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芸術論(伝統との葛藤について)

例えば、 カメラが発明されるまで 絵画は、ありのままを写し取る実用性が強く、 写真の台頭により、芸術性を求めるようになりました。 現代においても 書は、パソコンの普及により、 実用性ではなく芸術性に傾きつつあります。 このような例や、 伝統文化が時代にもまれる例を 教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.3

    「絵画」とか「書」というのは、最初は実用目的であったのですが、考えておられるような意味の「実用目的」とは歴史的には少し違います。絵画で、写真のような肖像画などを描いたのは、「或る特定目的」に従ってで、絵画の実用性や芸術性はもっと広く多岐に渡ります。また「書」にしても、「筆を使って文字を書く」というのは、明治時代か江戸時代ならともかく、昭和になると、段々実用的には減っていたはずです。また、「筆で文字を書く」ことを、「書」と言っていたのではありません。「書」というのは「書道」で、世界的に、文字の装飾的な美や芸術性を追求した「書の芸術文化」というものがあります。単に「美しい文字」を書くのが「書」ではなく、そこに味わい、風趣のあるものを求めたのが中国の「書」ですし、日本の「書」もまたそれに連なります。     それはとまれ、「伝統文化が時代にもまれる」というのは、現代の日本のように、色々な時代や地域の文化、芸術などが、一覧的に眺めることができ、並列されるような状況では、各時代の様式の違いとか、地域による、やはり様式の差などということが、全体の多様性に埋もれて見えなくなっていると言うことがあるかも知れません。「表現形式の多様性」とは、そういえばそうですが、かなり皮相的な見方です。     「伝統文化が時代にもまれる」というような問題については、「不易流行」という芭蕉の芸術論の考えの言葉を元に、「芸術」についての考え方の回答で、過去或る程度詳しく述べたことがあります。以下の参考URLのわたしの回答を参照してみてください。     >質問:芸術/アートとは?   >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=200293     「芸術」というのは、色々多様性があるので展開の余地があってよいなどというものではないとも云えます。それは、芸術というもののエッセンスが分かっていない者の考えでしょう。つまり、真に芸術に値するものは、実は、「伝統」あるいは「伝統様式」との凄まじい葛藤あるいは対決姿勢において成立するのだとも云えるからです。すでに確立された様式の真似をして、それらしい作品を造るのは、所詮、芸術とはあまり縁のない人の趣味でしょう。芸術は、芭蕉の芸術論がそうであるように、もっと真剣な、伝統と切り結ぶような何かなのです。     現在のように、サンプルがたくさんあると、模倣エピゴーネンが幾らでも成立する訳で、芸術が伝統と切り結ぶということの意味も分からなくなっているのかも知れません。     芸術というのは、伝統様式が存在する所に、それに対する反テーゼ、総合テーゼとして成立するものだとも云えます。対決しなければならない伝統の「意味」が分かっていない者には、あれこれ、色々な世界のスタイルを混ぜ合わせて、それらしい一見新しいようなものを造ると、それが芸術創造だという錯覚になるのかも知れませんが、そういう単純なものではないのです。     芸術の「才能のある人」というのはいます。しかし、そういう人が大成するには、若い時の思いつき的な才能の発揮ではすまないで、古典の研究、古典との対決という課題が出てきます。「新しいもの」とは、「古いもの・既存のもの」に対し「新しい」のであって、芸術の表現媒体が多様に拡大されたとしても(例えば、カメラになったとか、映画とかビデオとか、電子音楽編集とか)、それが直ちに芸術に繋がるのではないのです。アマチュアが趣味で色んなことをしますが、それは芸術というには、質がありません。浮世絵と西欧の抽象絵画を総合して新しい芸術を造ったなどと言っても、そんなことは、素人でも試みることができるのです。そういうことをして「芸術」が成立するかどうか、という問題があります。この課題を越えるには、浮世絵の伝統様式や、すでに伝統となった西欧の抽象絵画の様式と徹底的に対決せねばならないでしょう。     対決の出発は、まず、それらの伝統様式をよく研究するということです。自分が乗り越えようとしているものが何か分からないで、そのものを乗り越えることができる訳がないのです。単に、浮世絵調の絵に、抽象画のテクニックを適用してというだけなら、それは、単純な混ぜ合わせで、それでどうかと言うことです。北原白秋のような言葉の使い方で、現代散文詩のようなものを造ってみて、それでどうなるのか、というようなことです。     芸術の展開の歴史を見ると、文化や社会の要請や、技術の進歩なども要因として重要ですが、前時代の主流「様式」を研究し尽くして、それを取り入れた上で、それを乗り越えるという操作が何時でもあることに気づくのです。「乗り越える」という時、それは、空間の把握方法の革新的な創造・発見であったり、色彩の使用法の、従来の様式の枠には収まらない使い方などです。しかし、これらの創造的様式は、ただの思いつきレベルでは、伝統を乗り越えるところまでは行かないのです。     伝統の様式は、それなりの歴史の重みの上にあるので、それを乗り越えようとすると、芸術史の全体を前提にした、あるいは、世界や人間の把握の方法における新しい、十分な重みと「感動性」を持った芸術様式を構築せねばならないのです。     新しい芸術様式の確立者は、伝統と切り結ぶとはこういうことで、伝統芸術は、常に、新しい才能ある者の挑戦を受けているとも云えるのです。また、このような挑戦を受けて、容易に屈しないからこそ、伝統様式として、古典として存在しているのです。     中世やルネッサンス期の絵画や、日本だと(このあいだ……数ヶ月前……TVでやっていたのですが)「源氏物語絵巻」の科学的調査と、元の姿の復元という作業が、近年行われています。「非破壊検査」を行って絵画などを調べることのできる技術が開発されたので、どういう風に絵画を制作したのか、すでに古くなって画面からほとんど消えてしまった部分や、また、塗り潰されていたので分からなかった制作順序や、制作の方法などが解明されています。     この調査結果などを見ると、「普通は見えない部分」で、もの凄い努力がなされているというか、伝統の技法を十全にマスターした者が、その技法の上に、新しい自分の技法を創造しているということが如実に分かって来ます。絵画などをぱっと見る時、そこに感動」や「感銘」が起こる時、それは何故だろうか、という疑問が出てきます。文学などでもそうで、何故、素晴らしいと思ったのか、反省して考えると、色々理由が出てきますが、実は、そのような理由の発見を越えた次元で、作者は精緻かつもの凄い努力でスタイルを造っていることが、研究していると分かって来るのです。     どういう技術・技巧を駆使したかが分かるのは、当の芸術家だけだという場合もあります。もっと後になって、解析の技術が進んで来ると初めて何であったかが朧に分かるということもあります。     キーファーという画家がいて、わたしは、この人の絵の実物は見たことがなく、本などの印刷複製でも見たことがなく、jpegの画像で見たのですが、何か意味不明な変な絵なのですが、凄まじい「戦慄感」が見ているとあるのです。何故、「戦慄感」が起こるのか、知人と話したのですが、これは、元に、見ると恐ろしいような絵が描かれていて、それをほとんど塗りつぶす形で、上に別の絵を描いているのではないかと、いう考えがありました。また、絵の具に「血」を混ぜているのではないかという話にもなりました。     意識は、何か分からないのですが、無意識は、見えないはずの塗りつぶされた絵を見ている、あるいは、血がキャンバスに塗られていることが分かる、ということで、意識に、「理由の分からない戦慄感」が生まれるのではないかということです。こういう技術は過去にもあるのですが、使い方が、独特なのだとも云えます。誰かがそれを真似をしても、キーファーの絵にはならないという所がおそらくあります。(何か別のことを、もっと分からない所でやっている可能性があります)。     ここでキーファーや、また別の現代画家であるイェイツなどは、過去の伝統と切り結んで新しい自分の様式を作り出したと云えるのです。「芸術の多様な可能性」という言葉はあっても、真に芸術の名に値するものは、そう安易には創造できないのです。     >伝統文化が時代にもまれる例を     これは、以上に述べて来た、芸術の新しい創造が、伝統様式との切り結び合いだということよりも、むしろ、伝統芸術や伝統文化が、通俗的多様化や、新しい表現媒体によって、その本来の価値が見えなくなって、エピゴーネンやイミテーション作品や、大部分ごみとなるような、皮相な、新しい試みなどが氾濫して、本来の伝統とは何だったかが分からなくなる事態でしょう。現代において起こっていることがこういう事態でしょう。印象主義とはこういうもので、シュールレアリスム絵画はこういうものだ……と誰でも分かったような気分になって、しかし「固有の創造的意味・芸術的意味」は閑却されるという事態でしょう。     時代が経過すれば、偽物は淘汰されて消え、本来の伝統が残り、また伝統と本当に切り結んで創造を行った芸術が、新しい伝統として残っているのです。こういうことの繰り返しだとも云えます。   

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=200293
noname#190451
質問者

お礼

詳しい解説、非常にありがとうございました。 また、URL、参考になりました。 本当に感謝です。 もっと、芸術について考えていきたいです。

その他の回答 (2)

  • tokabe
  • ベストアンサー率43% (27/62)
回答No.2

建築の側から例を挙げますと,最近,茅葺民家の保存運動が各地で起こっています.メンテが楽なプレハブ住宅がどんどん増えて,いまや農村もプレハブだらけです.民家再生のワークショップなどに行くと,地元の人の多くが「なんでわざわざこんな古いものを...」と訝しげです.ただodd-artさんもおっしゃっているように,新しいものがすべて実用性のみを重視しているわけではなく,若い建築家が民家をアーティストのアトリエに改造したりと,現代の技術を使ってより芸術性を高めたりしています.写真の例もそうですし,いまとなってはパソコンで作ったものが芸術でないとは言えないと思います.

noname#190451
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。 事例があってわかりやすかったです。 もっと、いろんな面から考えたほうがいいのですね。 どうもありがとうございました。

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.1

 これは、rataryさんの自論なのでしょうか?  私は、写真は記憶媒体、情報伝達媒体等であり、写し方においても芸術性を見出しております。  一つの新たな技法に過ぎないと存じます。  絵画も、洞窟壁画から、色々と技法も変わり、主旨も変化して参りました。  描き方も、写実から抽象まで幅広くなってきています。それだけ、自由になり、縛られる必要も無いのです。  映像技術が芸術性をおび、発達すれば、また、そこから違ったものが出る可能性も有ります。  選択肢が増えた事はいいことでしょう。伝統とは、何でしょうか?  今も、浮世絵があり、大和絵、写実主義がありますし、贋作は過去のものを真似ております。文化保存と称して、修理も致します。過去のものは、もう貴重価値なのです。  芸術は、価値観等の違いだけでしょう。

noname#190451
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。 事例があってわかりやすかったです。 もっと、いろんな面から考えたほうがいいのですね。 どうもありがとうございました。

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