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ノートに、ある漢字を書き続けていると、文字と思えなくなってくる?
前から気になっていたことなんですが、漢字の練習の為にノートに同じ漢字を十数回書き続けていたら、まるでその文字を、文字と思えなくなってきました。 たとえば、「尚」という漢字を十回書きます。そうすると、7~8回目あたりで、漢字のバランスが崩れて、『この漢字は「尚」じゃないだろう。なんだか変。』と思ってしまうのです。 これは、つまりどういったことなんでしょうか。よろしくおねがいします。
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文字がシニフィアンからシニフィエに変わるためです。 通常、文字は何かを指し示すもの(シニフィアン)であって、指し示される対象(シニフィエ)ではありません。例えば、「猿」という文字は、実際の「猿」を指し示すものであって、「猿」という文字自体に意味があるわけではありません。このようなシニフィアンは、日常生活では、それ自身の「具体性」は捨象されます。すなわち、印刷された「猿」も、吉田さんが書いた「猿」も、田中さんが書いた「猿」も、ワープロでプリントした「猿」も、皆同じ「猿」と見なされます。実際には、それら一つ一つの「猿」という文字には個性があって、異なっているはずですが、その違いは捨象されてしまいます。日常生活では、文字自身の個性は問題とならず、その文字が指し示す対象にこそが関心が向かうからです。 ところが、その文字を何回も繰り返して書いたり、じっと見つめたり、あるいは、ふっと心が日常の喧騒から離れたりすると、「文字」自身が関心の対象になります。このとき、「文字」は、何かを指し示すシニフィアンではなく、それ自身が関心の対象であるシニフィエに変化します。そうすると、その文字自身の個別具体的あり方に気づき始めます。そして、文字は「文字としての役割」ではなく、単なる、幾何学的「線の集合」として見えてきます。これが、「文字」が「文字として見えなくなる」理由です。
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- tenntennsevengoo
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自分の解説がゲシュタルト崩壊と一致してるかどうかわかりませんが 解説します。 発揮し言ってマンネリ化ではないかとおもいます。 たとえばひとつの単語を何回も繰り返して喋っていると 初めの目的と後のほうの目的では喋っている目的が違います。 いや同じだと思う人は1度やってみて下さい。 初めは ほんとかな~? とか思うのでしょうが3・4回目になってくると あ・ほんとだなんか違和感感じてきた とか目的が変わってると思います。 20回目ぐらいいなると感情がぼーとして来るかもしれません。 心理学会に発表してもいいくらいですがおしえますw。 精神状態と物理的変化にズレが 生じたんでしょう。ひとつの単語「あいうえお」だとしたら 「あいうえお」は永久に変わらないのです。
お礼
うーん。 なんだか難しくて僕には・・・ じゃあこういうことですか? 「3」という単語には、ものの数量を表す、という意味があり、その意味を自覚して喋っていても、何回も喋っていると「san」という単語としてズレてきてしまう。という事でしょうか。 ありがとうございました。
- suzukikun
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以前テレビの「トリビアの泉」で紹介されていました。「ゲシュタルト崩壊」というのだそうです。
お礼
回答ありがとうございました。 URL見させていただきました。
お礼
なるほど!わかり易く説明していただきありがとうございました。 あの現象は、文字がただの線の集まりになってしまうんですね。 ありがとうございました。