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源氏か、平氏か?

私は、出自が単なる水呑百姓ですから、分からないのですが、現代にも、「源氏か、平氏か?」という、出自が問われるというか、あるいは話題になるような、あるいは、例えば現代社会の支配構造にも関係しているというような事案はあるのでしょうか?実態が分からないので何でも構いません。教えて下さい。 あるいは質問の仕方自体も理解してもらえない部分があるかも知れませんが。 ゲンジボタルとヘイケボタルというのがいることは知っていますが。(*^_^*)

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  • eroero4649
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回答No.4

美智子妃が「平民の出身」と話題になりましたが、直系の先祖があの武田家で、武田家は由緒正しき清和源氏です。 だから平民出身とはいえきちんと由緒正しきお家柄でらっしゃるのですが、当時のお公家の皆さまにとってはお気に召さなかったようで・・・ あともし誰かが今からでも征夷大将軍とか太政大臣とか関白になりたいなら出自は問われると思います。たとえ名目上に過ぎないとしてもね。 おそらく我々しもじもの関わるところではそういうのはないでしょうが、皇室が関わる世界となるとそういうのが関係してくると思います。例えば、そのへんの血筋がきちんとしていないと宮内庁職員にはなれないとか、なれても出世はここまでと決まっているとかね。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 やはり、こういうことを知っておられて、ご回答を下さる方がおられるということは、何かしら、脈々と受け継がれている地下水脈みたいなものは、私たち一般庶民の意識しないところではあるのですね。(*^_^*) ただ、日本の政治や経済の支配の構造にどの程度影響を与えているのか、あるいは与えていないのか……という疑問が湧いてきたのですが、今日の日本を考えた場合、どうも源氏や平氏というよりも、明治維新以降の支配階級の形成とその後の経過をたどっていくことの方が、理解を深める上で重要な要素ではないか?という気がしてきました。

その他の回答 (4)

回答No.5

源氏は系統が多すぎますね 清和源氏 村上源氏 嵯峨源氏と色々います しかし平氏は桓武天皇からしか出てないので どちらかというと平家の方が由緒正しい気がします 最初に天下を取ったのは平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→北条時政(平氏)→足利尊氏(源氏)→織田信長(平氏)→豊臣秀吉(平氏・藤原氏)→徳川家康(源氏) ※秀吉の場合は系統ではなく養子に入ったので名目だけ とこのように代々の天下人はみな源平の血筋を交代で受け継いでいます ちなみに現代にも関係あるようです 政治家 特に総理になるような人は先祖の血筋とかで決められたり というのがまことしやかにあるようです

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「ちなみに現代にも関係あるようです 政治家 特に総理になるような人は先祖の血筋とかで決められたり というのがまことしやかにあるようです 」……興味の尽きないところですが、やはり私のような一般庶民にとっては「まことしやかに」という域を出ない世界なのでしょうね。

noname#224207
noname#224207
回答No.3

公的にも私的にも出自が源平のいずれかと直接問われるケースはまずないかと思います。 一方でメンタルといいますか、伝承に基づくものはそれこそ掃いて捨てるほどあります。 郷土愛、お国自慢の種になっています。 有名なのは平家の落人伝説に基づくものがあります。 平家の落人 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/平家の落人 最近の村興し街興しなどで観光客誘致のために盛んに使われています。 平家落人伝説 / 知る / 椎葉村観光協会 www.shiibakanko.jp/shiru/heike.html 名所・旧跡めぐり 第1景 東祖谷村 東祖谷村 平家落人伝説 heike-rekishikan.jp/heike1-1.htm 平家一門の守護神だった厳島神社は世界遺産にまでなっています。 厳島神社 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/厳島神社 源平の氏族という一括りではなく平将門のように個人に纏わる伝承も沢山あります。 神田明神の祭神は本来は将門ですが、明治政府に遠慮して急遽祭神を変えたということもありました。 御神徳 御祭神 - 神田明神 www.kandamyoujin.or.jp/profile/jintoku.html 抜粋 まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。 将門の首塚がある大手町では、首塚に尻を向けて座った課長が次々と不慮の死を迎えたという都市伝説も健在です。 千葉県北部と周辺の旧下総国地域には伝承や習慣が沢山残っています 別冊 妙見菩薩 平将門関連 - 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市 www.ensenji.or.jp/contents/upload-docs/20148516950.pdf 将門を射殺した矢が南天であったことから南天は植えない、とか、将門と影武者との見分け方を密告したのが桔梗の前という女性だったことから桔梗は植えないなどという所もあります。 成田山新勝寺は将門調伏を祈祷した寺だということからお詣りはしないという人も沢山います。 義経が生き延びて蝦夷地へ渡って行ったという伝承は古くから沢山あります。 この話が拡大して成吉思汗は義経だったというところまで拡大しています 義経=ジンギスカン説 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/義経=ジンギスカン説 お正月の百人一首の遊び方に源平合戦というチーム戦方式があります。 百人一首の遊び方 pws.prserv.net/math/hyakuply.html ゲンジボタル、ヘイケボタルということであれば平家蟹という蟹がいます。 平家蟹|観光情報|山口県の旅行・観光情報 おいでませ山口へ www.oidemase.or.jp/tourism-information/spots/15841 蛇足 「出自が単なる水呑百姓ですから」とされておられますが、水呑というのは身分呼称です。 単なる蔑称ではありませんでした。 水呑であったことが立証できれば、ヒョットすると源平に繋がる素性の可能性があります。 栄枯盛衰は世の常です。 秀吉だの信長だの家康だの氏素性の定かでない人間に席巻された結果かもしれません。 信長は平氏を家康は源氏を勝手に名乗っただけです。 武力と権力にものを言わせて名乗っただけで、だれも反対しなかっただけの話です。 源平の末裔というのは一族全員が源平では紛らわしいので、夫々の居住地の地名を苗字としました。 現在も親戚どうしでは、札幌の叔母さんとか鹿児島の伯父さんというのと同じです。 まぁ~明治の初めに自己申告で苗字を決めた時代がありますので、何とも言えない部分はあります。 とは言え、もし菩提寺の過去帳が残っていれば、可能性がありますので、調べてみては如何でしょうか。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 私も、これまでの人生経験の中で、「公的にも私的にも出自が源平のいずれかと直接問われるケース」はありませんでした。問われるようであれば、それこそ出自の分からない怪しげな家系図なるものを後生大事に持っていたかも知れません。(*^_^*) 「蛇足」の部分は大変興味深く読ませていただきました。でも今更「元士族」なんていっても、由緒ある大名家でもないし、菩提寺と言っても、遠く離れていますし、あの「お寺」に過去帳なんて聞いたこともありませんから、詮索するのは止めときます。(*^_^*)

  • kantansi
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回答No.2

源氏も平氏も武士(士族)の元祖です。 武士が大手を振って歩いていた時代ならともかく、明治維新以後、源氏か平氏かなどと言う話は出なくなったでしょう。 士族と言う概念自体は第二次大戦前までは存在していましたが、士族はせいぜい総人口の4-5%ゆえ、一般的な話ではありません。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 kantansiさんのおっしゃるとおりです。特に、維新以降、これまでの武士階級とは異なった新しい上流社会が形成されたと、私は認識しています。 ただ、kantansiさんのおっしゃる「4-5%ゆえ、一般的な話ではありません。」というものが、現在でも社会の底流として、人知れず厳然と生きているのではないか?もしそうだとすれば、その一端を教えていただきたいというのが質問の趣旨でした。

  • maiko0318
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回答No.1

紅白に分かれての競技が全て源氏と平家から来ています。

noname#205122
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました。 「紅白に分かれての競技が全て源氏と平家から来ています。 」……なるほど、そのような面があるのですね。そういえば、1本に赤と白の花を同時に咲かせる樹にゲンペイウツギ?という名前の樹があったような気がします。 今はどうなっているか知りませんが、昔、小学校、中学校の運動会で、しかも、最終演目として、騎馬戦をやりましたが、あるいはやらされましたが、(*^_^*)あれは、武田信玄と上杉謙信の「川中島の戦い」を模しているのでしょうから、騎馬戦というのは、「紅白に分かれての競技」ということにはならないのでしょうね。また、ひとつ新しいことを学びました。

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