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1605年に秀忠が16万人の兵を率いて伏見城に来た理由

1605年、秀忠は東国の兵16万人を率いて京都伏見の家康のところに赴いた。これは将軍の地位を家康から譲ってもらうための示威行為でしょうか? 結果的に譲渡はその年に達成されたのですが、家康は大御所として権力を握りつづけました。

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noname#26663
noname#26663
回答No.3

征夷大将軍は、必ず授けなければならない。 ではありません。 最高の官位に近いですから、 他の官位を授けておいてもったいぶる可能性もあります。 天皇や公家に実力を見せ付けるのも理由の一つに思えます。 数代続けば、「征夷大将軍は、慣例である。」とされ、 授けない方が「先代未聞ノ事ナリ」となります。 #1様のコメントを引用させてもらえば、 1600年の関が原では、豊臣家臣同士の争いとして片付いています。 ねねが家康に付くように言った理由がこれです。 半ば人を見る眼力はあったのです。 戦いが終わり、家康以下各大名は豊臣秀頼に忠誠を誓います。 この状態で、家康が豊臣政権の主導権を握った訳です。 ねねの願いも空しく、 この3年後に家康自体が征夷大将軍として徳川幕府を開きます。 天皇や公家は、官位を餌に都合のよい政治をもくろむ事は予測出来ました。ここで、16万人の兵力を見せると言うのは、 公家連中に。 豊臣をダシに使って暗躍を試み、もし失敗した場合、 天皇や公家の権威と生命は風前のともし火となると思え。 大名に。 豊臣に加担した場合、お家は無いと思え。 こう言う脅しが大きかったと思います。

その他の回答 (2)

noname#25898
noname#25898
回答No.2

家康の絵図(計画)では、ないのでしょうか。 従順な秀忠に、自分の意思で、示威行為など、できないかと思います。 広く社会にアピールが目的だと思います。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.1

将軍職の世襲を天下へ示し、政権を豊臣秀頼へ譲ることはありえない、とのメッセージを込めた示威行為かと。 家康は大御所として実権を持ち続けるのですから、家康に対する示威は必要ないし、もし親子が不和であったなら、なるべく隠そうとするのではないでしょうか。

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