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蜂須賀家について
阿波徳島藩の蜂須賀家について教えて下さい。 (1)蜂須賀正勝(藩祖?)のイメージと実像、豊臣家での位置付け (2)蜂須賀家正(初代藩主)のイメージと実像、豊臣家での位置付け (3)蜂須賀家正(初代藩主)が淡路島を拝領したエピソード
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こんにちは。 質問に関して、部分的にお答えします。 (1)蜂須賀正勝(藩祖?)のイメージと実像、豊臣家での位置付け 正勝は野武士の粗野な 人物ととらえられがちだそうです。のちに美濃・斎藤氏、尾張・織田信賢、尾 張・織田信長及びその臣木下藤吉郎(秀吉)に仕えたそうなのですが、それまでは 人々から金品を奪う盗賊のかしらとして千人あまりの野武士を引きつれていたそうです。 粗野で乱暴ものというイメージはそこから来ているのだと思います。 そののち、秀吉に出会い、織田信長の岐阜城攻めに際して、木下藤吉郎 が墨俣城を築くために正勝の手助けをもって、墨俣を一夜にして完成させたそう です。 基本的には唯一無二の策士であり、 勇猛ではあったが、 それよりも適を説得して味方にしてしまうなどの知略に長けた実務家と しての仕事を得意としていたようです。 http://www.m-network.com/sengoku/busyo/busyo-ha.html http://www.ne.jp/asahi/taniyan/castle/html/gunki/hachisuga.htm http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sn-dos/sengoku/l_ha.htm http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/hatisukamasakatu.html B.以上のエピソードからもわかるように、秀吉が信長に気に入られていた 要因の一部を作ったのは正勝であり、秀吉にとって、唯一無二の戦略家だったようです。 大事な取引や、駆け引きにはかならず正勝は欠かせないといった存在のようです。 http://www.town.miwa.aichi.jp/miwatown/html/rekishi/busyou_1_2.html http://shiro39.hoops.ne.jp/shikoku/tokushimajyo.htm (2)蜂須賀家正(初代藩主)のイメージと実像、豊臣家での位置付け 彼は幼少のころにお寺に預けられていたという経緯もあり、 信心深かったようです。後に出家をしています。 彼もまた、父正勝のように抜群の戦功をほこっていたようです。 大坂の陣の戦功により淡路一国8万石を追加して拝領しているそうです。 (阿波の領地はもともと父正勝に秀吉より与えられたものですが、 正勝は高齢を理由に、秀吉に息子の正勝に与えるように懇願したようです。 そのため、藩祖は正勝だが、初代藩主は家政と認識されているようです。) 彼も策にたけた人物だったのでしょうね。 彼の息子である蜂須賀至鎮 ですが、家政は至鎮 を徳川家康の娘(養女)婿 として差し出しています。 つまり、大阪の陣のとき、父である家政は西軍(秀吉側)ですが、 息子の至鎮 は東軍につきました。 これにより、蜂須賀家はお家お取りつぶしの難を避けることができたのです。 大阪の陣のあと、西軍の武将はお家お取りつぶしになったり、領地を減らされた り、没収されたりしていますが、至鎮 が東軍にいたおかげで、至鎮 は 父が没収された領地をそのまま拝領し、蜂須賀家はその後も繁栄を続けることが できたのです。 このエピソードから想像するに、 まず、1 家康にとっても蜂須賀家の存在は大きかったと言うこと。そうでなければ、婿にはとりませんよね。 そして、家康が蜂須賀家を取りこんでおきたかった 理由は蜂須賀が家康の政敵である秀吉にとって、重要な人物だったからだと思われます。 2.やはり策にたけていると思います。 時代は家康にあり、ということは家政には分かっていたのだと思います。 自分は父とともに秀吉に仕え、重宝されてきたのですから、 たとえ、東軍に寝返っても、信じてもらえないでしょうからね. むろん、それだけではないでしょうけど。 しかし、ちゃんとお家存続の道を考えたのでしょうね. 以上素人意見でした。 (3)蜂須賀家正(初代藩主)が淡路島を拝領したエピソード
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- miska
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蜂須賀家(正勝以前)の実像は野盗ではなく通常の豪族だと思います。 いくら戦国の世とはいえ、民の害にしかならない存在では味方に取り入れる以前に討伐の対象になることは間違いないでしょう。 野盗の頭と思われるようになったのは太閤記などの物語の影響で、"実像"ではなく"イメージ"の範疇ですね。 ついでに言えば、正勝が初代藩主ではなく藩祖となるのは、彼が徳川幕府成立どころか秀吉の天下統一以前に病死(1586)してしまっているからで、当然といえば当然です。 家政ですが、豊臣家にとっては数少ない譜代の家臣ということで、加藤・福島らに次ぐ扱いを受けていたのではないでしょうか。 彼が西軍についたのは大坂の陣ではなく関ケ原の戦いです。 # 大坂の陣で表だって大坂方についた"大名"は存在しないはずです