活用語尾を送るという原則に則るなら「短すぎる」という表記が適切であり,
これに違和感を感じるのは間違った思い込みに基づくものとの結論に収束しつつあるようですね。
1973年の内閣告示を規準とする現代の表記ルールを前提とするなら,これは正論でしょう。
だけどやっぱり腑に落ちない。
「みじかい」は「短い」と書くけれども,
「みじかすぎる」は「短かすぎる」と書きたくなる人間のひとりとしてあえて一石を投じるべく,
「短かすぎる」や「短か過ぎる」という表記を文学作品や公的な文書の中に探してみました。
まず文学作品ですが,有名どころでは
夏目漱石の「吾輩は猫である」のなかに「短か過ぎる」という表記の例があります。
明治じゃいくらなんでも古すぎると言うなら,昭和の作家,
たとえば中島敦の1942年(昭和17年)の作品「狼疾記」にも「短か過ぎる」は登場します。
もっと最近のものとしては,
戦後の教育を受けた松任谷由実の1983年(昭和58年)のアルバム「VOYAGER」に収められた
「TROPIC OF CAPRICORN」という作品に「短かすぎる命は 短かすぎる命は」というフレーズが出てきます。
一方,誤用の宝庫といわれるWeb上の用例を検索してみると,
たしかに「短かすぎる」や「短か過ぎる」は少数派なのですが,
詳しく見ていくと公的機関のサイトでの用例が結構ヒットすることに気がつきます。
いくつか例を挙げると,
環境省HPの中央環境審議会議事録,
首相官邸HPの税制調査会報告書,
内閣府HPの大臣記者会見要旨,
公正取引委員会HPの事務総長定例会見記録,
文部科学省HPの中央教育審議会議事録,
国立公文書館HPの所蔵資料紹介,
さらには国語学会(2004年に日本語学会に改称)のサイトに学会誌から転載された記事なんてものもあります。
このような用例は単なる誤用と斬って捨てられるべきものではないように思います。
入力時にデフォルトでは変換されないはずの「短かすぎる」,「短か過ぎる」という表記が
公的機関のサイトでこれだけヒットすることの裏側には
このような表記を適切と感じる人々が比較的教育水準の高い層の中に一定数存在することを窺わせます。
私は1959年(昭和34年)の内閣告示以後に小学校に入学し,
1973年(昭和48年)の内閣告示以前に小学校を卒業していますが,
自分がどのように習ったかの記憶が定かでないため自信を持ってお答えできないのが残念です。
「暖かすぎる」や「細かすぎる」からの類推で「短かすぎる」のほうが収まりがいいと感じるのかもしれません。
ある時期まで「短い」と「短かい」という表記が併存し教育現場でも許容されていた可能性もあると思います。
実際,戦後の文部省の方針自体に揺れがあり,
1946年(昭和21年)に文部省国語調査室から出された「送りがなのつけ方(案)」では
なるべく読みやすいように送りがなを多くする方針で
「暮らし」,「合わす」,「生まれる」といった表記が採用されたのに対して,
1950年(昭和25年)の「文部省刊行物表記の基準」では語幹の次から送るという原則に立ち,
「暮し」,「合す」,「生れる」といった表記が採用されているといった事実もあります。
どなたかが根拠となるような資料を見つけてくださることを祈ります。
最後に。
Web上では「あたたかすぎる」を「暖すぎる」もしくは「暖過ぎる」と表記する例が増えており,
「暖かすぎる」や「暖か過ぎる」という表記を凌駕しつつあります。
内閣告示では「暖かい」というように「か」から送る表記が採用されているにもかかわらずです。
ひょっとすると日本語の送り仮名は淘汰圧を受けて文字数を減らす方向へ進化(退化?)しつつあるのかもしれません。
お礼
回答ありがとうございます。