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幸福度アップのために
貧すれば鈍するという面もありますが、幸福殿基準が下がる=わずかなことにもうれしいと思う、という作用もあります。 「もっともっと豊かに便利に」を続けていくと、結局幸福度をアップしてしまい、ますます幸せから遠ざかることにならないでしょうか。もしそうならば、社会状況とは関係なく、自分は「貧」を幸福度の糧としたいという思想は、一般的でないですが、これは気付く人がいないのか、社会にの流されているだけなのか、どうしても逆向きには進みたくないという本能のようなものなのか、どう考えたらいいのでしょうか。
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幸福というのは、「度」とか「アップ」とか、量的なものではないんじゃないでしょうかね。 エピクロスの説によれば、幸福(アタラクシア)は、欠乏や不安などのマイナスのものがない状態のことを指すようです。何事にも動じない平静な心の状態だと言います。 もしもそうなら、「もっともっと豊かに便利に」と、欲求に追い立てられるありさまは、とても幸福とは言えないと思います。 欲求とは何のために欲求されるものか。欲求しなくてすむようになるために欲求するのです。ならば、最初から欲求なんかしなければいい、ということになります。しかし社会はその尺度を認めませんね。繁栄を追い求めます。 繁栄は腐敗と同義語です(実が熟するのと腐るのは一緒)。しかしあまりそういうマイナス面は見ようとしないのが、どうも社会のお約束のようで・・・ 貧を幸福度の糧とした思想家は、いろいろいます。 有名なところではアッシジのフランシスコ(カトリックの聖人)ですかね。 その他に、富も求めず貧も求めずな、エピクロスや老子の説もなかなか悪くないもんです。
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- mmky
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[「もっともっと豊かに便利に」を続けていくと、結局幸福度をアップしてしまい、ますます幸せから遠ざかることにならないでしょうか。] この命題が真であれば、残念ながら七福神は存在しません。しかし七福神はいますのでこの命題は間違いです。 豊かになることは貧困からくる飢餓・無知・戦争などあらゆる人類に及ぼす害を減らしています。豊かになるということは個人の幸福感が隣人に社会に広がる様なんですね。だから金持ちになって貯めこんでは真の豊かさを感受できないということだけなんですね。豊かになればなるほど与えていけばいいとゆうことですね。 つまり、太陽になっていくことが豊かになっていくととです。 太陽はどなたからもお金とってないよね。でもにこにことわけ隔てなく毎日照らし続けてる。これが究極の大黒天。目指せば、だれでもなれます。
お礼
たしかにそうですね。気の持ちようがちゃんとしていなければ、いかに物質的に豊かになろうと満たされません。飢餓無知戦争という悲劇は、筆舌に尽くしがたいものです。それから脱しつつある現代社会は、もちろん幸福度はアップしているはずなのです。それをゆがんだ人間性で受け取ってはいけないですよね。
- spitzer3
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>もっともっと豊かに便利に」を続けていくと、結局幸福度をアップしてしまい、ますます幸せから遠ざかることにならないでしょうか。もしそうならば、社会状況とは関係なく、自分は「貧」を幸福度の糧としたいという思想は、一般的でないですが、これは気付く人がいないのか、社会にの流されているだけなのか、どうしても逆向きには進みたくないという本能のようなものなのか、どう考えたらいいのでしょうか。 私が思うに、おそらく、貧乏なら幸福で、便利なら、幸福ではないと断じてしまっているのではないでしょうか。 確かに、貧乏なら幸福になれるかもしれないが、便利な社会の方が幸福になるかもしれませんよ。 将来、どうなるかなんて完璧に確かめようがないと思うんです。 そういうことで、、便利な社会が得られないならば、貧乏でも幸福かもしれないと思い、便利な社会にも、貧乏な社会にも執着せずに、適当に便利な社会を目指せばいいと思います。
お礼
いまいちよくわかりませんでした。。あまりに果断な判断をしないで温和に生活していけばいいのかもしれませんね。便利さはもちろん幸福につながっているはずなのですが、人間性が素直にそれを感知しないような感じなのを、何とかしたいです。
お礼
たいへん参考になりました。 繁栄は腐敗と同質なんですね。社会はどうしても人間の欲求を煽り、それを追わせようとします。これにどうしても毒されますね。 社会的規範価値観というのは、いつも世にも怪しいものを含んでいますね。