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暴力を振るう子を折檻する親が心理学の天才だったら
どこかの掲示板で読んだのですが、いたずら餓鬼どもが、猫をいじめるというより殺戮して遊んでいたそうです。なんでも子猫に石を落として殺したとか。で、親に知られて、存分にぶん殴られたそうです。 それはそれで完結した話で、特に問題点はないようです。 が、この子供にしてみると、確かに殺戮はわるい弱いもの殺しは悪い、という認識は新たにしたでしょうが、彼自身が抱えている不満憤懣やるせなさというものには答えてもらっていないわけです。よくある話です。 しかしもし、この制裁を加えた親が只者ではなく、心理学の天才&聖人&人生の達人&芸術的感性&強固な意志を持つ稀有な人だったとして、そのしかり方はたいへん有益なものになるのではないでしょうか。 例えば、普通の親のしかり方は、「この野郎、思い知らせてやる!」とかすごんでぶん殴るわけです。しかし、とんでもないできた親は、「お前はいろいろとめぐり合わせの悪さから、憤懣怒り悲しみいろいろつらい思いを内面に抱えて暮らしているよね。その中には、おれ(父)に対する怒り不満もあるんだろう。それはおれもわかっている。それに、性衝動は男児の必然としてあって、子供のうちはそれが晴らせない鬱屈もあるだろう。社会は融通効かないから、子供に性のはけ口はあたえない。それはおれも感じている矛盾で、おれだってお前くらいのときはエッチな妄想を抱きながら悶々としていたよ。時として物や弱いものに当たったな。それは分かる。だがな、者には限度がある。それは多くの人が絶対に許せないという感覚に至るものや、警察のお世話になることだ。社会はこの生きすぎには厳しい目を向けるんだ。また、ここまでやったらやったほうの心のすさみ方は恐ろしいことになって、まともな人生を送れなくなるぞ。だからね、生きるのに不満はある、子供だから不満を感じないなんて事は世の奇麗事で、子供にこそ多くの不満があるんだな。ただそれに負けちゃいけないんだ。つらさをかみ締めて、自分が元気になること、人に喜ばれることを探して生きるのが人生のただいい生き方なんだ。わかったらこの制裁を受けろ。 とか何とか言って、存分に殴られます。体は痛いが心は痛くない。 本来、制裁するとは、こういう風に行かなくてはいけないのではないでしょうか。子供の心を凍らせるとかますます不満に火を注ぐのでなく、その痛みを共感し、かつ体は痛い目にあわせて納得させる。 なぜ、こういう基本的(と思われる)事が徹底されないでいるのでしょうか。なにかそういう展開にならない必然性のようなものがあるのでしょうか?
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状況判断は難しいので一概に言うことには弊害もあるかもしれませんが、基本的に、体罰は必ずしも悪影響のみを及ぼすものではないと思います。 重要なのは、体罰があったかなかったかということではなく、普段の接し方においてどういった関係性が築かれているのか、といったことでしょう。 しかし、普段の接し方に問題がないようであれば猫を殺すというような行為は考えられません。 子供にしてみれば一種のメッセージが込められていた行為だろうと思われます。 そのことに気づくかどうかということになりそうです。 気づき、何らかの対応策を講じる必要性を認識することができさえすれば、殴る殴らないは親のキャパシティの問題に収束するのであって、特に重大な要素として働かないはずです。 また、気づきの表明は、子供に伝わる形であれば必ずしも言語である必要もないでしょう。 その子のその後は、何か「>とんでもない」ことをするような子供に対して、親が自らの関わりかたをどのような形であれ「顧みる」という姿勢があるか否かによって大きく変わるような気がします。 以上はあくまで一般的体罰という範疇に関しての話であって、虐待相当の暴力については、親自体が重篤な心身症を患っているわけで、全く別の話になると思います。 子供の少し逸脱した(と感じられる)行為は、親が自ら受けてきた抑圧を吐き出す格好のきっかけとして利用されてしまうことでしょう。 「>体は痛いが心は痛くない」というのは、根本的には自分を救おうとしてのことだという信頼感を認識することができる、ということだろうと思います。 そのような結果がもたらされるような状況になっていない理由、あるいは、「>そういう展開にならない必然性のようなもの」とは、月並みですが世代を超えたいわゆる負の連鎖というものでしょう。 つまり、自分自身が受けてきた不当な抑圧を与えた本当の相手と対峙することを先送りする(あるいは本当の相手に気づかない)ために、代償として他者(通常はもっとも身近な者)が無意識のうちに選ばれる、ということではないかと思います。
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- hakobulu
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#3です。 >自分が不満だったからこそ、子供にはこう接しようと言う反面教師製が普通は生きてくると思うんです。 :意識的にはそうなります。 しかし、おそらく無意識が許さないでしょう。一方的に負のエネルギーを格納したままではバランスがとれないでしょうから。 解決策としては直接対決、あるいは何らかの形での昇華作業が必須になるように思います。 自分の問題として引き受けることで負の連鎖は断ち切ることが可能になるのでしょう。 生きるというエネルギーに関連するバランスの問題だろうという気がします。 抵抗力の乏しい幼児・児童に対するに大人ができるのはそういうこと(変革)だろうと思います。 この時期に負の遺産を背負わされなければダメージは少なくて済むのではないかという印象を持っています。
お礼
無意識というのは統御できないものですからね。 なかなか操られてしまうんですよね。 ご回答は納得させていただきました。 しかし、ふと疑問に思ったのは、子供に与えるダメージとはなんなのかというのがよく分からない気がしました。それは「愛情不足」「理解不測」というつまりは人間トータルな「愛」的なものが不足していると感じられ、そこから問題精神状態が生じるということなんだろうと推察しています。しかしどうも「愛」の欠乏がという議論になることはあまりないような気がしています。
専門知識がないので稀有な才能の持ち主がそのように諭すか はわかりませんが、長いっ!私なら殴られなくてもその間に逃 げる(笑) 未成年の衝動的な犯罪に至る過程は家庭の問題にある!? 日本では未成年の犯罪率は低下していて、中高年が暴徒化 してますよ、「労害」の方が問題。 なぜ未成年、特に少年は危険かというと、一刻も早く大人にな るためで、攻撃こそ最大の防御ということで、子供のまま居続 けるのは恐怖だらけなんです。生存権を確保しなければ敵が多 いから。 人間の大人として実権を握るには、社会性を身にまとい安定性 が求められますが、性欲は肉体の保存で自己顕示欲は精神の保 存という種の保存スイッチ(ホルモン)が目覚めたからと思い ます。 家庭環境とお構いなしに健康的な少年は内実が変態します(成 長の証)。 それを抑えこむ理性も本能の所産で人間は獲得しています。 変態と痛みと理性は三位一体。 >痛みを共感し、かつ体は痛い目にあわせて納得させる。… そういう展開にならない必然性のようなものがあるのでしょうか? 男の子って殴りやすいけども(女の子より)心でも身体でも 痛みを共有してあげることが理解者でも親密な関係とはならない。 むしろ共依存の関係です。 心地好さや喜びを共有出来る相手は距離と無関係にずっと大切 な存在、栄養になり成長を助長するのです。 テレビで偉い心理学教授の解説と大幅にズレますが、 全部素人の勝手な推測、検証も取っていない仮説ですから。
お礼
成長過程によって、周りとの摩擦を伴うのが、男児における普通なのでしょうか。「共依存」ですか。それも一種の理解と共感ですよね。太陽のように内部核分裂して熱いものをどう理解し飼いならす?かという、心も行動もなかなか一筋縄ではいかない現状なのでしょうか。
- popesyu
- ベストアンサー率36% (1782/4883)
質問者さんが子供時代からの自分自身を振り返ってみてもそういう意見なんでしょうか?やっぱり。 私の場合は少なくとも、分かった風なこと言いやがってみたいな反感を抱いていましたけど。この歳になってというか20歳ころをすぎてからようやくその意味を理解できたし、その全てに同意はしないまでも、十二分に共感することができるようになりました。 ただこうなってしまうと、今度は自分が子供らをどういう風に説教するのかと鑑みてしまうと、あーどうせいくら言っても半分も伝わらないだろうなぁという諦めも最初からありますw まぁただ子育てに正解なんてあるわけもなく(と私は思いますが)、日々悩みながらベターな手法をとっていくしかないと思うわけで。その挙げられた一例はあくまでも例でしょうが、子育てや教育には絶対に正解があるという前提があるわけなんですよね?? もし質問者さんが、自分自身がこういう風に説教されたら、絶対にその場で理解できた。鬱屈した思いもそれで100%解消できたなんていう見解をもし抱いているとしたら、ちょとそれは自己責任感があまりにも無いというか、全て他人のせいみたいな。わが子がそういう子に育ってしまうのはちょっと困りもんだと思います。
お礼
私は説教らしい説教を受けないできました。心の交流もほとんどなかったです。心の交流以外は十分ありましたが(物的、世話的、義務的、盲目的本質的愛情など)ですが、心で言語化されたものを親からは受けなかったようです。「説教」というものが重要なのでなく、「理解」「交流」「共感」を前提にした叱咤というものなのでしょう。手法の問題でなく、まさに「心」の問題でしょう。あるいは「人間」の問題でしょう。極端に言えば、終始無言でもかまわないわけですよね。「心」の雄弁があれば。
親がごちゃごちゃ言っても子どもは聞いていないから どうしても殴るっていうなら 「何やってんだ!バコーン」で十分だと思います 悪いことをした→殴られた 非常にすっきりとした理屈だと思いますが
お礼
聞いていないというのは、「あ、またおれのこと理解しないで勝手なこと言っている」という感覚が呼び起こされるからなんですよね。つまり、「あ、理解と愛情と威嚇?の説教が始まった!親の「愛」がダイレクトに感じられる瞬間、これ好きなんだ!」と言う感覚ですね。それを親が与えることこそ必要なのではないでしょうか。 気持ちに入れずに滑っているわけですね。
- y_hisakata
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まず一言。 「この野郎、思い知らせてやる」などとすごんで子供をぶん殴る親が ふつーであるとは思えません。 つぎに。 心理学の天才&聖人&人生の達人&芸術的感性&強固な意志を持つ稀有な人 などという人は、文字通り稀有でしょう。おそらくいないとおもいます。従ってこうい制裁が徹底されることはないでしょう。 さらにいうなら、心理学の天才とは、「正しいことを言う」のではなく、「相手の理解の範疇内で、相手に理解できるように」言うでしょうから、ご質問の中にあったような説明は現実にはなされないでしょう。 それと、制裁は体の痛みだけではなく、心の痛みも伴わないと意味がありません。 質問者の気持ちもわからなくはないのですが、総合的に考えてみると、ちょっと現実的ではない質問のように受け止められます。
お礼
お答えいちいちもっともだと思います。現実的な親は妥協的なところに落ち着いていますかね。ただ、「心の痛み」っていうのが、『自分は理解されていない』という、疎外的な痛みを伴っているとしたら、それはナンセンスどころか、ますます子供に対してマイナス作用する事態です。そうではなく、向上する方向の心の痛みなんていうものがあるでしょうか。
お礼
お答えプチ悲劇的なものをまた想起しますね。非常に核心を着いていただいていると思います。気付きとか気持ちの交流ですね。こういうものがあるか不十分かないかが核心であって、体罰云々の問題ではないわけです。こういう心の交流があるか感じられるかが、子供にとって最も重要なことではないでしょうか。 しかし、負の連鎖ってやっぱりあるんでしょうか?自分が不満だったからこそ、子供にはこう接しようと言う反面教師製が普通は生きてくると思うんです。