以前、吉川幸次郎全集で「支那人の古典とその生活」という文章を読んだことがあります。その中でこんなことを述べた箇所がありました。
中国人の精神の特質は「感覚への信頼」であり、感覚を超えた存在に対しては、あまり信頼は置かない。
具体的に言うと、
・古書には死後についての記述が乏しい。死後の生活という感覚を超えたものに対しての冷淡な姿勢が窺える。
・神話に乏しい。天地万物の成り立ちの説明を古書から捜すのは難しい。ここでも感覚を超えたものへの関心の低さが窺える。
・中国における小説の不振。小説は感覚に触れる世界を模倣するが、作り話である点で、本当に感覚に触れた史実とは同じでないため、常に不健全なものと考えられた。
こういうふうに感覚を超えた世界に信頼を置かない民族にあっては、常にその生活の法則を、既に発生した事実、すなわち先例に求めやすい。
中国古典の柱である儒学は先例重視を一つ特徴としますが、もう一つの古典の柱である史書に対する位置づけも、政治に資するための重要な「先例」であり、帝王学や経世のテキストという認識だったようです。
未来に処するにあたって、輪廻などの宗教思想や占星術などの感覚を超えたものより、歴史という先例を重視するリアリスティックな姿勢や何事も政治に収斂していく伝統が、史書(正史以外の『左伝』や『戦国策』なども含む)に見られる人間群像の多彩な描写やひいては執拗とも思える権謀術数の記述につながっていったのではないでしょうか。
あと、加地伸行という先生が『史記 司馬遷の世界』でこういう見方を提示しています。
中国の言語は概念語が主体で、「我読書」という三文字は各字が概念語として機能しつつ、三文字で一つの意味をなしている。こういう言語だから、正確な意味を相手に伝えるためには、一字一字の概念をはっきりさせる必要がある。その一つの方法として、相違をはっきりさせるため文字を変えて分別する、例えば住居を示す場合、「宮・殿・堂・館・家・室・宅・亭・軒・斎・屋・房・廬・窩・窟・・・」
こうした言語背景から特色ある文化を生み出し、その例を歴史にも見ることができる。中国人が、歴史を詳しく事実記録しようとするのがそれである。
歴史は、もとより人間世界である。その人間世界を分別し分別し、窮極のところに至ると、個人になってしまう。その個々人を描いている典型が、列伝である。
お礼
> こういうふうに感覚を超えた世界に信頼を置かない民族にあっては、常にその生活の法則を、既に発生した事実、すなわち先例に求めやすい。 そういえば中村元先生も「シナ人の思惟方法 」で似たようなことを書いてるのを思い出しました。 納得です。