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どうして会衆は歌わない?
私は中年男性ですが、歌うことが大好きで、教会の聖歌隊や外部の合唱団に入って歌を歌っていますが、たまたま一般会衆席で見ていると、周りは全然歌に参加していないのです。私など子供の学校の例えば卒業式に参列してもその学校の校歌を一緒に大きな声で歌いたくなってしまう程(さすがにこれは周りを見てからにしますが、(笑))なのですが、世間一般の人って人前で歌うのはあまり好きではないのでしょうか?一方ではカラオケがおおはやりで、最近はプロ並みの素人の人も多いように思うのですが・・・。 特に男性は人前で(ただしみんなで)歌を歌うのが恥ずかしいのか、歌う場面でも口をろくにあけていないようなのですが、歌うという素朴な行為に喜びを見出す人は少ないのでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
遠慮なく歌ってもよい場が、かなり狭められてきているということではないでしょうか。 なんだか、みんな、変に回りのことを考えすぎのような気がします。そういう意味では、私も質問者様には同感です。 どうも合唱、斉唱などというと、学生時代のように、音の細部までこだわったり、回りと声色を揃えて音楽的に質を上げようとか…みんなで歌うとはそういうことだ、と、叩き込まれてきた人も多いのではないでしょうか。 相手の欠点や短所を気にしてばかりで、それをあざ笑うばかりで生活をしていると、いざ自分が何かをしようとしたとき、何もできなくなる。 相手の欠点が見えたら、「あいつも欠点だらけだ、自分も臆することはない」と、あけっぴろげに自分を晒すのも、人生の知恵なのにね。 もちろん、これは、「歌うこと」に当てはまる話です。恥ずかしい人も当然いるでしょうが、恥ずかしがらない人の割合が少なすぎるのではないかと、私は考えます。恥ずかしいからかどうかはわかりませんが、表現しない人が多数派になると、変にみんな、気を遣ってしまいますよね。 そういう意味で、私は最近よく言われる「鈍感力」という言葉が大好きです。人間、鈍感にならなければいけない時があると思っています。
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- Jimo
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ANo.1です。 > 教会のミサや礼拝、或いは卒業式といったイベントは、会衆が一つの目的に沿って、 > お互いに共感することが求められる場だと思います。 「共感が求められる」->「強制されるべき」というように受け取れます。まずミサに関して ですが,信仰心は強制されるべきものではありません。同じ宗教を信じていても,その信じ方 にはそれぞれのスタンスがあります。だからこそ,キリスト教にも様々な宗派があるわけで, その中でも個々は別の考えを持っていて然りだと思います。 私自身はキリスト教信者ではありませんが,若い頃にはカトリック教会といろいろな形で 関わっていました。その中で,斉唱を強要された記憶はまったくありません。もちろん, 司祭の言葉に対する一定の返答はそろって行っていましたけれど。また,個人的には 賛美歌等も記憶していましたので,一緒に歌ってもいました。しかし,これもあくまでも 自発的な行為であり,強要されたものではありません。 学校という組織では,教会とは多少異なる見方があるかもしれません。学校は,本来社会に おける一定のルールも学ぶところです(最近はそうではないらしいが (^_^))から,「歌う 時には一緒に歌いなさい」もありだと思います。ただ,それはそういうルールがある場合に 限るもので,ルールがないシチュエーションにおいては,やはり強制されるべきものでは ないと考えます。 これ以上は,回答と言うよりも,それぞれの思想による議論の対象になりそうなので,Q&A サイトにはふさわしくないと思います。河岸を変えて,議論ができる場所で疑問を投げかけ られることをおすすめします。
お礼
2度目の投稿を頂き、有難うございました。 強制のように聞こえましたか?それは失礼しました。どうも思い込みが強いもので・・・。同じ宗教を信じていても,その信じ方にはそれぞれのスタンスがある、というのはその通りだと思います。 勿論、歌うという行為は強制されるものではないと思います。声を出すことは楽しい、という自然な感情の発露だと考えています。 だからこそ、強制はしたくないが、ミサや礼拝などのある目的を持ったイベントや学校の教育現場などでは、なるべくその楽しさを知って頂き、参加して頂けるようにするリーダーや司会者或いは聖職者の力量が問われているのだと思います。
補足
Jimoさんがおっしゃるように、確かにこれ以上勧めると、議論の場になってしまう可能性がありますので、ここいらで締め切らせて頂こうかと思います。 皆様には色々示唆に富む回答を頂き、有難うございました。 参考にさせて頂きたいと思います。 それぞれが良回答だと思うのですが、2つに絞らせて頂きますことをお許し下さい。
教会に限ってお話申し上げますと、上手な方が後ろの方にいらして声を張り上げてくださると歌いやすいです。 賛美歌は数も限られているし、信徒なら知っていて当たり前・・・とは建前で、歌ったらすぐに忘れてしまう歌も沢山あります(私がナマケモノなクリスチャンなのでそう思うだけなのかもしれませんが)。そういうときにリードする方がいらっしゃると心強いんですよね。 皆が良く知っている曲なら、上手な方が一番をこうしてリードし、二番からはバスのパートを歌われると、残された(?)一般人がとにかくメロディラインを確保しなくっちゃ、と一生懸命に声を張り上げたりします。こうなると影の賛美歌指導者という感じです。 また性別に限らず、中年になると視力の関係で二番以降の歌詞が暗い教会では読みにくいということもあります(これはプロテスタントの讃美歌集の場合ですが)。簡単に照明を明るくできるようなものでもないでしょうから、眼鏡を携帯していただけるようにやんわりと伝えられると良いのですが、このあたりは難しいところだと思います。
お礼
私の教会では、週によって祭壇の横で参列者に向かった位置で歌うことと、後方2階の聖歌隊席で歌うことがあります。2階で歌う時は会衆の後ろから、祭壇にまで声が届くように歌っていますが、回答者様が言われるように、1番はメロディを歌ってリードし、2番からは各々のパートに別れて会衆にはメロディを歌わせるというのも、確かによいアイディアですね。 又、視力の問題もあるかもしれませんね。 色々参考になりました。
- ahcchacchi
- ベストアンサー率36% (92/255)
教会の聖歌隊については私達の所属する教会では来る者拒まずで参加して居ますのでどうしても音程が正しく取れないという人も居ます。その方などは周りが何と言っても「讃美する心が大切、音なんて違っても良い」と言う考え方を変えないのでまとめるのが大変なこともしばしば有ります。 さて…色々な人と接する仕事をしていますが、心無い教員に「あなたは音痴だから歌わない方が良い」的なことを言われて(学校でのクラス合唱などの際)傷つき、人前で歌うのが嫌になった、と言う人は結構多いです。 それに加えて先の方々がかかれている「歌って良いのかどうか」や「(感情を)表に出すよりは内面に向ける国民性?」などといった要素も関係しているのではないでしょうか? 教会の会衆の声が小さいと言うことについて言えば、私の所属する教会では「オルガニスト」によっても声の大きさが違います。つまり、オルガニストの奏楽が歌いやすければ(リードが上手ければ)大きな声で、奏楽が歌いにくければ(リードできなければ)小さな声に…と言う現象は現実問題としてあります(苦笑) 色々な要因で「自分は歌が下手、声が良くない」と思いこんでしまっている人も多いようです。そう言う方は人前では特に声を出さない…と言う傾向はあるかと思います。
お礼
確かに、歌に参加されるからといっても、調和を考えず好き勝手に歌われると困りますが、まあ全然歌わないよりはよいと思います。 私の参加している合唱団のメンバーはそれなりに歌の経験者が多く、比較的粒が揃っていると思いますが、本人にやる気があれば、経験がない人も受け入れています。指揮者(指導者)の言うには、「仮に調子のはずれた人がいても、私はその人に『歌うな』とは言わない。小さくきれいにまとめることよりも、全員が自分の声を出し切って尚且つ合わせられるようにしたい」とのこと。 自分を表に出しながら、周りを気にして出来る範囲で声を合わせるということが、いかに重要かをいつも認識しています。 教師やオルガニストのリードの巧拙や国民性の問題など非常に示唆に富むお話、有難うございました。
- maremare
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教会の聖歌隊に限定した話で。 プロテスタントも礼拝で出席者全員で歌いますが、 聖歌隊が前に出て歌うということは、 彼らの「賜物」(神様から特別にいただいた才能)によって 賛美を捧げ特別に奉仕をするという意味があるので、 会衆はあえて歌わないこともあります。 しかし「皆さんも一緒に賛美をお捧げ下さい」と言われれば 出席者も全員参加しますし、宗派によっては聖歌隊が出てきても 皆で賛美するところもありますね。 日本の教会でも、時々歌いにくそうにしている方がいますねー。 特に男性の方。 「賛美は上手い下手ではなく、気持ちで捧げるものです!」 と牧師に注意されるとやっと歌うという具合です。 英語にしろ音楽にしろ、日本の文化(教育?)が 技法の上手い・下手をあまりに重視し過ぎなんですよね……。 他の回答者のお答えのように、「恥」や 気持ちを表すのが下手(本音を出せない)文化の影響がやはり強いのかも。
お礼
確かに、カトリックでも、先唱や答唱の部分では、聖歌隊員の独唱や合唱だけで歌う部分もありますが、多くの部分は、ともに神を讃美し歌うのが基本であり、ミサの中で「歌う」ということは重要な要素です。 牧師さんが「賛美は上手い下手ではなく、気持ちで捧げるものです!」 と言われれば皆も多少その気になるということであれば、私どもももっと日頃からあきらめずに、声をかける必要があるかもしれませんね。 「皆に声をかける」という案の他にも、会衆を「乗せる」方法がありましたら、皆様教えて頂けると有難いです。 又、ここの所、教会の話になってきましたが、その他の場面のことでも何でも結構です。
私は学生の頃修道院の礼拝堂で行われていたカトリックのミサに参加していましたが、参列者も司祭の先導で歌っていましたよ。その頃はミサはラテン語で挙げられていましたが。 会衆が一斉に歌うのは主にプロテスタントの礼拝のようですね。ドイツではコラールを本来は斉唱で歌うものらしいですね。私は一度もカラオケで歌ったことはありません。いわゆる、流行り歌を知らない為かも。 歌を知らない世代もあるようですね。そうかと思うと、軍歌や軍事歌謡しか歌わない世代もあるようですが、必ずアルコール付きのような気がします。
お礼
ラテン語のミサとは、かなり前のことですね。確かに私の子供の頃はそうでしたが・・・。神父様がうまくリードして下さったのですね。 プロテスタントの礼拝では、会衆もよく歌われる、とのことですが、どこでもそうなのでしょうか? 私は、十数年前、フィリピンの教会で、会衆みんなが、声を競って歌うので、圧倒されたことが印象に残っています。やはり国民性が素朴だということなのでしょうか? 又、アルコールつきでなくては歌えないというのも、何か悲しいですね。
- ririri333
- ベストアンサー率67% (21/31)
こんにちは。 そうですね、、、会衆として歌う、、、という場面は少ないですね。 でも「歌うという素朴な行為に喜びを見い出す人は少ない」訳ではない気がします。 おっしゃるようにカラオケは大流行りですものね。 これは日本人の国民性じゃないかと思うんです。 歌ってもいいよ、と場を与えられればみんな思いっきり歌います。 校歌斉唱、合唱団、カラオケなどみんなそうです。 でも、そうでない場合「歌ってはいけないかもしれない」って思うんじゃないでしょうか? 個人主義が発達した国では、他の人がどう思おうが自分が歌いたければ歌います。 でも日本は集団主義、それに加えて<恥>の文化の国ですから。 もうひとつ、欧米諸国をみると天にいる神様に向いて(遠くに)歌う、という考えもある気がします。 オペラなどがそうです。 日本はもともと土地信仰で農耕民族ですし、内側へ感情が向いてきます。 欧米のドレスは裾を翻して歩きますが、 日本の着物は全て包み隠してまとい、見せ所は背中の帯に、という具合です。 ちょっとコ難しくなっちゃいました。 機会を頂いたので考えてみました。 私はこんな風に思ったのでした!
お礼
「日本人の国民性」(集団主義、<恥>の文化)とのご指摘、一理あるかもしれません。 欧米では、天にいる神様に向いて(遠くに)歌う、という考えもある、というのもうなずける所です。 確かにキリスト教のミサや礼拝は、神に向かって捧げるものですから、周りよりも、そちらの方向に向かって、心をこめて歌えば、恥ずかしさや歌のうまい下手は関係ないのだと思います。それでも周りが気になってしまうものなのでしょうか? 興味あるご指摘有難うございました。
これは、由々しき問題と思っています。 国民全体の雰囲気が「欝」状態に傾いているような兆候がありるようにおもえます。他の回答者の方とはどうも違いますね。 声を出す機会を利用して声を出す。これは大事なことです。そうすることによって全体の調和協調を確認する機会なのです。それがこの国にはない?いけないことです。 集団で歌う、これはカラオケとは違う、集団的団結を内包する行為です。だからこそおろそかにしてはいけないんです!私は強くご質問者さんの感覚を支持します。
お礼
歌声喫茶などでみんなで盛り上がっていた時代は過ぎ、時代はカラオケルームで自分の歌声にだけ酔っていればよいという、個室化、個性化、個人化の方向にあるのかもしれません。 出来れば、カラオケルームで腕と度胸を付けたら、皆との合唱の場にも戻って来て頂き、皆と場を共有、共感しあってほしいと思います。 人間の発声には、ひとりひとりの「気」や「オーラ」があふれているものです。それが合わさった時のパワーは、ものすごいものがあると思います。一人でも多くの人に、共に歌う喜びを味わって頂きたいものだと切に思います。
- datdat
- ベストアンサー率27% (38/137)
私は歌いません。なぜなら恥ずかしいからではなく、自分の声が周りの人に迷惑で不快な思いをさせるかも知れないからです。歌が嫌いなのではありません、クラブ活動ではコーラスのピアノ伴奏担当でした。だから特に下手な歌は聴きたくないのです。よく他人のことを考えないで無神経に歌う人がいますが、実に不快で耳を塞ぎたくなることがあります。世の中にはなんとも思わない人もいれば、不快に感じる人もいるということです。自分は声がきれいだとか、上手いと思っていても聞かされる他人はどう思うのかわかりません。そういう場合、私はおいしい料理の中に突然虫が入り込んできたという感じがするのです。
お礼
ご回答有難うございました。 確かにTPOをわきまえず、自分の歌う場面でもないのに、周りを気にせず歌う人もいますね。例え美声の持ち主でも、周りと調和しない歌い方は、雰囲気を壊すものだと思います。 日頃合唱に参加していますと、他の人と声を合わせることの重要さがよくわかります。合唱は独唱のように自分の個性を主張することができないから嫌だ、という人がいるかもしれませんが、他人と声が合わさった時の快感も又たまらないものです。 会衆が心と声を周りと一つにして、参加される姿は、大変崇高で、共感を得られるものだと思います。
- Jimo
- ベストアンサー率37% (68/179)
合唱とカラオケは違います。合唱が得意でも,カラオケ歌いができない人もいます。大抵は その逆ということではないでしょうか。貴方が歌っている曲がどういう曲かは分かりませんが, 一般の人が知っている歌でも,合唱用にアレンジしてあると,他の人は歌いづらいと思い ます。 > 歌うという素朴な行為に喜びを見出す人は少ないのでしょうか? 逆に問います。貴方は,例えばスポーツをやっている人に共感を持って,そのスポーツ が一緒にそのどんなスポーツでも,一緒にやろうと思いますか?そうとは限らないのでは? 人はそれぞれです。気持ちを押しつけてはいけません。共感してくれる人がいれば,それを 喜べば良い。共感しない人がいても,謳わない人がいても,それはそれです。恥ずかしいと いうのも,自然な気持ちだと思いますよ。
お礼
早速回答を頂き、有難うございました。 確かにクラシックの合唱団に参加している人は、カラオケで主に歌われるポピュラーソングとは発声法が違うせいか、あまりカラオケには行かない人が多いようです。又、カラオケで独唱に慣れている人がみんな合唱に向くかというとそうではないと思います。私は、歌うという行為自体が生きがいなので、どちらでも喜んで参加しますが・・・。 回答者様がおっしゃるとおり、人はそれぞれ得手不得手や好き嫌いがあるので、人に押し付けるのは好ましくはないとは思います。一般的な集まりでたまたま歌が出し物の一つとして出たりした場合は、共感してくださる方だけに、お願いすればよいのでしょう。 しかし、教会のミサや礼拝、或いは卒業式といったイベントは、会衆が一つの目的に沿って、お互いに共感することが求められる場だと思います。そのような場では、一人でも多くの参加者が、歌であれ何であれ、その場で進行する事柄に進んで参加することによって、そのイベントは、よりみんなの共感するものになり、盛り上がるのではないでしょうか?
お礼
私が疑問なのは、歌に参加している方が極端に少ないことです。それは、中には歌いたくない方や、声帯等が弱く参加できない方もおられるでしょう。でもこれだけ大多数だと、果たしてそのイベントに参加する意味があるのかとどうしても思ってしまうのです。 自然と表現しない多数派に、変にみんなが気を遣ってしまうということになるのではないか、とのご指摘に共感する所です。 渡辺淳一氏の「鈍感力」私も読みました。気を遣うのもほどほどがいいと思います。