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hidden curriculum(潜在的カリキュラム)について
教育問題との関連で、hidden curriculum(潜在的カリキュラム)とはどういうものなのでしょうか?またこの重要性は何なのでしょうか? 「明示されない価値の伝達システム」「社会の再生産システムとしての潜在的カリキュラム」などと絡めて教えていただけないでしょうか?
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「潜在的カリキュラム」 というのは、社会学に関連する概念です。教育の意味をとらえるのに、社会学的なアプローチや分析が有効であることがしばしばあります。不可欠とさえいえるかもしれません。「価値の伝達システム」 とか 「社会の再生産システム」 というのは、社会学の用語です。これらは教育システムのある側面に名前をつけただけのものにすぎませんが、そうすることによって、はじめてそれらの側面に光をあてることができたというわけです。(教育) 社会学者は、統計分析などを根拠にして、そうした側面こそが教育システムの本質であると主張します。それを頭から否定するのは難しいようです。 さて、学校教育の課程は、ふつう顕在的なものとして意識されています。つまり、教育の目標や内容はこと細かに法令や学習指導要領、学則、狭義の学校教育課程、教員の指導計画などによって明示されているわけです。しかし、そこには暗黙の前提もあれば、(よきにつけあしきにつけ) それらが意図しなかった教育的な結果をともなうこともあります。それが 「潜在的カリキュラム」 といわれるものです。 その具体例はたくさんあるので、しばらくご自分で考えてから検索してお調べください。ひとつ例をあげておきます。学校の授業では、特有のことばづかいが要求されます。いわゆる標準語とよばれるものです。わたしは地方出身なので、小学校にあがったときにいくらかショッキングな体験をしました。方言では何でも自分の言いたいことを表現できる友だちが授業ではたどたどしい標準語しか話せなくて寡黙になり、近所で遊ぶときにはみんなのリーダーである子どもが学校では優等生になれなかったのです。優等生とは学校的な価値を身につけることのできた子どもである、といういいかたもできますが、学校の優等生であることがすなわち絶対的に優れているとか賢いということでは必ずしもないかもしれない、と子ども心に疑問をいだいたわけです。標準語を学校教育の前提とすることは、つまり、方言を貶めることによって子どものもっとも身近な価値を否定し、子どもの自信を打ち砕いて萎縮させることではなかっただろうか。これが、今でもわたしにはネガティブに感じられてならない 「潜在的カリキュラム」 の一例です。 もちろん、あらゆる点で本当に優れた優等生はたくさんいると思います。ただし、そのより多くは学校教育と価値観を共有する家庭環境 (たとえば、ことばづかい、娯楽、教養、感性における環境) に育った子どもであるという研究報告があります。これは、学校教育制度がその実態において、 「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないのであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」 (教育基本法) といった建前とは異なっているということを意味します。P.ブルデュー Bourdieu の一連の著作、とくに 『再生産』 についてお調べください。また、M.アップル Apple の研究もあります。これらは、「社会階層の再生産システム」 というべきものです。 たんに 「社会の再生産システム」、 「価値の伝達システム」 という場合には、学校で暗黙のうちに教わること (たとえば、 3Rs ― Rules, Regulations, Routines ― P.Jackson などの行動様式) が、明示的に教わること (科目の内容など) に劣らず、 「国家及び社会の形成者」、「国民」 (教育基本法) を育成する上で重要なのだ、ということかもしれません(ポジティブな 「潜在的カリキュラム」)。当然のことながら、現代的なカリキュラムでは、 「潜在的カリキュラム」 を顕在化したりネガティブな面を修正しようとする試みも活発に行われているようです。 わたしが社会学をかじったのはずいぶん昔のことなので、最近の、とくに国内の教育分野での研究については、まったく言及できませんでした。さらに 「教育学辞典」、 「社会学辞典」 などを調べてみてください。
お礼
お返事ありがとうございます。子どもの成長のためにはこの「潜在的カリキュラム」というものが重要になってくるのですね。ありがとうございました。