- ベストアンサー
僧侶が仏前で読経することの意義
お寺の僧侶は、毎日、仏像に向って読経すると聞いておりますが、そもそも仏教の僧侶が仏像に向って読経することの意義は何でしょうか。教えて下さい。
- みんなの回答 (14)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
古代インドでは、神や仏の教えを文字にすることは許されなかったので、その教えを初めは簡単な詩にして覚えやすいようにして、それを口伝えにしていたのです。その習慣が伝わったものではないかと私は思います。毎日、何度も唱えないと忘れてしまうでしょう。 今でも、密教系の宗教では重要な教えはすべて口伝です。ヨーガなども口伝が多いです。 今の僧侶の人が読経するのは、その宗教の作法によるものでしょうが、それ以上のことはわかりません。
その他の回答 (13)
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
私は以下のように理解しています。 空海が日本に真言密教をもたらしました。 (密教と顕教の違いはわかるでしょうか。) 真言は、それを正しい時に正しく発音すれば、それが力の言葉となる。 いわゆる呪術。(魔法使いが唱えると、いろんなことが無かったものが現れたり、人を空に浮かせたりしますが、まあ あんな世界) 真言はサンスクリット語のマントラに相当する。 このマントラは弟子から弟子に口伝で伝えられていく。 正しい発音をしないと言葉の力が発動しないし、どういう時にどういう言葉を発音しないといけないかも、教わらないと、効力を発しないとしたからじゃないかと。 で、般若心経、これは日本に伝わっていく過程で、漢語にその音が転訛されていき、またその音は日本人が現代発音している音に転訛されていった。 従って、元の発音と日本人が発音して読む般若心経は発音が違うので、言葉の力は発動しない。 これは困ったことです。 しかし、私、日本でサンスクリット語の第一人者とも言われ、日本のお坊さんにサンスクリット語を教えている人を知っています。 どれだけの実力の持ち主かは素人の私ではわかりませんが。 これがまた生臭坊主で、偉そうで、どう見ても人格的にあまりよろしくないとしか私には見えません。 とても悟りを開いたなど思えない人物。(ここだけの話ですよ ヒソヒソ) ただ、彼はそれなりに悟りを開いてはいるが、俗世でも生活をしているので、二重の世界を行き来しているのかもしれない。 大きな仏事があるときは、彼がお出ましになって読経するそうです。 その現場は見たことがありませんが、彼が読経すると、その周辺に何か異変が起こるのでしょうか??? それとも聞いた人は意味がわからないが、なんか安らぎを得るのでしょうか? 少なくとも権威ある方がマントラを自分の代わりに唱えてくれるので、それでも「ありがたや」と厳かな気分になるのかもしれない。 が、どんな呪文を唱えているのかは知るよしもなし。 間違えてしまっても、誰も気付けないという・・・・。 言葉の力が発動しているのか、していないのか、変化が無いと気付けない。 逆に変化が大いにあれば、「魔法使いのおじさん」として、テレビにひっぱりだこになっていたでしょうし。 とまあ、こんなわけで、日本のお坊さんの中には、彼からサンスクリット語を習いながら、読経している人もいるでしょうが、漢語で読んでいる人とどう違いがあるのでしょうね。 ひとまず、私はなまぐさ坊主の面を知っているので、第一人者と言われる人が、テレビで読経をしたとしても「ああ ありがたや ありがたや」など思わないと思います。 でもそれを知らない人は「ああ 偉いお方が唱えてくださっている。ありがたや ありがたや」で感謝感激になり、おごそかな気分になれるのかもしれない。 実際 言葉の力は発動しなくても、権威という幻により、厳かな気分になれてしまうのが、人間ではないかと。 まあ 占いみたいなもので、1回千円だと、そうでもないが、1回40万する占いもありまして、40万払ったほうが、なんかすごそうに思えますよね。 1万献金するより1千万献金したほうが、救われたと思う人もいますよね。 僧侶が仏像に向かって唱える目的は、言葉の力を発動のためだと思うのですが、、、、 信者の方って、そう思って自分の代わりやってもらっていると思って依頼するんじゃないんでしょうか?
- daiba49
- ベストアンサー率23% (3/13)
以前私も同様に思っていました。 本来は教え(お経)は聞くものですが、聞けども聞けどもなかなか聴けない広く深い内容なものですから、身を通して浸る為だと思うこの頃です。 頭や心はいい加減なものですから。
お礼
人間の頭や心はいい加減なものだから、仏陀の教えを理解するには頭も心も使わないで身体を使って、という事ですか。ウム、なるほど・・ (‐-;)
日本に限定した場合は、意味なしです。 理由は単純、生前は当然、日本語で会話してますよね。 そして、死んだら、漢文のお経を唱えられても、その意味を理解できるのでしょうか??・・という素朴な理由です。 (いかが、ですか??、死んだら、漢文で話しかけられて、それを理解する自信は、ありますか??) 仮に・・仮にですよ、死の前に、漢文を勉強し、死ぬなら・・あっ、不謹慎でした。ごめんなさい。 又、仏教では、死後49日以内に別の世界へ転生するといわれてます。 これも例えですが、人間として死に、来世もまた人間として生まれてきたと。そして、たまたま、"自分自身"の孫、娘の赤ちゃんとして生まれたとしましょう。 で、疑問なのは、日本のお寺は三回忌、七回忌とお経を唱える習慣が、ありますよね。そして、孫、娘の赤ちゃんとして生まれ変わった魂が、前生の"自分のお墓"に、お祈りをする・・などの仮定のケースが、考えられますよね。 仮定の話ですが、おかしな話と思いませんか?? (ここ、趣旨と違います、ごめんなさい。) ただ、例えば、チベット仏教の(あまり詳しくないが)、人間の死後、バルドー死者の書と思ったが、これを読んであげます。これは、バルドーといわれる中間状態での道案内のため。 これは、いわゆる"ポア"が、目的。そして、死となった肉体の変化により、転生が、確定したことを読み取り、それから埋葬されます。つまり、転生が、されていない場合は、日本のように、火葬とかしないのです。 (ここも、趣旨と違うかも、重ねてごめんなさい。) だから、日本の場合は、形式だけで、意味はなし・・と考えます。 少なくとも、酒は飲む、セックスはする、煙草は吸うといった、仏教の戒律を守らない、普通のお寺のお坊さんに、できれば着てもらいたくないのが、本音なのですが・・現実は、対策が、ないのも事実かも。 以上、あくまでも、参考の程度で、とどめてくださいね。
お礼
ご回答、ありがとうございました。参考にさせて頂きます。
- 1
- 2
お礼
>古代インドでは、神や仏の教えを文字にすることは許されなかったので、その教えを初めは簡単な詩にして覚えやすいようにして、それを口伝えにしていたのです。その習慣が伝わったものではないか 卓見です。目からうろこが落ちました。すると読経のルーツは「勉強」なのですね。ありがとうございました。