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皇室における仏教と神道の関係
いつもお世話になっております。 つまらないことで恐縮ですが、よろしくお願い致します。 古来から、天皇の権威は、記紀神話を根拠とし、その地位は神道における祭祀の主宰者と考えてよいと思います。 ところが、中世、近世の天皇の場合、その地位を退いた後仏門に入ることが多かったようです。一方の宗教の主宰者が、他の宗教に帰依するというのは、一見矛盾するようですが、このような行為が長く容認されてきたのは、何か特殊な事情があったのでしょうか。
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一言でいえば「神仏習合」という言葉でくくられる現象でしょう。 ただ注意しなければならないのは、「神仏習合」という時に、多分に「純粋な仏教」や「純粋な神道」というものが一方で観念的に想定されていて、往々にしてそこからの逸脱ないし零落のように現実がとらえられがちになることです。 教義が体系化された現時点からさかのぼって過去のあり方を論じることは、多分にイデオロギー的な見方に堕しやすいものですし、宗教とそれを支えてきた民衆のダイナミズムという根本を見落とすという陥穽にはまりやすいことに充分注意してかかるべきだと思います。 さて、天皇家が仏教に帰依するようになるのは大変古い話です。いろいろな見方ができますが、天武天皇から聖武天皇のあたりで道筋がついたとするのが一般的でしょう。大きくみると、この頃が律令体制の整備の期間であり、仏教が国教化する時期でもあります。 基本的に当時の神道、神祇信仰は氏族や地域に根ざしたもので普遍的ではなく、従って国家的な共有信仰になりにくい面もあったでしょう。 また何よりもまさに自然宗教であったがために、体系的な教義がなく、特に葬送儀礼に関する部分での「魅力」に乏しかったのでしょう(死穢にまみれた死霊の処理は、農耕民族特有の生成思想にはぐくまれて清浄を旨とする神祇思想の最も苦手な分野だったに違いありません)。 実際に、神祇信仰のなかの呪術・シャーマニズムは呪術力増進のために、つまり荒ぶる死霊との対峙のために進んで仏教に近づいたのが趨勢でした。 こういったもろもろの背景が渾然となって仏教の受容を推し進めていったと思います。 もちろん政策としての国教化以前に、天皇個人の帰依が強かったことは言うまでもありません。 例えば天武天皇(686年没)は、亡くなる直前の詔勅で「朕が身不和む。願ふ、三宝(=仏教)の威に頼りて、身体安和なること得んとす」と述べていて、仏教を個人に利益をもたらす力として積極的に支持していたことが伺えます。 特に、「三宝の威」を「かしこきみたまのふゆ」と読んでいるあたり、神道に通じる「みたまふり」観念が仏教に投影されていることは注目すべきでしょう。 天武天皇の葬儀では、僧尼が参列し、設斎(食べ物の布施)が行われたり、大官大寺では無遮大会(むしゃのだいえ;食べ物や財物を布施する法要)が行われていて、仏教思想が葬礼を通じて受容され始めたことがわかります。 東大寺を建てた聖武天皇になると、仏の権威によって国家意思を実現しようとする動きがみられます。しかし聖武天皇とて、大仏にひれ伏して自らを「三宝の奴」と称していますし、没前に出家していますから、個人として強烈に仏教に帰依したことは明白です。むしろ個人の信念が先にたったと理解すべきでしょう。 以後は益々天皇家と仏教の結びつきは強まって行きます。 平安時代、例えば一条天皇などは病気平癒を祈って、大赦(これも仏教思想が核になってできたものですが)を実施し、丈六(5メートル弱)の仏像を造立し、念仏を唱えながら亡くなる…という具合に、ますますその程度は深まっていったのです。 このような実例を見ると、天皇を「神道の主宰者」としてみることが、かなり眉唾に思えるのではないでしょうか。冒頭に述べたように、混じりけのない純粋な神道をはなから想定してかかる態度そのものが、明治政府による神仏分離~国家神道の樹立の背骨となった“イデオローグ”、ないしはその下敷きとなった江戸時代の上古至上型国粋主義から抜け出ていない態度だといえるのではないかと思います。 そもそも「神道」という言葉が文献に初出するのは「日本書記」の用明記とされていますが、これは「仏道」の語が意識されて生まれた言葉なのでしょう。飛鳥時代になって普及し始めたと言われる神社建築が仏教寺院の建立に刺激された所産であるのと同様、「神道」という概念そのものが「仏教」という他者を発見することで生み出されるわけですから、そもそも最初から両者の関係は、机上の教学で分別のむずかしい、ダイナミズムに満ちたものだったのです。 京都東山の泉涌寺は代々天皇家の菩提所であって墓所もあるのですが、そんな程度の事すら実はあまり知られておらず、いわば近世の所産である「天皇家=神道」イメージがいかに強いものか、驚かされます。 神仏の習合という現象は、互いに求め合う必然性があったと私は考えています。神仏習合とは、仏教の側から見れば日本人の根源的な宗教性を吸い上げることで日本的な仏教の花を咲かせたということができますし、神道の側から言えば、仏教から足りない部分を補いつつも仏教と日本人との心根を結びつける潤滑油として機能し、それによって延命した、ということが言えるでしょう。学者の中には、神仏習合がなければ神道が今の時代まで伝わったかどうか疑問視する人すらも大勢いるのですから。
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- shadoworks
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葬儀や死者の霊に対しては仏教というブランド イメージでしょう(日本仏教ならではです)。 神道は病人・死人に対し対処法がないために、 「霊にあなたは存在しないと論理的に説得する」 と言われるお経の利用法が誕生したそうです。 基礎知識として、神道(未完成!)について: 生(ki)地の状態(‐a)がケ(ki+a) で、それに対する柄(がら)を三貴子に対応する 3つに大別、形容詞・名詞の(‐i)を付加して 「ケガレ」とし、日常以外に属する=ハレモノを 管理する・・・はずでした、完成していたら。 「ハレの日」等の非日常分類で誕生祝賀系でも 軍事死別系でもないので、維持義務(責任)系の 月読神らが政治を担当する、というぐあいです。 こういった領域の侵犯を天つ罪(あまつつみ) という最上位の違反とし、それ以外ならより下位 の国つ罪(くにつつみ)やそれ以下に置きます。 日本人の心の中の居場所=価値判断上の役割と 重要性=その神(への信仰)だとすれば、ある時 『平和至上主義』は日本の個性だったわけです。 なしくずし的な領域侵犯が、その信仰を消した (その価値尺度の重みを失わせた)のだとすると 結構、的を得た教義だったのかも知れません。
お礼
確かに、神道って仏教などと比較すると、宗教としての完成度が低いような感じがしますね。もっとも、風雪に耐えてきた、時間の長さが違うのだから、当然といえば当然でしょうか。ただ、体系的な教義がなく、戒律も厳しくないことが、他の価値観と共存できた一因なのかもしれませんね。さらにいえば、皇室が、公家勢力や武家政権などと、長きにわたって共存できた原因もこの辺にあったのかもしれません。大変参考となりました。今後ともよろしくお願いいいたします。
仏教の考えなども神道に取り込んだ方が民衆を治めやすかったためですね、 より強いモノ、奇怪なモノ、大きなモノとか何でも神様にしてしまうプリミティブな宗教観がある日本の特性が強く出たためでしょう(八百万の神々の1つにしてしまう)、 ただ外来の神や神事を取り込んでしまうのは日本だけではありませんよ、 キリスト教のクリスマスは古来ゲルマンやケルト人たちの冬至の祭りですし、 聖人も多神教の影響を受けてます、 天使などもバビロニアの古代神などを取り入れた結果です、 閻魔大王も中国でヒンズー教の神に道教の衣装を着せて仏教に取り込んだカタチになってます。
お礼
確かに、多くの文化が、おたがいに影響しあって、それぞれの形を作ってきたのは、よく見られることでしたね。神道と仏教も、同じように、相互発展してきたのも十分考えられますよね。大変参考となりました。また、ご教示お願いいたします。
- elthy
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専門家でもないですしあまり自信はありませんが、 神仏習合(本地垂迹説)が関与していたのではないでしょうか。 神道と仏教は明治維新までは別々というより、 神道の神社を仏がお守りするとか、 仏が神の姿で現れるとか密接な連携があったんですよね。 中世になると逆に反本地垂迹説というのも出まして、 これは神が元で仏が神の現れであるというもの。 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tkawaka/sintou.htm 要するに仏教→神道とか神道→仏教は同一のものとして スムーズに受け入れられたってことです。 今の日本人も葬式は寺で結婚式は神前で・・とかやってますし、 マリア観音なんてのも平気で作っちゃうお国柄ですし、 昔っから宗教の融合なんかは得意技だったってことでしょうか。 宗教戦争なんかやってる国には信じがたいでしょうね、日本は。
お礼
参考URL拝見いたしました。 大変参考になりました。 今後ともよろしくお願いいたします。
- ThinkPad1124
- ベストアンサー率36% (16/44)
これは「神仏習合」というものです。 歴史関係の辞書を見てみるか、あるいはサーチエンジンで「神仏習合」を検索すると、いくつか出てきます。
お礼
ありがとうございます。 さっそく調べてみます。
お礼
ありがとうございます。丁寧な解説のおかげで、目から鱗が落ちた感じです。やはり、神道は、仏教などと比べると体系的な教義に乏しく、宗教というより、習俗に近い感じがしますね。ただ、それだけに、他の価値観と衝突することも少なかったのでしょうね。 >仏教から足りない部分を補いつつも仏教と日本人との心根を結びつける潤滑油として機能 言いえて妙だと思います。 今後ともよろしくお願いいたします。