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キリスト教で神秘主義が危険とされた理由
キリスト教で神秘主義が危険とされた理由は何ですか?わたしの理解では、神と我との合一をよしとする信仰は、それなら教会の存在理由がなくなるわけで、支配者側にとって不都合だから弾圧した、と考えました。
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全くその通りだと思います。 イエス・キリストの他者への愛と奉仕の教えは素晴らしいですし、歴史上に聖人といわれる素晴らしい修道士や尼僧が多数存在したことも知っています。 彼らの教えへの帰依と、その犠牲的な尊い行いは、大変素晴らしいものですし、感動すら覚えます。 が、しかし、それでも教会としてのキリスト教には疑問を感じます。 歴史的な検証は私には無理ですが、こんな記述があります。 ・・はるか遠くに遡ってイエスの時代のすぐ後に設立された教会を見習う必要があります。 当時、教会には、わずかな期間だけではありましたが、真の意味で民衆をわが子のように世話せんとする気概がありました。それが霊の道具である霊媒を追い出したときから道を誤り始めました。 325年(ニケーア会議)以前より霊媒を教会より追い出そうという動きはありましたが、325年に霊媒と聖職者の分離が決定的になりました。 が、霊力の道具である霊媒を追い出すことによって、霊力を失い、聖職者が運営するだけとなった教会は次第に尊敬を失い始めます。 もともと、聖職者は神の道具である霊媒とともに仕事をする者として尊敬されていたのです。 自分でも霊媒と同等の価値を自覚していました。 その仕事は俗世の悩み事の相談にのり、霊媒が天界からの教えを述べ伝えるというふうに、民衆が二種類の導き、すなわち、地上的問題について霊と聖職者の双方からの導きげ得られるようにしてあげることでした。 ところが、優越感への欲望が霊媒を追い出し、それと一緒に教会に帰属されていた権威までも全て追い出すことになりました。 そのとき以来、衰退の一途をたどることになったのです。・・・(中略) イエスは当時の聖職者階級から自分達と取って代わることをたくらむ者、職権を侵す者、社会の権威をないがしろにし、悪魔の声としか思えない教説を説く者として敵視される身となりました。・・・・・(中略) のちに2000年近くにわたって説かれる「新しいキリスト教」が誕生しました。 それはもはやイエスの教えではありません。 その背後にはイエスが伝道中に見せた霊の威力はありません。 主教たちは病気を治療しません。 肉親を失った者を慰める言葉を知りません。(霊的世界のことに無知なので) 憑依霊を除霊する能力を持ち合わせません。 彼らはもはや霊(神)の道具ではないのです。 (シルバー・バーチの霊訓 3巻より要約) 如何でしょうか。 もう明らかですね。 神秘主義とは霊力(神の力)のことであり、新しいキリスト教が持ち合わせていなかったために、もっとも自分達を脅かすものだったのです。 だから彼らは霊力のある者を悪魔の遣いとして徹底的に弾圧しました。 どんなに素晴らしい聖職者がいたとしても、教会という組織は、教会の権威を保つために、組織としてのキリスト教を維持するために、霊力を敵視したのでしょうね。 ただ私は、日本のキリスト教には、こんなネガティブなエネルギーはあまり無いように思えます。 やはり日本的キリスト教なのでしょうか? 参考になれば幸いです。
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- kigurumi
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神秘主義とは『神の存在を信じる』とか『人智の及ばない何かの存在を信じる』などですから、『全知全能の神の存在を信じなさい』と、布教してきたキリスト教が、その教会の根本中の根本である神秘主義を否定したとは知りませんでした。 考えてみますと、伝道の起こりが集団幻覚を見たという神秘から始まったわけで、キリスト教を公認したコンスタンティヌスすら、夢の中でXP(始め 終わりという意味)を見て、軍勢的に負けがもう決まっている戦いにおいて、その神秘を使い兵士を奮い立たせ勝ってしまったのですから。 支配者にとって不都合だから弾圧したのではないかという見解は私も同意します。 コンスタンティヌスの時代は皇帝が乱立し、4人くらいの皇帝が勢力争いをしていました。 コンスタンティヌスは、その中の一人の皇帝で、ビザンチン帝国というものを作り、小さな田舎町である今のイスタンブールに拠点を構え、そこからトーナメント制で、他の皇帝を倒していきました。 他の皇帝や民族が納めている土地は、金の産地だったり、肥沃な農耕の大地だったので、そこを手中に収める必要があった。 何度か領土を他の勢力から奪われながらも、キリスト教を利用して拡大していきました。 キリスト教が来る前のその領土は、古代より土着宗教がその土地の人びとを守ってきました。 その彼らから土着の神を奪い取り、別のものを抱かせ崇拝させれば攻略が楽になるわけです。 それで土地の守り神を悪魔だとして、人びとにその信仰心を捨てさせました。 古代において各地には女神信仰がありました。 女神の体現者である巫女が踊り啓示を伝えるという感じでした。 紀元前3500年頃を最後にそれは消えてしまいました。 しかしその片鱗は各地に土着宗教として残っており、父権社会の象徴であるキリスト教から見ると、その土着宗教は理解しがたいもので、理解不可能=神秘→悪魔→弾圧 という構図になったのではないかと思います。 要するに現代も女性は男性から見ると「なに言っているのか 何の目的でやっているのか なにをお互い喋っているのかわからない」でしょうから。 古代においては男女が平等で一人の巫女により統率されていましたが、父権社会になったとき、明らかに女性は下にさげられ、巫女は邪悪な妖術を使う魔物だとされ、それでキリスト教は占いなどをやる人たちを火あぶりにしてきたわけです。 真剣に聖なる女神の体現者である巫女をも魔女だと思ったようです。 父権社会が増幅すると侵略が起り、戦争が起り、衛生環境は悪化し、伝染病が蔓延する。 するとまたそれを魔女の仕業とした。 いくら女性達や占い師たちを火あぶりにしたところで、伝染病や侵略や争いはなくならないのですが、当時の人々は支配者の洗脳と、抑圧され「貧しい暮らしの原因は魔女たちのせいだ 邪悪な者たちのせいだ」と摩り替えられ、悲劇は起ったようです。 豊穣の女神崇拝を捨てたのですから、その報いは当然彼らにふりかかり、さらに飢餓が進んで争いは今日まで続いている。 とまあ、支配階級制度は支配者にとって好都合ですが、地球規模で考えると破滅の制度なんですよね。 宗教が階級制度を現実持っている限り、人に明るい未来はやってこないと思います。 カトリックは階級制度を作り上げ、教皇は神の代理人とし、教皇のみが神と対話できるとし、神からの言葉をその下の人に伝え、その人がさらに自分が支配する下の人々に伝え・・・という教皇の意思を(一応神の意思と信者は思わなければならない)下の支配される人たちに伝えていったわけです。 (軍隊と一緒) プロテスタントはそういう階級制度に反発をして生まれ、「一信者でも上の人を通さず、直接神と対話していいんじゃないか」としたわけです。 しかし、プロテスタント信者が直接神に問いかけず、通っている教会の牧師の説教を神の啓示と思っていたりもして、結局 人は支配されることで安堵するという特徴があるように思います。 宗教も結局 支配されたいという欲望を持つ人間が考えた道具だとしたら、人間の悲しい性ですね。 というわけで、えっと、、、キリスト教は神秘主義により始まり、他の神秘主義を否定して、自分達の神秘主義のみを受け入れろとやってきたという歴史なので、あなたが言うように神秘主義は支配者にとって都合よく利用してきた道具であり、使い方によっては人を殺す兵器でもあり、諸刃の刃であるってわけですね。 それを使ったものは自らもその刃に倒れる定めなわけですね。
- Gantz10
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「神秘主義」を、儀式や修行で神と直接コンタクトが取れるとする考え方だと、ここでは規定しましょう。(ほんとうはあなたに規定して欲しいのですが) で、キリスト教、特にカソリックでは、神とコンタクトが取れるのは教会のみであるという立場で、教会の権威を主張し勢力を拡大してきました。この立場からすれば、勝手に神にコンタクトできてしまう「競合他社」に乱立されてしまうと、教会の権威が無くなります。 それゆえに、弾圧しなければなりませんでした。弾圧するために、危険というレッテルを貼ったわけですね。 結論として、あなたの認識でほぼ正解です。 「支配者側」という言葉を使うと、いわゆる俗世の支配者の方が連想されてしまうので、そこがやや問題と思います。「教会にとって不都合」と言うべきでしょう。 そういう組織論の他、創造論を旨とするキリスト教神学においては、神は人とは隔絶した存在です。従って神と人が合一などすることはあり得ませんから、そういう思想的な意味でも異端視されてもいたでしょうね。 ネストリウス派などは、マリアの神性を認めないで善良な女と見なした点で破門されて、シナまで逃げなければならなかったくらいですし。聖徳太子の頃の話ですが。
- wei
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神秘主義というものはわかりませんが、でも、下記の文をよんでほしい、すみません キリスト教には、支配者階層なんか、まったく存在していませんっていうことを、まず、わかってほしいことなんです、そして、いわゆる、支配者のいちにあるみたいの階層は、神様の僕であって、尊敬すべき方々だとおもいます、(カトリック教には、確かに、はっきりした階層差があるけど、それは、聖書での主張とは、食い違いがあります)が。確かに、キリスト教には、祈ることを通して、神様との関係をより一層したしくして、そして先方のいったような、いわゆる 神と我との合一になろうとして、がんばってる信者たちがたくさんおりして、神様との関係をすごく重視しますが。けど、それは神様との合一をよしとする信仰神様だけではない、キリスト教は、隣人愛を唱える宗教だから、自分だけすくわれてよい、他人のことは、一切しらないというわけではなくて、自分が幸せになったからこそ、他人にもその幸せ味わってほしい、その幸せの持ち主になってほしいとおもってるから、たくさんの自分の命もかまわない伝道者や牧師さんが歴史上に、続出してきました、教会の存在がないと、支配者側に不都合になるわけではありませんで、教会は福音の伝播の原点で、その原点から、神様のすばらしいお知らせを世の中の人々に伝えていく役目を司ってます、地上の諸教会は、我の肢体なり って主は聖書でも明言しました、このとこからみて、教会の存在、そして、発展も、聖書のみことばに基づいて、必要のことではないでしょうか 。すみませんが、日本語あんまり上手ではなくて、間違ってるところは、たくさんおりまるじゃないか、でも、一応我慢して、よんでください。