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宗派の違うお寺での読経や写経はいいの?
宗派の違うお寺での読経や写経はいいの? 私の実家は浄土宗ですが、近所だからとよくお参りに行くお寺は日蓮宗なのです。 そこに写経にも行きましたし、信者さん達と一緒に読経もします。 果たしていいのでしょうか?
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日蓮宗では檀家・他宗派を差別しません それで心を込めて 宗祖日蓮大菩薩様に南無妙法蓮華経を上げればどのお寺でも歓迎されます。
- Wendy02
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#3の回答者です。 トラブルには発生しないと信じますが、補足して書かせてもらいます。 富士派によって社会的に誤解を受けてしまって、とても残念だと思います。 日蓮宗で、写経をやっている所というのは、大きなお寺ですね。例えば、久遠寺や池上本門寺です。どなたでも、お坊さんのお話でも、写経でも参加なさって構わないと思います。 日蓮宗というのは、本来は、法華宗といい、天台の最澄からの流れを汲み、日本教とも言われ、日本の代表的な宗教です。お題目を唱えるから日蓮宗ではありません。身延山久遠寺を総本山とし、宗務院を池上本門寺とするものが、日蓮宗と名乗れる宗派です。 そして、本来の日蓮宗は、もっとおおらかなものです。 調べてみると、日蓮宗は、宮沢賢治だけでなく、内村鑑三なども高く評価しています。特に、宮沢賢治の小説は、日蓮宗の影響をうけているのはわかります。もちろん、法華経に、相手を罵倒したりする「折伏」というものは存在しないと言います。もし、そんな他人を罵倒したり、論破するような宗教だったら、明治の文学者や宗教家が高く評価はしなかったはずです。 仏教に興味を持った人には、紀野一義さんという名前をご存知だと思います。紀野一義さんの翻訳(梵語から和訳)した、『法華経』(岩波文庫)を読んでみれば、別に仏教徒でなくても、すぐに、何を意味しているかわかるはずです。この方も、日蓮宗です。私は、日蓮宗ではありませんが、とても素晴らしい教えだと思います。特に、宇宙観を表現しているので、宮沢賢治さんが取り上げています。 なお、創価学会というものは、多くは戦後に入信した人たちが多いと思うのですが、ふつう、戦前からの宗派を変えるということはないということを考えると、やはり何か思想的に違うものだと思います。それだけに、一般の人たちは、日蓮宗と創価学会は別物としてみて良いのではないかと思います。
- michael-m
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別に構いませんが・・・。 むしろ排他的で、他の宗派を攻撃している筈の日蓮宗が受け入れるというのが解せません。 要するに布教の一手段でしょう。 元々仏教は全てが仏陀に帰依するとして宗派間の表向きの反発はありません。 しかし思想学的要素が強く、○○派などと言って多くの派閥が生まれています。 これはカトリックにおける独自の修行方法から分かれた修道会とは異なり、経に対する解釈が違うのです。 従ってその中には同じ旧約聖書を持ちながらその後の解釈で分かれたカトリックとユダヤやイスラムとの違いに近い差があります。 そして、特に厳しい折伏(相手の間違った解釈を指摘し、言い負かす事で仏法を伝える布教法)を行なう日蓮宗は本来非常に排他的で攻撃的です。その教えは「法華経のみが衆生を救済する唯一の教えであり、他の教えは、衆生救済の障害になる」というもの。 一方浄土宗は日蓮宗と同じく鎌倉時代に発生した称名念仏を以って成仏するという宗派ですから全く考え方が異なります。 つまり、仏陀に帰依するという意味ではドコで写経しようと構いませんが、その手段で往生しようかという事になれば、選択する必要があります。 極端に言えば、創価学会の集会場に遊びに行っているのと同じようなものなので良く考えて下さい。 (創価学会も日蓮宗から分離した新興の一派です。)
- Wendy02
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質問の意味が少し分かりにくいのですが、自分の宗派とは違うお経や写経は、違うお寺でして良いか、ということですか?本来は、仏教では、あまり宗派の違いでこだわらないはずです。もともと全てはお釈迦様(の心)から出たもので、どちらがどうというものではありません。 「宗派の争いは、釈迦の恥」ということわざもあります。 だから、自分の宗派だけしか認めないというのは、正しい仏教のあり方ではありません。こだわるのは、カルト教団の人だけです。例えば、宮沢賢治さんは浄土真宗ですが、法華経の世界を多く表しています。また、一休宗純は臨済宗ですが、いつも、浄土真宗に出入していました。また、禅の鈴木大拙老師は、浄土真宗の大谷大学の教授です。また、私の知っている禅の老師は、臨済宗ですが、曹洞宗のお坊さんと勘違いされるぐらい出版物を出しています。 仏教というのは、先祖や家というものとは関係がありません。本来、中国思想とは相性の悪い仏教は、西方から入って、中国の儒教と合体させ、違ったものにさせてしまいました。しかし、仏教の本当の教えは、その人の個人のものと教えていますし、先祖や霊などというのは、まったく意に介していません。 それに、読経や写経をしていることが、その宗派を信仰していることにはなりませんし、仮に良いものなら、何でもよいと思います。仏教とは、もっとおおらかなものです。宗派にこだわるのは仏教の本当の姿ではありません。初めて日本に仏教が入ってきた時のことを考えると、その学生たち(お坊さん)は、どんな気持ちで当たったか、宗派とか宗門とか関係なく、新しい思想に出会えたことに打ち震えたと思います。
>果たしていいのでしょうか? いいか、いけないのか、だけのことでしたら、日本国の法的には問題がないと思います。 ちょっと気になったのですが、 >私の実家は浄土宗ですが、近所だからとよくお参りに行くお寺は日蓮宗なのです。 ご実家は浄土宗だそうですが、実家ではなくて、今現在の嫁ぎ先の家はどうなのでしょうか? 日本は割りと寛容ですね。 「家」の宗派とは別に自分の信仰する宗教をもつこと。 ですが、(反感もたれる人がいると思いますが)見えない世界的にみると、長年代々の先祖たちが信仰してきた宗教を、突然ぷつりと別の宗教に変えてしまうと、その古い多くの先祖達が戸惑うそうです。で、結果的に障りの原因として言われることもあるようです。(ですが、この方面の話は、ネットは書けません。) >近所だからとよくお参りに行くお寺は日蓮宗なのです。そこに写経にも行きましたし、信者さん達と一緒に読経もします。 ならば、人から見ると「あなたご自身は日蓮宗を信仰してるのね」と言われてふつうです。 「なんとなく」とか、「近所の人に誘われて」とかがきっかけだったかもしれませんが、図書館にでもいって日蓮宗についての本を何冊か読んで下さい。そして勉強してから、改めて自分が信仰したいかどうか判断なさって下さい。何も知らないまま、ただ誘われるがままに入信するなんて悔しいと思いませんか?
- ttt1214
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宗教や宗派と言うのは、人間が勝手に考えたものです。 宗教・宗派に関係なく、神仏に対する、自分自身の信仰を大切にし、読経や写経に行かれれば良いと思います。