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遣隋使、小野妹子
名前は女っぽいけど、男なのは知ってますが。それはさておき、聖徳太子から派遣を任じられて中国へ渡った訳ですよね?言葉も分らない。中国の地理も分らないであろう使者が、どうやって時の皇帝もしくは主要と会えたのでしょうか?アポなしで行ったら、上陸した時点で異人扱い(異人だけど)で殺されたりするんじゃないでしょうか?詳しく教えてくださいm(__)m 。
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本論に戻って遣隋使、遣唐使の話ですが、最初の遣隋使は隋書の記録しかないので、二回目の小野妹子の場合についていうと、渡来人の通訳など数十人が同行し、多くの土産(貢物)を持参しました。 まあ朝貢とも見られます。 上陸し隋の役人に会い案内されました。 国書に問題があっても歓迎されるわけです。 のちに返礼の使者が日本に来ています。 どんな物を持参したか、のちの遣唐使の例では、銀500両、絹、木綿、麻の織物、瑪瑙、金漆、甘葛汁、椿油などの貴重品です。 これらは、留学生の滞在費のほか、持ち帰った貴重な仏典などの帰りの土産の代価とも見られ、一種の貿易で朝貢とはとけしからんと、目くじら立てることもないようです。 人数も733年の真人広成の時は総数590人、通訳、医師もおり相当する貢物は多額の費用になったでしょう。 海難で水没することも多く国の負担大でした。 砂金も贈られましたが、後期の遣唐使の話です。
お礼
回答ありがとうございます。遅くなりましたm(__)m 。そうなんですよね。色々、持参してったようです、小野妹子。 あと、秦氏の話ですが、始皇帝時代に天ロク秘ケツで。胡が秦を滅ぼすという文章をキョウド(エビス)と勘違いして、万里の長城を作ったんですよね。胡の本当に意味は始皇帝の子の胡亥だったんですけどって、既にご存知のネタかも。