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松下村塾で教えていた学問は主に何だったのでしょうか。

松下村塾で教えていた学問は主に何だったのでしょうか。 例えば、論語とそろばんとか? 教えてください。

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  • ベストアンサー
  • nogul2n
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回答No.4

3番の者です。図書館に行ってみたら、記憶がちょっとずれてました。  「孟子」を講義したのは、松陰が松下村塾で教えるハシリの時期でした。親、兄妹、親戚、近所の人たちに自室(幽閉室)で「孟子」を半年間講義し、その次に山鹿流兵法「武教全書」の講義を始めます。その直後に「松下村塾記」という文を書いて、自分のやる教育の意義を記します。  ですので正確にいうと、松下村塾の創生期に教えていたのが「孟子」だった、わけです。では本格的に教育意欲を表明したあとには何を教えていたか。  ・上記の「武教全書」  その次には、一人ひとりの学力や個性に合わせて教科書を変えたそうです。塾生間の学力差が激しかったので、その人に合った本を選び、授業は自然と、複式授業、極少人数によるグループ学習になっていったようです。  ここで、いい本がありました。 海原徹著「吉田松陰と松下村塾」ミネルバ(ウに濁点)書房1990年  です。第5章 一人ひとりを生かす教育 では、     ・学規・教則を排する     ・出入り自由の学習     ・塾生が教科書を選ぶ     ・授業の実際 等が載ってます。時間割もなく、勉強したい者がやって来れば授業が始まる、個別の対読という学習方法が多かった、家が近いのにフラッと来て泊まっていく塾生もいた、・・・などのことが書いてあります。自由な雰囲気が居心地良く、それが自主的な学習意欲が高まることにつながったようです。  松陰の教育は、ほめて自信をつけさせ才能を伸ばす、ほめる教育だったそうです。ていねいにやさしい口調で話し、ごくまれに怒ることがあってもおだやかに諭し、必ず励ましの言葉を加えたそうです。いい先生~。  教科書として名が出てくるのは他に、  ・「日本外史」(日本の武家の歴史)  ・「春秋左史伝」(中国の古代史)  ・「資治通鑑」(同上)  ・「史記」  ・「論語」  ・「大日本史」  等です。  他にも  ・西洋兵学(松陰が長崎と江戸で学んだ)  ・漢詩  ・読み書き  ・時局討論  ・野良仕事    等をやったようです。  上記「吉田松陰と~」には塾生100名の氏名、職業、なども載ってて、なかなかくわしいですよ。前に「全集」をおすすめしましたが、松陰の文は8割が漢文だそうで、「全集」には書き下し文にして収録してくれてますが、それでも古文体ですから、なかなか・・・ですものね。

momoko3
質問者

お礼

すごく丁寧にお答えいただき、感謝しております。早速おすすめの本を読んでみることにします。本当にありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • nogul2n
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回答No.3

四書五経の一つである「孟子」です。 松陰自身が講義内容を記した、「講孟余話」という文章が、「吉田松陰全集」に入っています。 「吉田松陰全集」は、戦前1935年に岩波書店から出され、           戦後は、1972年に大和書房から、               2001年にもマツノ書店から出されているようです。お近くの図書館にもありそうな感じですね。  また、1番さんが書いていらっしゃるとおり、松下村塾は寺子屋だったので、幽閉中だった松陰へ、生徒達がお米とか野菜をお礼に持って行ってました。松陰は超細かい(几帳面?)な性格だったようで、もらったそれらを記録に取ってて、いついつ誰が何を持ってきたとかの記録も全集にのってます。全集、結構おもしろいですよー。最後に江戸で捕まった時に、牢屋で最初にしたのが、牢屋の役人にワイロ(こころずけ、とも言いますが)を渡して、実家へ手紙を書いて、これからもっと必要になるワイロ用に福神漬けを2樽送ってくれと書いたり(流通が発達していなかったあの時代にそんな大きいものを送るのは運送代がとっても高そうですが)、・・・意外な松陰の姿がわかったりしますよ。話がちょっとそれました。ともかく、全集がおすすめです~。

  • IXTYS
  • ベストアンサー率30% (965/3197)
回答No.2

吉田松陰は10才で藩公・毛利敬親に進講講義をするほどの英才でした。 その能力に目をつけた藩公は参勤交代に松蔭を同行させ、江戸で佐久間象山(しょうざん)に洋学や兵法を学ばせ、豊後の日田におくり、私塾を開いていた広瀬淡窓(ひろせたんそう)に儒学を学ばせています。 この時、淡窓は50代後半、松蔭は十代の前半でした。  象山から世界最新の産業技術を、淡窓から慈愛のこころを学んでいます。 ですから、松蔭は当時の日本でも指折りの学者となっていました。 長州藩に帰って、萩で松下村塾を開きましたが、規模は寺子屋程度のものです。 しかし、その講義の内容は幅広く、深遠なものでした。  教え子と向かい合いマン・ツー・マンで膝を交えて個別教育をしています。 その内容は、これからの時代を予見し、『新しい時代には、君はこういう長所を活かして、こんな道に進みなさい。』といった進路指導が主だったようです。 それも、産業技術の習得を薦めています。 単に革命思想を吹き込むだけではありません。 欧米の進んだ技術をわかりやすく教え、その中で造船技術、蒸気機関の理論や新しい農業感慨技術といった実学をも教えています。   こんな知識は武士しか学ぶことの出来なかった時代に、広く農民や商人の子供でも意欲があれば、差別せず教えています。  明治維新後、長州藩の出身者が明治政府の中枢で活躍出来たのも、松蔭の教育のお蔭だと今でも山口県では尊敬を集めています。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
momoko3
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございました。お手数ですが、この辺を勉強できる書物があれば、ご紹介いただけないでしょうか?司馬遼太郎の本はほとんど持っております。

  • ffffffff
  • ベストアンサー率35% (68/194)
回答No.1

 司馬遼太郎の「世に棲む日日」によると「読み書き」だそうです。  普通の寺子屋です。

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