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太閤検地の一地一作人制度について

一地一作人制度についてです。一筆の土地の耕作者は一人にし、今までの中間搾取構造を排したようですが、これは構造上、一番下にいる作人たちに耕作権を確定し、こうした作人たちが一筆の土地の年貢を納めるということでしょうか。ならば、その上の中間層である地侍は、どこにいったのでしょうか?直営田を耕すことに専念して、作人と同じようになるということでいいでしょうか?

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  • tanuki4u
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回答No.1

地侍層 一部は武士に、一部は草分けに 草分け:草深い土地を最初に開発した農民 実際は、農村の有力者、豪農ということになります。 兄弟で、兄は武士 弟は豪農という例も多々あります。 武功夜話を発見した、前野家などが典型です

その他の回答 (1)

  • tanuki4u
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回答No.2

補足 理念的には一地一作人制度ですが、実態的には自作農がメインになったのは、西日本で17世紀中頃、東日本で17世紀の後半といわれています。 しかし早くも西日本では換金作物が浸透しだし、農村内の分離が始まっています。 与謝蕪村 1716~1783 http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/karuta/nanohanaya.htm 菜の花の詩が多くありますが、これは、蕪村の出身である摂津国では、肥料として販売する油粕のために、菜の花が大量に生産されていたという事を如実に示します。 これらで儲けた土豪というか大量の農民層が、大坂の文楽や俳句などの文化が根付いた背景にあります。

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