私は以下のように理解しています。
空海が日本に真言密教をもたらしました。
(密教と顕教の違いはわかるでしょうか。)
真言は、それを正しい時に正しく発音すれば、それが力の言葉となる。
いわゆる呪術。(魔法使いが唱えると、いろんなことが無かったものが現れたり、人を空に浮かせたりしますが、まあ あんな世界)
真言はサンスクリット語のマントラに相当する。
このマントラは弟子から弟子に口伝で伝えられていく。
正しい発音をしないと言葉の力が発動しないし、どういう時にどういう言葉を発音しないといけないかも、教わらないと、効力を発しないとしたからじゃないかと。
で、般若心経、これは日本に伝わっていく過程で、漢語にその音が転訛されていき、またその音は日本人が現代発音している音に転訛されていった。
従って、元の発音と日本人が発音して読む般若心経は発音が違うので、言葉の力は発動しない。
これは困ったことです。
しかし、私、日本でサンスクリット語の第一人者とも言われ、日本のお坊さんにサンスクリット語を教えている人を知っています。
どれだけの実力の持ち主かは素人の私ではわかりませんが。
これがまた生臭坊主で、偉そうで、どう見ても人格的にあまりよろしくないとしか私には見えません。
とても悟りを開いたなど思えない人物。(ここだけの話ですよ ヒソヒソ)
ただ、彼はそれなりに悟りを開いてはいるが、俗世でも生活をしているので、二重の世界を行き来しているのかもしれない。
大きな仏事があるときは、彼がお出ましになって読経するそうです。
その現場は見たことがありませんが、彼が読経すると、その周辺に何か異変が起こるのでしょうか???
それとも聞いた人は意味がわからないが、なんか安らぎを得るのでしょうか?
少なくとも権威ある方がマントラを自分の代わりに唱えてくれるので、それでも「ありがたや」と厳かな気分になるのかもしれない。
が、どんな呪文を唱えているのかは知るよしもなし。
間違えてしまっても、誰も気付けないという・・・・。
言葉の力が発動しているのか、していないのか、変化が無いと気付けない。
逆に変化が大いにあれば、「魔法使いのおじさん」として、テレビにひっぱりだこになっていたでしょうし。
とまあ、こんなわけで、日本のお坊さんの中には、彼からサンスクリット語を習いながら、読経している人もいるでしょうが、漢語で読んでいる人とどう違いがあるのでしょうね。
ひとまず、私はなまぐさ坊主の面を知っているので、第一人者と言われる人が、テレビで読経をしたとしても「ああ ありがたや ありがたや」など思わないと思います。
でもそれを知らない人は「ああ 偉いお方が唱えてくださっている。ありがたや ありがたや」で感謝感激になり、おごそかな気分になれるのかもしれない。
実際 言葉の力は発動しなくても、権威という幻により、厳かな気分になれてしまうのが、人間ではないかと。
まあ 占いみたいなもので、1回千円だと、そうでもないが、1回40万する占いもありまして、40万払ったほうが、なんかすごそうに思えますよね。
1万献金するより1千万献金したほうが、救われたと思う人もいますよね。
僧侶が仏像に向かって唱える目的は、言葉の力を発動のためだと思うのですが、、、、
信者の方って、そう思って自分の代わりやってもらっていると思って依頼するんじゃないんでしょうか?
お礼
>古代インドでは、神や仏の教えを文字にすることは許されなかったので、その教えを初めは簡単な詩にして覚えやすいようにして、それを口伝えにしていたのです。その習慣が伝わったものではないか 卓見です。目からうろこが落ちました。すると読経のルーツは「勉強」なのですね。ありがとうございました。