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往生際
往生際って意味でなくて仏の世界・阿弥陀の、つまり金輪際のことでしたっけ?それともちがうのでしたっけ。
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金輪際は、仏教の須弥山(しゅみせん)という世界観において、大地は虚空の上に浮いていて、風輪の上に水輪、水輪の上に金輪が乗っていて、その上に我々が住んでいる世界がのっかていることになります。要するに「金輪際」は世界の果ての果てのギリギリのところと考えていただければわかりやすいと思います。 それの意味が転じて、物事の最後の最後までというような意味でもちいられるようになります。 「此の大地の底は金輪際とて、金を敷き満ちたり」『盛衰記』 「聞き掛ったりゃ、金輪際聞かにゃおかぬ」『伎・韓人漢文手管始』 それが、また転じて現在のように「金輪際~しません」というような、下に打消し語を伴った強い決意を述べる語になったようです。 往生際は、もともと往生という言葉は他の世界に行って生まれるという意味です。そういった信仰の主なものをあげると、阿弥陀仏の作った世界に生まれて仏にしてもらう極楽往生。弥勒菩薩が修行しておられる兜率天(とそつてん)に行って一緒に修行する兜率往生。十方(東西南北上下に北西・北東・南西・南東)にいる仏様の世界のどこかに行きたいという十方往生があります。それがやがて、浄土教が流行するとともに往生=極楽往生になっていったようです。 そこから死して後極楽往生するということから、「死に際。死ぬ間際。また、そのときの様子。」ということになり、死という逃れ難い状態という意味から転じて「追い詰められてどうしようもなくなった状態。」ということになったようです。 質問の意図が読みきれず申し訳ありません。一応二つがどういった過程で生まれてきた語かを簡単に載せておきました。参考にしていただければ幸いです。 合掌 南無阿弥陀佛
お礼
そうです。阿弥陀でなく須弥山でした。どうもありがとうございます。参考にします。