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勤皇と左幕
幕末の動乱で相対した勤皇派と左幕派なんですが、たとえば長州の山口県と 会津の福島県はいまでもあまり仲がよくないと聞いたりしますが、ほんとのところはどうなんでしょう? そんなにしこりがのこってるんでしょうか? 東京都民の私は自分の先祖がどっち派だったなんて気にもとめないんですけど、やはりあるんですかね?
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山口県はどうか知りませんが、長州の中心都市萩市と会津若松市はいまでも仲が悪いそうです(下記HP)。 一般に対抗意識のある自治体として、次のところが知られています。 赤穂市 ⇔ 吉良町、米沢市 弘前市 ⇔ 青森市 松本市 ⇔ 長野市 淡路島 ⇔ 徳島市 石川県 ⇔ 富山県 青森県 ⇔ 岩手県
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- cse_ri2
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幕末というと、勤皇派と佐幕派("左"ではありません)の 対立が軸となりますが、もっとも激しく対立したのが 勤皇派の代表である長州藩と佐幕派の代表である会津藩です。 その対立の歴史を簡単に記します。 ・池田屋事件 京都の池田屋に勤皇派が集まって会合(京都焼き討ちと いういささか危ない計画を討議)していたところ、京都 守護職の会津藩の配下の新撰組が襲撃。 メンバーの多くが長州藩士であり、その多くが新撰組の 刃に倒れた。 ・禁門の変 当時、過激な行動を繰り返す長州藩と仲が悪かった薩摩 藩が佐幕派の会津藩と手を組み、クーデターを決行。 京都から長州藩を追い出す。 ・蛤御門の変 追い出された長州藩が、国元から武装した兵を引き連れ て朝廷に陳情する。 当然、会津藩を含む佐幕派との戦争になるが、ここでも 薩摩藩が大活躍し、長州藩は敗退する。 以後、大政奉還に至るまで長州藩は朝敵となり、京都に 潜入した長州藩士の多くは、新撰組の餌食となる。 ・鳥羽伏見の戦い その後薩摩藩は、坂本竜馬の仲裁で長州藩と同盟を結び (薩長同盟)時代は討幕へと進む。 大政奉還後、ようやく長州藩は朝敵の立場から解放され るが、まもなく薩摩藩と共に幕府および佐幕派の諸藩と の戦闘となる。(鳥羽・伏見の戦い) 佐幕派の中心は会津藩と新撰組であったが、武装が旧式 であり、元込式連発銃など最新鋭の武器で武装していた 薩摩・長州の連合軍に敗退する。 ・戊辰戦争→会津藩降伏 鳥羽伏見の戦いで、薩摩・長州藩は官軍となり、土佐・ 佐賀藩などを加えて、江戸→東北へと進軍。 会津藩は恭順を申し入れるが、長州藩の激しい反対で受 理されず、会津藩との戦争が始まる。 最新鋭の武器を持ち勢いに乗る官軍に対して、会津藩は 敗退を続け(この時に白虎隊の悲劇が起こった)、会津 若松城に籠城するが、結局は開城・降伏となります。 官軍の会津藩への戦後処理は極めて厳しく、寒冷の下北 半島に会津藩士を移動させた。 ...ということで、長州藩と会津藩は幕末のほぼ最初から 最後まで戦い続け、相手への怨念が相当積もっていたんですね。 そして敗者の会津藩は、親政府からも優遇されずにいました。 現在でもそのしこりが完全に解けていないのではないかと、 私も考えています。 #特に高齢者はそうでしょう。参考URLを参照のこと。 #若い世代はそう深刻でもなでしょうが。
お礼
池波正太郎の幕末の小説などを読むと、その時代背景に対立の経緯を 感じることができますが、やはり根が深いんですね。 また、幕末の小説や歴史書を読みたくなりました。 ありがとうございました。
お年よりにはそういう方もいらっしゃいますが、普段はまったく気にしていないようですよ。 ただ、孫の結婚となると物言いを付けてくるかもしれませんね。 お父さんに却下されると思いますが・・・ 若い人達は戊辰戦争すら知らないのが現状みたいです。
お礼
ありがとうございました。 遺恨の対立はほどほどにとも思いますが、過去の出来事は 忘れずにいてほしいですね。
お礼
根深いですねえ。 赤穂と吉良ですか・・・・。ここは因縁をかんじますね。 弘前と青森もなんですか? え?松本と長野も? 調べてみます。 ありがとうございました。