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水戸黄門の飛猿

水戸黄門で飛猿が打ち破る壁の中には小舞竹が入ってませんがテレビ上の演出ですか?

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回答No.2

 水戸黄門のドラマに出てくるシーンは、その殆どが事実とは縁遠い脚色化されて物と思って良いでしょう。先ず、テレビ撮影(映画でも同様だが)に際してチャンと小舞(木や竹を使ったために木舞とも書く)の組み塗られた漆喰壁にしても土壁にしても、此れを破るのには、掛矢(大型木ハンマー)か太い丸太でもなければ不可能です。 又、撮影用としても、こんな骨の入った壁をセットとして作るのも、破るのも大変なことで、役者やスタントマンが怪我をして堪りません。 現在テレビ放映で扱われている時代劇の殆どが、お伽噺か架空戯画の類ですから、仕方がありません。  水戸黄門様の諸国漫遊の旅そのものが誇張も誇張、針小棒大な物語です。徳川光圀(1628~1700年、晩年の雅号は梅里、権中納言となってから水戸黄門さまと呼ばれた)の時代に、お忍びの温泉旅行程度のものは一回ぐらいあったかも知れないが、それでも大行列のはずです。ドラマのようにあんなに半公然と、しかも少人数で旅をすることが出来るほど、諸国が幕府に恭順の意を示していた訳でもなく、写真が一般的でない時代に、黄門様と一口に言っても、すぐに誰だか判る人は、国中数えて何人も居なかった筈です。あんなに広範にしかも堂々と黄門様が歩き回り、行政府のナンバー2のOB、警察庁長官、最高裁判事の様なことを一人で遣っていたら、幕府も水戸藩も、行き先の諸藩に於いても、大騒ぎになり、とても尋常な沙汰では済まなかった筈です。  大体、日本の時代劇と言うもの余り時代考証も無く、江戸時代の服装で、応仁の乱当時の世相・時代背景のチャンバラを遣らせていますが、酷い物です。見る方も判っているので、そこは大問題にはならないところですが、日本人の単旋律式の単純な勧善懲悪思考が蔓延する原因にもなり兼ねません。善と悪の見分け方ほど難しいものは無いのですね。 大体江戸時代で、歴史に残る大立ち回りといえば、赤穂浪士の討ち入りと高田馬場の果し合い程度しかなく、歌舞伎の大一番も此れに尽きます。万事同様に江戸末期の維新前夜までは、江戸は世界的に、比類なく治安平穏な国柄であった、と当時を見ていた外国人は伝えております。 斬り合っても全然血が出ないチャンバラ・シーン、浄瑠璃師か新内節語りの裃のように、やけに幅広な裃を武家が着ているのも可笑しい。  事程左様に可笑しな設定は多々ありますが、時代劇はお伽噺として見て行きましょう。 アメリカの西部劇だって随分なシーンがありますから、お互い様です。  最後に小学校に入りたての頃、小生の生家(戦後の没落庄屋で凄い貧乏をしました。)の土蔵や納屋の取り壊しを見ていましたが、確りした漆喰壁や土壁でも、人が一人通れる穴を空けるのは大変なことで、何か機械や工具・事具を使わなければとても無理です。木製の大ハンマーを使って、大の男達が2~3人掛で壁全体を崩していました。その度に爆破された様な土埃が舞い上がり、目鼻を覆い一緒に涙を堪えながら、『僕んち(家)は、愈々貧乏になって行くのかなー。』と思い悲しくなった記憶が今でも鮮明に残っております。そして戦後のかなりの時期まで、家は本当に貧乏でした。此れは比較の問題で、手に職の無い我が家は、他の家々が豊かになって行くのに追いついて行けなかったのです。まるで今のドイツの旧東ドイツ地区のようです。  そのため小生にとっては『壁の崩壊』は、やがて訪れ来る貧乏へのプレリュードの様なイメージで、此れが60年近く経った今でも払拭出来ないのです。序ながら書き加えました。勝手なおセンチをお許しください。さようなら。

参考URL:
http://www.okwave.jp・
mersess
質問者

お礼

実際の体験に基づいたお話ありがとうございました。参考になりました。

その他の回答 (1)

  • 456654
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回答No.1

佐野浅夫さんの水戸黄門では毎回ありますが、これは演出でしょう。 小舞竹があると、出る時の見栄えがスッキリしないし、時間も掛かると思います。

mersess
質問者

お礼

ありがとうございました。