の結論なりお答えなり方向性が書いてあるものです(・・といってもケースバイケースですけど)。 貴方がここの質問投稿に書かれた文は、とても端的明瞭に書かれていて、さほど混然としていませんから、恐らく、ホンのちょっとしたコツを知る事で自己消化できるようになると思います。以下、御参考までに ちょっとしたコツ=読み方のコツをお伝えしますね。 ● 御自身の考え・悩み事を あれこれ書いた後に「これは、自分じゃない別の人間が書いた文章だ」という視点で、客観的に感情を交えずに読む事を訓練すると、自分の気持ちというのは整理しやすくなります。 > 些細なことで例えますと、職場で挨拶をしても返してくれない人に対して、すれ違った後に…「地獄に落ちればいいのに」「どうせ、こんな人間はろくな人生歩まない」「帰り道で事故にでも遭えばいいのに」など、とても酷いことを考えてしまいます。 ● これは「すれ違って挨拶をするのが当然なのに、返してくれない人に対して、過剰な感情を持ってしまいます」と読みます。 > もちろん顔や、言葉には出しません…いえ、顔には出ているかもしれませんが。 ● これは「顔や言葉には出すべきでない、出さない方がいい、と思う自分がいますが、顔に出てしまっているようです、自分の感情をコントロールしずらいです」と、読みます。 >最近、自己啓発関連のもので、悪い思考は自分に返ってくる…という内容のものを知ってしまい、とても苦しくなります。かといって、良いほうへ良いほうへ考えようとしても苦しいです。 ● これは「自己消化できないことを悩んでいます」です。 「悪い思考=人を許せないこと」はそんなに悪いことですか? ● 「自己消化できずに過剰反応してしまう私に同調・共感してもらえないですか? そんなに僕は悪くないですよね??」です。 ● あくまで私見ですが、人間、誰でも感情の起伏はあるので、若干、良い方、悪い方のどちらかよりな思考になることは、心理状態によって、別に珍しいことではありません。 でも、それも限度がありますよ、と、いうことです。 質問投稿に書かれている文だけからの判断になりますが、貴方の場合には、ちょっと過剰反応しすぎなきらいはあるので、自己消化する訓練はしたほうがいいかな・・と、いうのが私の見解です。 自己啓発の本を読んで落ち込んでしまう場合・・・確かに、いろいろな類の本があるので、どんな本かにもよりますが、でも、貴方の場合は、読み方・捉え方にそもそも根本的な原因があるように思います。 良く言えば素直過ぎるんですが、悪く言えば依存心が高すぎるから、それだけ影響されてしまうことに気がつく事から始めたほうがいいかな、と、思います。 「悪い思考は自分に返ってくる」という視点で読むのでなく、どうしてそのような悪い(と、自分が思う)思考を自分が持つに至るか? 何故、その思考を悪い、と、自分は認識するのか? という過程を、丁寧に順にたどるといいですよ。 一般的には・・・ですが、挨拶を返してくれないときに、誰でも多少、不快な感情を持つことはありますが、質問投稿に書かれているほどの過剰反応する事は少ないですね。これは、貴方が仰るような「人を許す、許さない」というのが問題なのでなく、貴方自身の捉え方が、幾分、過剰反応してしまう傾向にあることによるものです。本を読んで落ち込むのも同じです。

giraffe-elephant
質問者

お礼

ありがとうございます。とても解りやすいです。 過剰反応しすぎ、自己消化する訓練…その通りです。 例えの流れですが…逆に、挨拶しても返さずに、平気でいられる人の神経が羨ましいです。 どうして、人がこんなにも気にしているのに、気にせずにいられるのか…こんなことで悩んでいる自分が悔しいのです。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.3

リベットの禁止権説は、意識が機能する仕組みを鮮やかに記述する一方で、日常生活における人間の実像を、根本的に誤解させる説明とも言える。「意識があって初めて意識ができる」という、あの基本原則を思い出してほしい。このコンテクストで考えれば、意識的な禁止を実行できるのは意識だけ、ということになる。ありとあらゆる無意識の欲望に無意識の禁止を課すことはできるが、そうすることは意識には全く関係がない。 意識的な禁止とは、私達が意識できる禁止だ。では、行為を実行する0.2秒前にその決意を禁じるようなことを、実際に私達はどれほど頻繁に行なっているのだろうか? 確かに状況によっては、自分の衝動を頻繁に意識的に禁じるようなこともある。しかし、大抵そんなことはしない。頻繁には起きない状況でしか、禁止が頻繁に起きることはないものだ。例えばこんな場面だ。恥ずかしさと緊張のあまり、足がもつれ、言葉がつかえ、いても立ってもいられず、唐突な身振り手振りを使い、やりかけたことを不自然な形で中断し、奇妙奇天烈な言葉を口走って周囲の人々を愚弄したり当惑させたりする。でなければ、上手くできずにぎこちなく、自分の出来る事と出来ない事に、切ないくらい自意識過剰になり、やりかけては途中でやめ、いかにもきまり悪げな初心者といった面持ちで立ちつくす。 或いは、自分にとって非常に大切なことがあって、それが大切であるが故に、まさしくそのために、全く馬鹿げたことをしでかして、上手くいくものも台無しにしてしまう場合もある。映画『ボギー!俺も男だ』のウディ?アレンのように、女性に触れようと興奮する間中、自分で自分の行為を中断するようなおかしなまねをする。つまりそれは、自分自身について意識したり、行動への衝動を繰り返し抑えていることに気付いたりする、なんとも嫌な場面と言える。 何かしたいという衝動を禁じるのが不快なのは、天罰を怖れるときばかりではない。そのプロセス自体が不快なものだ。ぎこちなく、無様で、不自然なのだ。 やりかけて途中でやめることを繰り返すのは、上手くやれる自信がなかったり、他人の目が気になったりするからかもしれない。私達は、人に笑われるのが恐い。自分を意識しているとき、私達はとにかく自分に批判的になり、自分を外側から他人の目を通して眺めがちだ。 意識的禁止が必要な唯一の理由は、意識的な意図と無意識の衝動の求めるものが違う点にある。無意識な衝動を禁じる行為には、意識と無意識の好みに違いがあるという事実が現れている。この意識の禁止権を発動させずにすまそうと、人はアルコールや精神安定剤、その他もろもろの薬物を際限なく自らに注ぎ込む。私達は、どうにかして自分の衝動を禁じるような場面を避けたいと願う。 とはいえ、意識と無意識との対決という視点は、リベットの見解とうまく馴染む。日常生活における禁止権についての手紙の中で、リベットはこう記している。「意識的禁止が不快な場面でより多く現れるというのは、なかなかいい視点だと思います。ただ、私としてはあまり狭く限定したくありません。他にも、愉快とは言わないまでも少なくとも状況で、意識的禁止はしばしば重要な役割を果たしています。例えば、人に何か言いたくなるのを思いとどまる場合や、子供が今にもやりかねないことを止めなくなる気持ちを抑える場合などです。しかし、意識的な意図と無意識的に始動する衝動との対立などの結果として禁止権を捉える貴殿のお考えは、決して瑣末なものではなく、十分主張する価値のあるものです。 20世紀初頭、デンマーク哲学、心理学者ハラルド?ヘフディングは、禁止権説についても、禁止に不快感が伴うという考えについてもむろん知る由はなかったが、この点についてきわめて明確にこう述べている。「無意識の行動傾向が意識的な思考や感情と同方向を向いているかぎり、人はその傾向にはなかなか気付かない。……殆どの場合その力は、意識に上る動機の力と一体化している。そして、行為全体の名誉や不名誉は、意識的動機のほうに帰せられる」 言い換えれば、私達が無意識に気付くのは、それが意識に反する場合のみということのなる。というのも意識は、自分と自分の持ち主を同一視したがり、無意識の衝動に屈するのを良しとしないからだ。 〈禁圧〉された経験が前意識的性質を持つことを、フロイト派が特に強調してきた理由は、このメカニズムで説明できるのかもしれない。無意識は意識されないという、まさしくそのために、意識は無意識の存在を認めたがらない。そして、人間には意識以外のものもあることを意識が認めざるをえなくなるのは、意識と無意識との間に葛藤がある場合に限られる。そのため、逆説的ながら、かえって〈禁圧〉された衝動ばかりが目につくことになる。 前意識……意識の現前野から外されている心の領域。とっさには意識されないが、無意識へと抑圧されたものではないので、比較的容易に意識化される。 禁止プロセスがたいてい不快感を伴うとしても、そうした意識的禁止を行いうることには変わりがない。使わなくても禁止権は存在する。使ってもいいが楽しくはないというだけだ。それはまた、私達が一番安らかでいられるのは、意識が自由意識を行使しないとき、ということでもある。人は、意識を介さず無意識の衝動に従うときが最も幸福だ。ただ行動するだけのときが一番満ち足りている。 しかし、こう考えると、気分のいいときに主導権を握っているのは意識ではない、という事実を突きつけられることになる。すると疑問が浮かぶ。人間は不快なときにしか自由意思を持たないのだろうか?気分のいいときにも自由意思はあるのだろうか?そうだとしたら、それは誰の自由意思なのか?

giraffe-elephant
質問者

お礼

ありがとうございます。 正直、私にとって、とても難しい内容です… 理解できるよう、時間があるとき、ゆっくり読ませて頂きます。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.2

意識の禁止権説と自由意思 だが、自由意思の問題はどうなるのだろうか?画鋲の上に座ったとき、つべこべ言う間もなく飛び上がることは、この際、脇に置いておこう。リベットの実験結果は、私達に自由意思はない、と言っているのだろうか。意識以外に、自由意思を行使できるものはありえないのだから。手を伸ばして物を取ることを決めたと思ったときには、すでに脳が活動しているのだとしたら、人間に自由意思があるとは言い難い。 リベットの〈準備電位〉の実験を振り返ってみると、実はこれまで話題にしなかったきわめて重要な事実が残っている。確かに意識が生じるのは脳が動いた後かもしれないが、それは手が前でもある。 決意を意識してからそれが実行に移されるまでには、0.2秒の余裕がある。だとしたら、意識はどうにかして実行を中止できるのではないだろうか? このこと、つまり意識は禁止権を持つ、というのが、リベット自身による自由意思の救済案だ。意識には、行為の実行までにその行為を禁止する時間が十分にある。事実リベットは、そうした禁止メカニズムが働くことを示す実験的裏付けを得ている。被験者が、実行しようと決めた行為を途中でやめたと報告したとき、やはり〈準備電位〉は発生していたが、実際に実行したときと比べると、終わりに近づくにつれて電位変化の様子が違っていた。被験者は自分の行為を思いとどまることができた。つまり、自由意思を持っていた。意識は行為を起こすことはできないが、実行をしてはいけないという決断はできるのだ。リベットは自由意思と意識機能に関する禁止権説を構築した。「個人の責任と自由意思に関連するプロセスは、自発的行為を起こすのではなく、意思決定の結果を選択ないし制御する目的で作動する」 この見解はたいへん興味深い。歴史的に見ると取分けそうだ。自由意思は選択を通じて働くのであって、立案を担っているのではない。自由意思は、環境が自然淘汰を通して生物進化を方向付けるのに似ており、日常生活における意識的選択の仕方を想像したときに、大抵の人が自然に思い浮かべるように、意識が計画や青写真を作るというわけではない。意識は、脳内の僕に指令を下す高位のユニットではない。無意識が提供する多くの選択肢の中から選りすぐること、それが意識であり、その結果、生じるのが意識だ。意識は提案を退け、無意識が勧める決定を拒むことによって機能する。意識とは、処分された情報、却下された選択肢、「折角だけれど、結構」なのだ。 意識を禁止権限と捉える考え方は実に鮮やかで含蓄に富んでいる。思想史をひもとけば、ダーウィニズムと自然淘汰以外にもこの見解の類縁を見出すことができる。 禁止の原理は、いつの世にも人間の道徳に見られる。「倫理的拘束は、十戒の殆どがそうであるように、ある種の行為を禁じるものである場合が多い」とリベットは1985年に記し、更にこうつけ加えた。「行動しようという最終的意図が無意識のうちに生じるのならば、体の動きという形での行為の成就は意識的に制御できても、そうした意図が生じること自体を意識的に妨げることはできない」 リベットは、体の動きとしての行為と、心的現象としての行為の衝動とを区別し、行為は制御できても衝動は抑えられない、と結論付けている。この区別はきわめて深遠な意味を含んでいる。してもいいことを説く道徳観と、したいと思ってもいいことを説くものとでは、大きな違いがあるからだ。 リベットは語る「他に、フロイトの言う衝動の〈禁圧〉が作用する仕組みが考えられるでしょうか?行為の衝動と行為そのものの間に違いがないのなら、〈禁圧〉など機能しようがありません。〈禁圧〉のための時間が、どうしても必要なのです」 〈禁圧〉……不快な、或いは不都合な観念や情動を、意識から締め出そうとする精神作用。同じような作用をもつ抑圧が無意識的プロセスであるのに対し、禁圧は意識的プロセスである。また、禁圧された内容も、無意識の領域に押し込められるのではなく前意識にとどまるため、思い出すことが可能。 ユダヤ教は、他人に対して酷薄な思いや望みを抱くことを許す、魂の免罪符となる危険を孕んでいる。自分がされたくないことを人にしないかぎりにおいては、何を考え、何を感じようと構わない。ユダヤ教の思想に心の倫理規定がないために、シェイクスピアが『ヴェニスの商人』で描いたような内面の無慈悲や邪悪さが生まれることになる。それでも、相手に影響を与えるのは行為だけなのだから、内面的な問題は全て許容される、とユダヤ教は語る。確かに数十年前までならば、科学的に見てそう信じる根拠はあったかもしれない。しかし、これは断じて間違っている。 問題は、閾下知覚やプライミングといったものが存在するのなら、実は私達は自覚している以上に他者の考えや気分がわかっている、という点にある。だから、お互いについて何を考え何を感じるかは、本当は重要な問題なのだ。例え「あんな奴は叩かれて当然だ」と心の奥底で思っているだけなら誰にも害はないというのが、意識の告げる常識だとしてもだ。 他者に影響を与えるのが言葉と行動だけなら、何を考え何を感じようと問題にはならない。だが、この見方は人間の実像を正しく捉えていない。実際、ユダヤ人であるリベットの発見は、ブーメランのようにユダヤ教の倫理観に跳ね返ってくる。意識は遅れるというまさしくその理由から、どれだけの思考が現実の行動と化すかはなかなか制御できないのだ。ユダヤ教の難点は、意識が本当は抑制できない内面の酷薄さを容認していることだろう。私達が自覚する以上のものが、ボディランゲージなどを通じて表に現れることを許すからだ。 近年、意識の意味合いについて新たな認識が生まれつつあることを受け、基本的な道徳の問題を抜本的に見直す議論をする必要性がある。 とはいえ、禁止権説が興味深いのは、高尚でスケールの大きい道徳的議論との関連のみからではない。この説は、いたって日常的な問題を考えるうえでも、実に面白い視点を提供してくれる。

回答No.1

憎まれっ子世にはばかるって言いますし…苦しむ必要ないのでは。 良い思考に持っていこうとするのが苦しいなら止めてしまった方が良いと思います。 その時は堂々と性悪説を説いて生きてほしいですね。

giraffe-elephant
質問者

お礼

ありがとうございます。 悪い思考、良い思考、どちらに持っていっても辛いのです。 私は、やはり性悪でしょうか…

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