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兼好法師が顔回を不幸だと決め付けている理由がわかりません。
兼好法師が「顔回もまた不幸なりき。」(徒然草第二百十一段)と決め付けているのですが、何故顔回のことを兼好法師は不幸だと考えているのでしょうか。 顔回は孔門十哲の中で最も優れているとされている人物であり、世俗の栄誉を求めないで質素な暮らしをし、学問に重きを置いていますよね。 そういうところは寧ろ、兼好法師の価値観の合致するのではないかと考えるのですが・・・。 若くして病死しているところが不幸なのでしょうか。 「徳ありとて、頼むべからず。」という部分がいまいち腑に落ちません。 御回答よろしくお願いします。
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「よろずのことは頼むべからず」の章ですね。「頼むべからざる」さまざまな例が列挙され、その理由が示されています。 「徳ありとて、頼むべからず。顔回もまた不幸なりき。」 重点は「徳ありとて、頼むべからず。」であり、「顔回もまた不幸なりき。」はその理由に過ぎません。徳があるからといって、それに期待しすぎるのはよくないこと。徳があっても早死にしてしまった顔回のような例があるからね、というわけです。孔子は顔回に期待をかけていたため、彼が亡くなったときの失望はとりわけ大きかったのです。 「ああ天、我を滅ぼせり,我を滅ぼせり」(論語・先進編10)
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