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益田孝
明治時代に三井物産の社長になり、明治大正昭和初期の日本の経済界のボスとして君臨したと言われる益田孝について教えてください。 下級武士とはいえ旧幕臣であったのに、なぜ長州薩摩閥の政治家に深く食い込み、経済界に君臨することができたのでしょうか。 幕臣のほとんどは、薩長閥に冷遇され、能力があっても重く用いられなかったのに、なぜこの人は、立身出世が可能だったのでしょうか。
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彼の出世の一つは、三井の番頭と揶揄された長閥井上馨の知遇の影響が大きいと思います。 井上馨という人は、一旦見込んだらその人の出自を問わず、引き立てたということです。益田は井上に見込まれるだけ有能であったのだと思います。また苛烈な気性の井上とも肌があったか、或いはよく耐え得たたのかよくわかりませんが、益田の楽観的で潔い性格が井上に好まれたのだろうと思います。 それと若いときに外国を知っていたことが、益田の全ての原点になっています。当時は薩長側も幕府側もこのような人はそういません。 それと出世といっても民間側の出世(男爵)ですから、薩長閥の締め付けはそれほどないと思われます。 確かに、当時は薩長閥というものはありましたし、薩長出身でおかしな人が官界で高い地位についたこともありました。しかし、特色ある有能な人材そして出自が上流ではないと思われる人が、実力一本でのし上がって行った時代でもあったと思います。 陸大や高文を知識の詰め込み一本槍で合格した、金太郎飴のような人々が、負ける戦争に導いて行った時代と違い、よき時代であったと思います(最後の三行余計でした、ごめんなさい)。
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- code1134
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http://www.mitsuipr.com/history/qanda.html の15に益田孝が創立に参加した(旧三井物産の前身たる)先収会社は山口県の地租引当米を担当した、云々と明示されていますから、薩長(特に長州?)は無視出来ぬ存在だったと私の眼には映るのです。 又、下記HPの★闘い半ばでの死で、岩崎弥太郎は益田孝の知恵が契機となり再結集した反三菱勢に敗れた旨の記述がありますから、"ネットワークを構築し、経営戦略的に巧く活用して行く"才に長けていたって事なのでしょう。http://j-net21.smrj.go.jp/venture/column/20040625.html そして、その才を磨く目的の為だけで、嗜んだと迄言いませんが、小田原三茶人http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E4%B8%89%E8%8C%B6%E4%BA%BA の1人名を連ねるのも、世間話等を通して、情報網を拡げたかったからだと私は思うのですが、如何でしょうか? http://www.mitsui.co.jp/company/pr/2006/1175405_842.html http://mitsui.mgssi.com/terashima/0404mgssi.html
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ご回答ありがとうございました。 益田孝の自叙伝を読んでも、三菱との競争を詳しく語っていないのですよ。 と言うよりも、自叙伝では大切なことほど何も語っていないんです。どうでもいいことばかりです。 この辺りに、用意周到と言うか、慎重というか、秘密主義と言うか、そういったものを感じます。恐らくは、他人に言いたくない、記録に残したくない魑魅魍魎のあれこれがあったのでしょう。 そのくらいの用心深さがあったからこそ、「政商」として成り上がることが出来たし、長生きすることが出来たのでしょう。 益田孝と同じような立場の団琢磨は暗殺されたそうですから。 お茶は・・・情報収集だったのでしょうか?当時の金持ちがやるべきことだったのかもしれませんね。 お茶会が、今で言えば財界人のゴルフみたいなもので、ゴルフ場で会って情報交換するように、お茶会で密談でもしたのでしょうか?
- sgi1962
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渋沢栄一も埼玉だけど、大物になった。 実力ですよ、要は。
お礼
渋沢栄一は才能がある人だったのでしょうが、それだけでは立身出世はできないでしょう。 渋沢栄一の幕臣になるまでの出自はご存知ですよね?
- komes
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確かに薩長閥というものは存在しましたが、実務官僚は幕臣の方が優れていました。 これは幕府時代において実際に実務に携わり経験を積んでいたからで、下級官僚出身の薩長閥の及ばぬ所でした。 従って榎本武陽が外交官として重用されたり、勝海舟もかなりの地位についています。 旧幕臣の中には外遊経験者もいましたし、政治の表舞台でない部分は幕臣であった人が能力次第で活躍することは多かったのです。 もちろんこれらの人々も薩長閥に知己や能力を認められる必要はありましたが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 実務能力があって経験もある旧幕臣でも、あくまでも新政府の下積みとして使われて、表面上出世したのはほとんどが薩長閥という時代です。 榎本や勝は新政府のもとで栄光を得たけれども、旧幕臣からは裏切り者扱いをされて非難の対象になったことも事実です。 福沢諭吉の「痩せ我慢の説」はご存知でしょう? 以上のような状況の中で、益田孝が富貴栄達をどうやって手にしたのか、というのが質問の趣旨です。
- tanuki4u
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幕臣のほとんどは、薩長閥に冷遇され、能力があっても重く用いられなかったのに === こういうのが常識なのでしょうか?この常識がどこから来ているのか不明です。 益田孝自体は、幕臣の子であり、ばりばりの幕臣であった榎本武揚は、大臣になっていますし、渋沢栄一は、実業界の大物。 幕臣の子弟の方が一般に、海外留学など幕末で西欧文化に触れる機会が多かったので、明治時代に政治以外では、能力を発揮しております。
お礼
ご回答ありがとうございます。 幕臣で能力ある人でも、明治時代に冷遇されたのは事実です。 薩長でも幕臣でも、江戸末期に留学できた人がどれだけいるのでしょうか。武士階級の中でもごくごくわずかです。 幕臣で明治時代に活躍できた人は、幕臣の数(旗本に限定して考えたにしても)からすればごくわずかです。それも下級武士がほとんどではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 益田孝に商才があったのは確かでしょうね。 不遇に生涯を終えた幕臣が多い中、成功者として生き抜くには、商才に加えて人間関係を上手に泳ぐ能力があったのだろうと思います。 政治なども官界と違って、商人になったことで、薩長閥の独占も弱かったのかもしれませんね。