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1850年くらいに?

天皇が議会を認めたのはなぜですか? 天皇はそれまで権力を握っていたのになぜ議会をひらいたのですか? Why did the emperor allow the DIET?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.5

ビスマルクのようないわゆる「アメとムチ」政策の一環です。 この以前に自由民権運動によって国会の開設要求が高まってきていたことはご存じと思います。当然これを無視し続ければ巨大な反天皇勢力となりうるわけですから、あくまで形だけ議院内閣制を導入することで押さえ込んだのです。これが「アメ」です。 一方で、議会を天皇の協賛機関とし自らは天皇大権を持つことでそれまで同様の権力を保持し続けました。結局は天皇独裁を維持したわけで、国会開設は形だけだったのです。あくまで中身を伴っておらず、主権は天皇にあったことに注意して下さい。 これに対し、実際の権力が天皇になかったとする人もいますが、学者の間ではこれは少数意見であることも述べておきましょう。

massacre
質問者

お礼

すごいなんかわかりやすくこたえていただいてありがとうございます!!

その他の回答 (4)

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.4

まず知らなければいけないことは、明治天皇は絶対君主で あったように見えるのですが、実際の政治権力は、政府の 有力者に握られていました。 |元勲と呼ばれる人たちです。当時ですと、伊藤博文・山県有朋・ |井上馨・大隈重信・松方正義など 日本の天皇は、西洋の絶対君主とは立場が異なるということを 理解して欲しいと思います。 次に「五箇条の御誓文」について、理解が必要です。 これは、明治維新以降の明治新政府の基本方針を、明確に 示しています。 |一 広く会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。 |一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。 |一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。 |一 旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ。 |一 智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ。 |我国未曾有ノ変革ヲ為サントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ先ンジ、 |天地神明ニ誓ヒ、大ニ斯国是ヲ定メ、万民保全ノ道ヲ立ントス。 |衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ。 漢語調で難しい日本語ですが、この中で |一 広く会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。 という最初の一文に注目してください。これは明らかに 絶対君主が独裁政治をするというのではなく、議会を通じ た民主主義政治を目指すという内容を表しています。 しかし、明治維新の直後は、政治情勢が不安定であったこ ともあり、明治新政府が独裁体制を敷きます。 それに反発する人たちは武装蜂起して抵抗しますが、最大 の反乱であった西南戦争が反乱側の敗北で終わったことに より、武力での抵抗をあきらめ、政治運動を通した反政府 運動に切り替えます。その流れの中に板垣退助・後藤象二郎 らの自由民権運動がありました。彼らは国会開設を目標と した運動を展開します。 次に、明治の元勲たちは、日本の近代化を進めるためには 近代的な憲法と議会を制定する必要があるという内容につ いては、認識がありました。 自由民権運動が高まりを見せる中、ついに明治政府は明治 14年 (1881年) に国会を開設すると発表し、国会開設と 憲法制定の流れが確定しました。

massacre
質問者

お礼

なんか日本史の授業のようです。くわしく解説していただいてありがとうございます。

  • Singollo
  • ベストアンサー率28% (834/2935)
回答No.3

Japanese emperor was (and is) not an autocrat. He was just a living symbol of the nation, and couldn't reject what his warlords thought good for his country.

massacre
質問者

お礼

わざわざ英語にまで直していただいてほんとうにありがとうです!!!

  • north073
  • ベストアンサー率51% (536/1045)
回答No.2

・天皇が権力を持ったとき(明治元年)に発表した方針(五箇条のご誓文)に、「一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と謳っていたこと。 ・西欧列強の制度を輸入することが日本の近代化の大方針であり、議会制度も近代化に必要であると考えられたこと。 ・天皇が議会を認めたといっても、立法権は天皇が持っており、議会は天皇の協賛機関に過ぎなかったこと(英国のParliamentとの違い)。 補足 ・天皇が名実ともに権力を握ったのは明治新政府(1868年)以降であり、議会の成立(1890年)のころは、新政府の政治制度はようやく確立しはじめたばかりであったこと。 ・西欧列強の制度を輸入する中でも、伊藤博文以下の新政府中枢は、後発国であり急速に先発国に追いつこうとしていたプロシアの制度が、同様の状況にある日本にふさわしいと考えたこと。

参考URL:
http://www.sangiin.go.jp/japanese/ayumi/history/html/mokuji.htm
massacre
質問者

お礼

ありがとうございました。参考になりました!!

  • Singollo
  • ベストアンサー率28% (834/2935)
回答No.1

実際はもともと薩長同盟に担がれた神輿に過ぎなかったからだろうと思いますが、人治国家から法治国家への脱皮が国際社会での地位の獲得と不平等条約の改廃に必須だったのも確かでしょう

massacre
質問者

補足

英語に翻訳して伝えなければならないのでもうすこし詳しく、それでいてわかりやすく教えていただけませんか?できれば歴史初心者向けに。

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