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学校の発表でレヴィナスを起用
学校での「総合的な学習」で各自で進路先に関係する題材で発表をすることになりました。私は哲学を進路先で学ぼうと思ったので、現代哲学に関する発表をしようと思っています。そこで私は、現代抱える問題と哲学とを結びつけようと思って悩んだ挙句に「殺人」と「レヴィナス哲学」を結びつけたテーマにしました。しかし、本を借りてきてもレヴィナスの「他人の顔」が生身の他人なのかそれとも広い意味での他人なのかわかりません。どなたかレヴィナス「他人の顔」の解釈がわかる方はいらっしゃいますか?
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> レヴィナスの「他人の顔」が生身の他人なのかそれとも広い意味での他人なのかわかりません。 少し言葉の整理をしておきましょう。 ふつうはレヴィナスの「顔」という概念について考えるとき、「他人」ではなく、「他者の顔」というふうに言います。 「他人」というと、漠然と「ほかの人」ぐらいの意味で使いますが、哲学ではあまりこういう言い方はしません。その代わりに「他者」という言い方をします。 西洋の哲学というのは、実際、近代以降この「他者」というのがものすごく大きなもんだいとしてあって、いろんな人がいろんなふうに考えてきたんですが、ここではレヴィナスに即して説明してみようと思います。 「他者」というのは何なのか。 たいてい、辞書を引くと、「自己でないもの」と書かれていると思います。 「自己でない」としたら、目の前にあるマグカップとか、CDとか、窓の向こうに見える山とかも他者かというと、そうではない。 コップは〈わたし〉が認識できるものです。これを使ってコーヒーを飲む、お茶を飲む、梅昆布茶を飲む、つまり、このようにして自分が認識でき、利用でき、支配下におくことができるものは「他者」ではない。 山だってそうです。わたしはいまだに窓から見える山が何なのかよく知らないんですが(笑)、その気になれば地図を見て、名前を知り、××山、と認識し、分類し、これまたそうすることで自分の支配下に置くことができます。 こういう存在は「他者」にはならないのです。 それに対してほかの人はそんなふうに認識できません。 どれだけ親しくても、その人を完全に理解することはできないし、自分の思い通りに動かすこともできない。 「他人」というのは、漠然と、ほかの人、ぐらいの意味ですが、「他者」というと、自分の認識されないもの、「所有しえないもの」、『存在と無限』のなかではこんなふうな言われ方をしていたりします。 「〈他者〉は、他者について〈私〉がもつことのできる観念のすべてから、絶対的にあふれだしてしまっている」 こうやって見ていくと、この「他者」が > 生身の他人なのかそれとも広い意味での他人なのか 「生身の他人」(つまり、肉体を持っている他者)でもあり、「他者」という概念でもあることがわかるかと思います。 この両義性は、〈顔〉というレヴィナス独特の概念にも見て取ることができます。 この〈顔〉は、その人の顔、身体の一部である顔を通して、語りかけるものである〈顔〉という意味もありますし、その〈顔〉が〈わたし〉に「あらわれる」という、〈わたし〉との関係を意味するものでもあります。 ここから「語り」の問題とか、いろいろ出てくるのですが、どういうことを知りたいのか、よくわかりません。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2753976.html の#34で回答しているのですが、この前半の「等価交換」の部分はかならずしもレヴィナスに即しているわけではないので、その点は注意してください。 読んでおいてほしいのは、最後の引用箇所なんです。 ここで「顔」の意味がだいたいわかるか、と思うのですが、もっと詳しく知りたい点、わかりにくい点があれば、補足する、という形で、ここから先はいきたいと思います。 ということで、とりあえずはこのあたりで。
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- ghostbuster
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> 他者の問いかけである「なんじ殺すなかれ」という呼びかけに、「応じる」という形で応じた場合に、「殺人」は抑止され、「応じない」という形で応じた場合に「殺人」は発生するのでしょうか。 殺人というのは起こります。 たとえ「応じ」たとしても。 逆に 「私が存在者を部分的に否定しうるのは、存在一般にもとづいて存在者を把持し、それによって存在者を所有する場合に限られる。他者とは、その否定が全面的否定、つまり殺人としてしかありえないような唯一の存在者である。他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである」(「存在論は根源的か」『レヴィナス・コレクション』p.360) とまで、レヴィナスは言っています。 これはどういうことか。 物ならば、所有することによって、否定することができます。けれども、〈他者〉は所有できない。否定することもできない。だから、殺したいと願う。 そうしてこうつづいていきます。 「殺したいという私の権能が実現されるまさにその瞬間、他者は私からすでに逃れてしまっているのだ。たしかに私は殺すことで、ある目的を達成しうるし、獣を狩ったり射止めたりするのと同様に、樹木を伐採するのと同様に殺すことができる。しかし、私が殺しうるのは、存在一般の開けのなかで、私の住む世界の構成要素として他者を捉え、地平線上に他者を認めたからである。私は他者を正面からは見なかった。私は他者の顔と出会わなかった。全面的否定への誘惑は、全面的否定の企ての際限のなさならびにその不可能性の尺度であるが、かかる誘惑こそ顔の現前なのだ。他者と対面の関係をもつこと、それは殺せないということである。それはまた言説の境位でもある」 わたしが〈他者〉を殺したい、と願ったのは、それは自分のものにはできない存在だからです。 殺すことによって〈わたし〉は〈他者〉を自分のものにすることができたんでしょうか。全面的否定ができたんでしょうか。 ちがいますね。〈わたし〉に殺された他者、かつて〈他者〉であったものは、もはや〈もの〉でしかない。 完全に自分のものにしようとして、あるいは自分に屈服させようとして、否定しようとして殺した結果、〈わたし〉が手に入れたのは、〈もの〉でしかない。 つまり、他者を〈他者〉として殺すことは不可能なんです。 〈他者の顔〉は、逆に、〈わたし〉に決して所有することができないもの、否定することができないものがある、ということを示し続ける。そうすることで、〈わたし〉は〈存在のかなた〉を知るんですが、この〈存在のかなた〉を話し出すとまた長くなっちゃうんでここれはしません。だけど、イデアとかこの現象世界の背後にある背後世界とかいうのではない、まったくちがう「どこか」なんだというぐらいに、ばくぜんと把握しておいてください。 そうして〈顔〉は、そのとこから来るのかわからない戒律としての「殺すなかれ」を、最初に語るのです。 この命令の内容は、具体的なものは何も語らない。それを考え、自分の言葉で満たすことによって、わたしたちの倫理が生まれる。ありふれた、どこにでもいる〈わたし〉が、〈他者〉との関係において、たったひとりの、かけがえのない存在になってゆく。 > なぜ他者は「顔」でなければならないのでしょうか。 少し角度を変えてみましょう。 質問者さんは誰かをすきになったことがあるかしら。 そういう経験があると、よくわかると思うんですが、すきになったひとっていうのは、ものすごくわからない、と思いません? あのひとはいったい何を考えているんだろう。 いまさっき、こっちを見たように思うのだけれど、あの目つきにはどういう意味があるんだろう。 あのひとの言葉にはどういう意味がこめられているんだろう。 考えれば考えるほどわからなくなってくる。世界にこんなにわかりにくい人なんていないんじゃないか、と「わたし」は思う。 そう思って友達に言う。すると友達は不思議なことに、簡単にわかる。 「××だったら、~な人だよ。そんなことも知らないの? 恋は盲目っていうけど、ほんとだね」 さて、この話に出てくる「わたし」と友達と、どちらが〈他者〉の本質にふれてると思いますか? ここまでレヴィナスとつきあってきた質問者さんだったらわかると思うんだけど、それは「わたし」のほうです。 ほんとうは、自分以外のだれもが自分にとってはわからない人なんです。 だけど、たいていのときは、そんなに詳しくその人のことを知りたいとは思わない。何組の××で用は足りるし、部活で陸上やってる、ぐらいのプロフィールがつけばもうそれで十分。あのときあんなことをしていた。あのときはああ言っていた。だから~な人。 そういうふうに簡単に「わかる」ことができるんです。 だけど、すきになったひとのことは、もっと知りたい、と思う。 二組の××さん、なんていう言葉では、とうてい足りない。 そのひとの行動を見て、ああ、こんな人なんだな、と思っても、つぎの瞬間、それを覆すような、あなたの思ってもみない行動をとる。わかった、と思ったはずが、またわからなくなる。どういうところがすきになったのか、それもわからない。 どこまでいってもわからない。 〈わたし〉がさまざまな言葉を用いて、そのひとを理解しようとする。言葉を換えて言えば、そのひとを自分の内に取りこもうとする。だけど、絶対にそのひとはその言葉には収まらない。どれだけ言葉を費やしても。 だからそのひとは「わたし」にとっては〈無限なもの〉である。 だから、よけいに知りたいと思う。だから、「わたし」はそのひとを求める。 一方で、そのひととの関係において、「わたし」は相手のために何かしたいと思う。 何かができるだけで、うれしい。 逆に、自分のエゴを押し通そうとすると、その瞬間に相手が背を向けてしまうかもしれない。だから自我を抑えることを学び、相手が大切に思うことを、自分も大切にしようとする。 倫理っていうことが、すごく身近なところから生まれてくるわけです。 自分のありようを問いただすものとしての倫理です。 「人間はこうすべきだ」という倫理ではなく。 そういうひとに、わたしはここにいます、って言うために、そのひとの顔に向かって、「おはよう」と声をかけます。 そしたら「おはよう」と答えてくれた。 それだけで、ものすごくうれしい。 それは、自分にとってはどうすることもできない〈他者〉が、そのひとの意志で答えてくれたからです。 ね、そういうひとの顔というのは、やっぱり特別の意味を持つと思いません? そのひとを何よりも際立たせているのがやはりそのひとの顔だし、だから、「わたし」はそのひとと会えないときでもそのひとを感じたくて、写真を撮ったり、パソコンにダウンロードしたりするよね(笑) おそらく、ふだん当たり前に生活しているだけでは、わたしたちはほんとうの意味で〈他者〉には出会えないのではないか、と思います。 人は抽象的なものから具体的なものに向かっていく、と言ったのはレヴィナスではなくて、シモーヌ・ヴェイユなんだけど、ほんとにそうだなあ、とわたしは思います。 わたしも十代の終わりでカントを習ってそれからずいぶん来たけれど、レヴィナスを通して初めて他者に会えたなあ、と。 ということで、長いことおつきあいくださって、どうもありがとう。この回答ができて楽しかったです。 ただ、レヴィナスを理解しようと思ったら「贈与」とか「時間」とか、押さえておかなきゃいけない部分がいくつもあるんですが、そういうところにはふれていないので、これはほんの「さわり」ぐらいに理解しておいてください。 レヴィナスの思考というのは、具体的なものの思考です。だから、経験を積めばそれだけよくわかっていく、という側面があるのではないかと思う。 時間をかけてつきあっていってください。 じゃ、発表、がんばって。
お礼
長い間、お付き合いいただき本当にありがとうございました。 今日でようやく発表用のレポートが完成しました。ghostbusterさんの回答がなければ、今私はどうなっていたかわかりません。レヴィナスをまったく理解していなかったのに、自分が「レヴィナス」を採用、だなんて恥ずかしく思えます。重ね重ね、いろいろとありがとうございました。
- ghostbuster
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> 多くのレヴィナスの書籍に登場する「他者への責任」とは果たして通常発生している「責任」と同等の意味でしょうか? 責任っていうのは responsibility 、つまり、respons ability ということです。つまり、だれかに問いかけられて、それに応えることができる能力であるということ。 レヴィナスはこのが言う責任っていうのは、基本的に「問いかけられて、それに応える」ということなんです。 > 通常発生している「責任」 というのも実はすごくさまざまな意味がある。 たとえば「日本の戦争責任」をめぐる議論があれほど紛糾しているのも、ひとつには責任のとらえかたが錯綜している側面もあるのではないか、と思います。 ただ、ここで押さえておかなくちゃならないのが、レヴィナスの言う〈責任〉というのは、〈わたし〉が決断したり選択することによって、引き受けたり引き受けなかったりするようなものではないんです。 レヴィナスは〈わたし〉が〈他者の顔〉と直面するとき、倫理的な関係が始まる、といいます。 「〈他者〉の現前によって私の自発性がこのように問いただされることが倫理と呼ばれる。〈他者〉の異邦性――《私》に、私の思考と所有に〈他者〉が還元されえないということ――が、まさに私の自発性が問いただされることとして、倫理として成就される」(『全体性と無限』(上)p.62) ここ、むずかしいね。 つまり、理解し、認識し、自分のものにしていく、ということは、自分の外にあるものを征服しながら同化することだ。 ところが、絶対に、自分のものにはならない〈他者〉が現れる。そこで〈わたし〉は立ち止まらざるをえない。自分のありかたを「問いただされ」てしまうわけです。 だから、倫理。 もちろん、その関係に入っていかない、無視する、というやりかたで「応える」こともできる。 けれども、〈他者〉を渇望するということは、この〈責任を負う〉ということになっていく。 さらに、ここ、大切なところです。 その責任を引き受けることによって〈わたし〉のかけがえのなさが生まれていく。 たとえばエッフェル塔やジョコンダがこの世にただひとつしかないように、人間は唯一無二の存在として生きているわけではない。ありふれた名前の、「だれ」という問いに、たとえば職業で応えてしまうような〈わたし〉は、平凡なありふれた存在です。 その〈わたし〉がただひとり、かけがえのない者となるのは、他者との「関係の絶対的な出発点」になることにおいて、です。つまり、他者に対して〈責任を負う〉ということにおいて。 そうして、主体となった〈わたし〉は、「わたしはここにいます」と言って、その〈責め〉に応えるんです。 それが挨拶なんです。挨拶、というのは、そういう意味がある。 > また「イリヤ」の状態にある<わたし>は例として「なんじ殺すことなかれ」と他者の顔に語られた場合、<わたし>はどう解釈するのでしょう? この「なんじ、殺すなかれ」は〈顔〉の最初の言葉である、とレヴィナスは言います。 つまり、上で見たように、倫理的な関係に入っていくときの最初の言葉である、ということになります。 〈顔〉のこの命令に直面した〈わたし〉は、その命令に応じる方法をみずから考えるんです。そうすることで、責任を負おうとする。そうして〈主体〉となっていく。 ええと、わたしが書いたものに関しては、自由に使ってくださって結構です。 ただし、自己責任において、ということで(笑)。 わたしがこれを書く上で、おもに依拠した参考文献をあげておきます。 まず、岩田靖夫『よく生きる』の第二章。これは大学の新入生向けの講演がもとになっているので、かなりわかりやすくレヴィナスの思想が解説してあります。だけど、書いてあることは深い、というか、語り口はやさしくても、まだまだ理解できてないな、と回答を書きながら改めて思いました。 熊野純彦『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』 中山元『思考の用語辞典』 あとは一次文献として『レヴィナス・コレクション』と『全体性と無限』 わかりにくいところがあったら、遠慮なく質問してください。 わたし自身の勉強にもなるので。
補足
今まで私の質問に答えていただきありがとうございました。 つきましては今週の水曜日に発表があるので、今回が最後の質問になると思います。 他者の問いかけである「なんじ殺すなかれ」という呼びかけに、「応じる」という形で応じた場合に、「殺人」は抑止され、「応じない」という形で応じた場合に「殺人」は発生するのでしょうか。 さらに、これは今になってようやく気がついたですが、なぜ他者は「顔」でなければならないのでしょうか。 長い間本当にありがとうございました。
- ghostbuster
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ちょっと順番を変えますね。 > 「他者」と<わたし>の関係は同等でしょうか? 絶対に同等にはなりません。 というのは、同等かどうかというより、そもそも〈わたし〉と〈他者〉を比較することは不可能だからです。 たとえばいまわたしの目の前にマグカップと目薬があるんですが、わたしはこのマグカップと目薬の位置関係を確認することができるし、その大きさや重さを公平に見比べることができます。つまりわたしはそういうことが可能な地点に立つことができる。 けれども〈わたし〉と〈他者〉の関係の場合、このマグカップと目薬のように、両者を等分に確認できる地点、公平に見比べることができる地点に決して立つことはできません。 〈わたし〉は、決して〈わたし〉を離れることができない。〈他者〉に接するのも、この〈わたし〉を出発点にするしかないのです。 そもそもの始まりから〈わたし〉と〈他者〉は非対称で不均等なものです。他者が「絶対的に他なるもの」というのは、こういうこと。 だから、〈わたし〉はものを所有するように、〈他者〉を所有することはできない。それは同じ平面に存在しないからです。その意味で〈他者〉は無限にへだたっている。 〈他者〉は理解することもできない。〈他者〉は〈わたし〉がもつことのできる観念から、つねにあふれだしてしまっている。その意味で、〈他者〉は〈無限なもの〉なのです。 > 上の立場 とはあんまり言いません。こう言っちゃうと、何か比較してるみたいでしょ。 「他者の高み」とか、先の回答で「他者の言葉が高みに立つ」とはよく言うけど。 それは、どうやっても自分の内に取り込めない他者を、手の届かない他者をを、それでも乞い求める、憧れ続ける、そういう意味合いをこめて、使っているのです。 だから、〈わたし〉に可能な〈他者〉との関係の持ち方は、比較ではなく、所有ではなく、あるいは認識でもない。 自分を起点に、近づいていくことでしかない。 > なぜ他者は<わたし>に語りかけてくるのでしょうか? 〈他者〉は現れるんです。〈顔〉として。 「顔はことばを語る。顔が現出することはすでにして語りである。」(『全体性と無限』) 〈他者〉がいったい何を考えているのか、〈わたし〉にはわかりません。それは同一平面上にないから。それでも現れた〈顔〉は呼びかけてくる。 何を言っているのか、先の回答でも書いたけれど、ほんとうのことは〈わたし〉にはわからない。 もちろんこの呼びかけを無視することも可能です。それでも、それは「応えない」というかたちで、応えている。関係を持っている。 そういう意味で、現れた〈他者〉に〈わたし〉は巻きこまれていく。 「責任」をどう書くか、「贈与」を抜きに書いていいのか、ちょっとまとまらないので、「責任」はまた明日、ということにします。 いったん、切るね。
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
ずいぶん勉強してらっしゃいますね。熊野純彦さんの『レヴィナス入門』あたりをお読みかしら(わたしはこれは読んでないんですが)。 それがわかったから、こちらも少しつっこんで書いていきます。 ただ、わたしもレヴィナスは勉強中で、まだまだわかったといえるような状態ではありません。どうかその点はお含みください。 > 自分の所有し得ないものや認識でないものの「顔」と対面すると自分の存在が「ただ存在するだけ=イリヤ」を感じてしまう。ということでしょうか。 ちょっとちがう。 整理しましょう。 「イリヤ」(il y a)っていう概念は、なかなかおもしろいものです。 『レヴィナス・コレクション』に所収されている「ある」という論文のなかで、レヴィナスはこんなふうに言っている。 ---p.215 からの引用---- 事物と人間双方を含むすべての存在が無に帰した状態を想像してみよう。…たとえそれが無であれ無の沈黙であれ、何かが生じる。「何かが生じる」の無規定性は主語の無規定性ではなく、実詞に係わるものではない。「何かが生じる」の無規定性は、非人称構文における三人称の代名詞のように、不分明な動作主をではなく、いわば動作主をもたない匿名の行為を指している。非人称、匿名ではあるが、消火することのできない存在のこのような焼尽、無それ自体の奥底で囁くこの焼尽、われわれはそれを“ある”(il y a)という語で表現する。“ある”は、人称形式を拒むがゆえに、「存在一般」なのである。 ----- むずかしいね。 だけど、押さえておかなきゃいけないのはここ。 「イリヤ」とは、主体がこれから形づくられていく場である、ということです。 さらに、無人称の世界、闇の世界であって、意識を持つ主体が成り立つ以前の段階です。 これはどういうことなんでしょう。 よくね、「ほんとうの自分」みたいな言い方をするでしょ、「ほんとうの自分はみんなが知っているような自分じゃない」。 この発想の根っこには、体のどこか奥深いところに「心」みたいなものがあって、そのなかに「ほんとうの自分」がひっそりといる、という考え方があります。 実はこういうのは大昔からあたりまえにあったわけじゃなくて、近世に入ったあたりからこんなふうに考えられるようになったんです。 だけど、もしそれがほんとうにそうだったら、赤ちゃんだって「ほんとうの自分」を持っていることになる。そんな哲学者みたいな赤ん坊を想像するのも楽しいんですが、実際の赤ん坊は、生まれてしばらくはお母さんと自分の区別がついていない。お母さんのおっぱいと、自分の手と、自分の口がつながっているように感じています。 つまり、「ほんとうの自分」のヒナ型みたいなものが生まれつき人間の内部にあるわけではない。 そうしてまた、その「ほんとうの自分」が他者を認識するのではない。 この「ほんとうの自分」みたいな意識は、わたしたちが成長するにつれ、獲得していったものです。それも単独で学んだわけではない。他者と関わっていくなかで、そうして言葉を覚えていくなかで徐々に身につけていった意識です。 ポイントはここ。 他者がいるから、主体も生まれてくるのです。 チャーリー浜は正しかった。「君たちがいて、ぼくがいる」。 そうなんです(あ、これわからなかったらどうしよう。吉本新喜劇のギャグなんですけどね)。 こういうことは、別にチャーリー浜、じゃなかった、哲学ばかりではなく、心理学とか、社会学の分野でも、いろんな角度から考えられていることです。 ただレヴィナスがユニークなのは、主体が生まれる場としての「イリヤ」を考えた点です。 身体を持ったわたしたちが、その身体として他者と交わり、そうすることで真の意味での主体として誕生していく。 そうした主体が生まれる場というのは、無人称で、無意識で、かつ、根底に不安がある場、自分が存在することは、他者を抑圧することになるのではないか、他者の場所を占有してしまっているのではないか、という存在の不安。 そういう闇のような場が「イリヤ」。 なんか、おもしろいね。 > また、語りかけてくる「他者」の語っている言葉は自分の内在する言葉ではなく、あくまで外部からの呼びかけなのでしょうか? さようでございます。 わたしたちは、他者の言語活動(言葉にならない言葉、身ぶり、レヴィナスの言う「顔」、沈黙も含めて)の〈意味〉を読みとりつつ、〈わたし〉の行う言語活動の〈意味〉を付与していきます。こうした〈意味〉は、他者と一致するように思っている。 つまり、他者の言葉に他者が現れていると理解し、一方で〈わたし〉は、わたしの言葉で他者を語り、言い表し、推論し、わかろうとする。そうしてこの〈わたしの言葉〉によって、他者そのものを真に現前させることも可能だと思っている。 ところが言葉は言葉でしかない。他者の言葉は他者を現前させるものではないし、わたしが与えた〈意味〉は、他者とは決して一致しません。 他者が語る言葉は、わたしに応えるよう呼びかける意味は発するのですが、何も決定的なことは意味しない。わたしはその呼びかけに応えながら、意味を付与していくのですが、いつもその意味された内容(こういうのをシニフィエといいます)から身をかわし、ずれていく。 それゆえに、他者の言葉は、〈わたし〉を超えている。高みに立つものなのです。 だからこそ、そこに他者に対する「渇望」が生まれていく。この「渇望」は、到達できないにもかかわらず自分が他者の方に無限に近づいていこうとする運動です。 なんとなく、わかってきたかしら。 かなりわかりにくい話をしているので、質問があればどうぞ遠慮なく。
補足
お答えありがとうございます。また質問なのですが、 なぜ他者は<わたし>に語りかけてくるのでしょうか? 「他者」と<わたし>の関係は同等でしょうか?やはり、お答えの中にあるように他者の言葉は<わたし>の高みにあることから<わたし>よりも上の立場にあると言うことでしょうか。 また「イリヤ」の状態にある<わたし>は例として「なんじ殺すことなかれ」と他者の顔に語られた場合、<わたし>はどう解釈するのでしょう? そして、多くのレヴィナスの書籍に登場する「他者への責任」とは果たして通常発生している「責任」と同等の意味でしょうか? 次から次へと矢継ぎ早に質問を浴びせてしまい、申し訳ありません。 それと、学校の発表でいくつかghostbusterさんの発言を用いらせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
詳しくないので、自信ありませんが、 「他者の顔の現前」と言った表現をしますから、 生身の他人の顔のことを言っていると思います。 おそらく、広い意味での他人には「顔」がないですね。 抽象的な記号や数、敵とか味方とか言った、区別ですね。 レビナスの場合、自己を「他人の為の存在」としていますが、 ここでの他人は、広い意味での他人になります。 他者の存在は、暴力そのものとしていますから、 そこから殺人とどう繋がるか、考えると良いのかも知れませんね。 あら、すでに良い回答が、折角ですから、投稿しておきます。
補足
私の誤字を指摘していただいてありがとうございます。 これからは「他者の顔」を使用していきたいと思います。 「他者の顔」についての概要は、わかりました。では、さらにいえば 「イリヤ」と「他者の顔」の関係も気になります。 自分の所有し得ないものや認識でないものの「顔」と対面すると自分の存在が「ただ存在するだけ=イリヤ」を感じてしまう。ということでしょうか。 また、語りかけてくる「他者」の語っている言葉は自分の内在する言葉ではなく、あくまで外部からの呼びかけなのでしょうか? 質問が多すぎてすみません。