日本文化の根幹に触れるとても鋭いご質問です。
日本語では、もとんどの名詞は「もの(物・者)」か「こと(事・言)」に置き換えることができます。逆にいうと日本人の思考するすべての対象は「ものごと(物事)」ということになります。
つまり、「~こと」をつけないと、その事物は「もの」になってしまうのです。
《例文1》朝からラーメンのことが頭からはなれない
《例文2》朝からラーメンが頭からはなれない
例文1は、朝からラーメンのことを思い続けていて片時も忘れることができない、という意味です。彼の昼ごはんはきっとラーメンになるでしょう。
しかし、例文2は、ラーメンという物体が頭に(物理的に)付着して離れないことを意味します。ちょっと滑稽で超現実的ですが、こんな表現も可能だとは思います。
つまり、日本語では、事物を表すときに、【その存在が想定されうるもの】であれば「もの」であり、そうでなければ「こと」ということになるのです。これは「もの-のけ」とか「こと-ば」という接頭辞になっても通用します。「ラーメンへの思い」は、その存在を想定できませんからね。
「私のことを好きですか」は「わたし」の精神や行動(おそらく性的な訴求効果なども含む)といった形にないもののことを言っているのです。
これを「わたしを好きですか」といってしまうと、「もの」としての物理的な身体はもちろんのこと「私のすべて」に対する評価をたずねることになります。
もしこの返事が「おまえのことは好きじゃない」であれば、仕事仲間や友達としてだけならつきあえる、ということはあります。しかし「おまえは好きじゃない」といわれれば、それは「殺してやりたい」といってもいいほど「好きじゃない」ということになります。
日常生活では、そこまで好きかどうかをたずねたいとは思わないでしょう。
「私のことぶった」の場合は、普通ぶつのは「もの」でしょうから、少しおかしく感じます。ただ、ふたれた方は「もの」以上の「こと」をぶたれたのだと感じたのかもしれません。
「こと」「もの」は、日本文化としてとても重要な単語です。古語まで調べるとかなりおもしろいと思いますよ。きっと最後は「ことだま信仰」にたどりつくことになるでしょう。
お礼
詳しいご回答をありがとうございました。 これは体で感触できる「もの」と、思想や思考を表す「こと」に、その違いが見られますよね。本当に目からうろこが落ちました。